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道新セクハラ疑惑書類送検の記事お知らせ

3月18日発売の『週刊金曜日』のアンテナ欄に、北海道新聞函館支社セクハラ疑惑について書きました。
被害者の1周忌の1週間前に、社員が書類送検され、ご両親がその思いを語っています。

こちらで読めます。


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by k_nikoniko | 2016-03-22 09:17 | 掲載記事(2011~)

「北海道5区補選で野党統一候補」記事掲載のお知らせ

本日(3月11日)発売の『週刊金曜日』に、衆院北海道5区補欠選挙について書きました。
「北海道5区補選、市民の力で野党共闘、国政で初対決」
よかったらご覧ください。
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by k_nikoniko | 2016-03-11 08:19 | 掲載記事(2011~)

「言論の自由」をめぐる記事が『北方ジャーナル』に

本日(2月15日)発売の『北方ジャーナル』に、「言論の自由」に関する記事が掲載されてます。
よかったらご覧ください。
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by k_nikoniko | 2016-02-15 08:43 | メディア

セクハラ記事掲載のお知らせ

現在発売中の『週刊金曜日』(12月25日号)に、北海道新聞のセクハラ事件についての記事を書きました。
合併号のため、1月7日まで書店においてあります。
よかったらご覧ください。
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昨年12月8日、北海道新聞函館支社の忘年会で嘱託看護師の女性がセクハラ被害に遭い、2か月後の2月21日、彼女は自宅の火災による一酸化炭素中毒で亡くなりました。
被害者は亡くなる前日、北海道内のメディア8社を含む13か所に、会社のセクハラ対応を批判する告発資料を郵送しています。

今回のケースは、セクハラ行為そのものもさることながら、企業に相談したにもかかわらず、適切な対応がされなかったために、被害者が追い詰められていったのが、被害者の告発文からわかってきました。

男女雇用機会均等法でセクハラ対応が措置義務化されたにもかかわらず、企業のセクハラ対応は杜撰で、セクハラに遭った被害者が救済されていない現実が見えてきました。

ジャパンタイムズにもこの件で記事を書いています。
切り口が若干違うので、あわせてお読みいただけたら、より詳しくわかるかと思います。
Sexual harassment at bōnenkai, inept handling, a suicide
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by k_nikoniko | 2015-12-28 10:15 | ジェンダー

朝鮮学校サッカー部の監督に(『希望』)

「生徒はヤンチャでしたけど、なついてくれました」 藤代隆介 北海道 37歳

--サッカーの選手と指導者を育成する石川県金沢市の専門学校・ルネス学園で北海道出身の在日朝鮮人チョウ・ホリョルさんに出会った。彼の誘いで1997年12月、縁もゆかりもない北海道へ。そして札幌の北海道朝鮮学校サッカー部の外部コーチに就任した。

小学校1年生からサッカーをやってました。推薦で帝京高校に入って。部員が1年生だけで130人って言ってたかな。それが結局、20何人までに絞られるんです、夏が終わるまでに。サッカーマシーンが集まるようなとこです。
怪我して挫折しましたけどね、高校3年の春。チームはその後、全国制覇するのですが。左足のひざの外側靭帯切って、右のアキレス腱の炎症を起こし、まともに歩けない状態が3ヶ月続いて。「もうサッカーやめたほうがいいよ。人生長いんだから」と主治医に言われて、もう「がーん」。
大学はサッカー推薦で入れると思ってたんです。プロになることを諦めてなかったし。そんなレベルじゃないんですけど、サッカーしかなかったから。
それが、ガラガラガラって崩れちゃった。それから必死で勉強しても…。サッカーやるために、大学にもう一度チャレンジしようと、予備校通いました。親には迷惑をかけたくなくて、住み込みの新聞配達しながら。
浪人中、サッカー以外の道も探ってはみたんですけど、何か想像するだけでも怖くて。普通に働いて、普通にサラリーマンやって、楽しいのかなって。
だんだん足が元通りになって、「もう一回チャレンジ!」と思ったときに、「うちでサッカーやらないか」と声がかかったんです。サッカーをもう一度やれる喜びがすごくあって。人生のすべてが(サッカーに)詰まってますから。
それで、金沢の学校(専門学校・ルネス学園)に入り、チョウに会いました。「オレは在日だ」って。人間的に素敵な人でしたね、はじめて同級生で尊敬できるような。いろんなイデオロギーの話をしてくれたり。
だいたい日本の高校生や大学生は、喫茶店行ったら、テレビ番組やお笑いがどうのこうのって話をするじゃないですか。僕もその類だったしね。
でも、そいつは政治の話しとかしましたね。衝撃的でしたよ。「オレは違う、こう思うよ」というタイプだったので、それがすごく新鮮で。「在日朝鮮人って何なんだ。面白いなぁ」って。
卒業するときに、チョウが「オレは北海道に帰ってサッカーの仕事をする。それぞれ違う道に行くけど、最終的におまえを呼ぶから。それまで勉強していてくれ」って。で、「わかった」って、別れたんですね。
金沢でコーチとして1年半、広島県で監督を1年半やって、こっちに来たんです。3年契約で。その後の仕事先は決まってて、3年で辞めるつもりでした。それが、ハッと気づいたら13年(笑)。

--小学校のときに住んでいた埼玉で、地元の朝鮮学校初級部のチームと対戦し、そのときはじめて、「日本にいる朝鮮人なんだよ、国技がサッカーで」という話を聞いた。

うちもけっこう強かったし、「簡単に負けないよ」って。真夏のすごい暑いときに試合したんですけど、(相手は)強烈に強かったんですよ。すげぇ走るし、体の作りから違う。「なんだこれ~」って。
帝京高校のすぐ隣に東京朝鮮があり、1年生のときから、週1回ぐらい東京朝鮮の3年生と試合してたんですね。ものすごくうまいし、「東京にこんなに強いチームあったんだ」って。
「ここに勝たなくちゃ全国に出れない。厳しいな」と思ってたんですけど、関東大会とか、インターハイ予選とかに、全然出てこないんですよ。「地区大会で負けるのはちょっとおかしい」と。聞いてみたら、出られないんだって。そのときはすごい理不尽に感じたんですよね。
試合は普通にしてましたが、交流は一切ないですね。目を合わせるな、とか。相手はハングルですし、こっちはこっちでプライドあるから。
今は東京朝鮮の同期とはすごい仲がいいですけど。ここ(北海道朝鮮学校)で働らかなかったら、彼らとは会わなかったと思います。向こうも指導者やってますから、「あれ!」って。向こうも覚えてて、「出てたよな?」と。
偏見はありました。報道がすでにそうでしたからね。北朝鮮バッシングとかね。100%報道は正しいと思ってましたから。うちの親もそうでしたし。
韓国に対しても、そんなにいい印象はなかったですね。特に何がどうっていうのはないんですけど。
(札幌に行くとき、)一番反対したのは母親でした。「なんで今のサッカーの仕事ではダメなの?」って。負のイメージしかなかったから。
でも、最終的に一番応援してくれたのは母親でした。父親が亡くなって、(母親を)北海道に連れてきたんです。在日の人がよくうちに来てくれたりして、母はすごい勉強して。本当に一番の理解者でした。三年間ぐらい一緒に暮らしたのですが、亡くなりました。
家族の支えは大きいですね。理解がないとやっていけないです。サッカーの指導者自体、家族の理解がないと100%できませんから。

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by k_nikoniko | 2015-07-18 07:45 | 掲載記事(2011~)

学校の門をくぐったことのない人がいる(『希望』)

「学校の門をくぐったことのない人がいるんです」 工藤慶一 北海道 62歳

--父が勤める貯金局は、北海道旭川市の旧第七師団司令部跡にあった。終戦後、工藤さん一家は、その周辺に点在する旧日本軍建物で暮らしていた。中学3年生の卒業間近、「デン助」というあだ名の同級生から、「世の中を良くしてくれ」と亡くなった兄の高校の数学の参考書を手渡される。「デン助」は両親に死なれ、進学できなかった。

一番記憶に残っているのが、樺太からの引き揚げの人がどんどん来たこと。兵舎というのは二階建ての三角屋根の建物で、何十棟も並んでいるんですよね。そこに大量に入って。当然、生活はすごく貧しくて。みんな一緒の小学校なんですよ。非常に貧しかったなぁ。当時のいろんな細かい出来事は、小さい(子どもの)目で見ても、戦争という時代の刻印というのは、明らかで、非常に大きくて。骨にしみついてますよね。
大学には行きたいという気持ちがすごくありましたよ。数学をやりたかったんです。一浪して、(北大に)入って、まあそこまではまだ半分ね、うれしかったですよ。でも、あとの半分は、入学したとたんに、「あれオレ卒業できないかもしれない」って考えがあったんだよ。おそらく、デン助からの流れだと思う。その通りになっちゃったけど。
「『学びたいんだけど学べない』というのを無視して建っているのが大学」っていう形に思えたので。なんていったらいいのかなぁ、要するに、「人のためにならんぞ」という感じがしたんです、大学そのものが。
みんな、いいとこ就職するわけでしょ。官庁行ったり。当時は理工系全盛の時代だからさ。大学一年の終わりごろには、企業の分厚い冊子が届くんですよ、IBMとか、NECとか。そんな時代ですから。文系も、道庁や市役所に入ったりするわけでしょ。
それが、「デン助の思いを何とかしよう」という僕の気持ちと全く合わないんですよ、合わない。
浪人しているとき、ベトナム戦争というのが大きかったの。大なり小なり、当時の若い人たちが重い課題というか、「なんとかしなきゃ」という気持ちにみんななっているわけ。だから僕は、大学でベ平連に入ったわけですよ。
そこから、日大と東大闘争が起こってきて。無党派の人たちが、僕の一年上の先輩たちが、教養の一学年四〇クラスごとに、クラス反戦というのを作ったの。あるとき、デモで「クラス反戦」という旗をにゅーっと掲げたときにね、「これだ!」と思ったんですよ。「自分たちで作るんだ」って。
僕らが二年生になったときには、教養クラス反戦連合というのを作ったの。そのメンバーで(一九六九年四月一〇日、北大入学式の会場だった体育館を封鎖)、入学式の粉砕闘争をやったんですね。それから、北大闘争の流れができた。

--1969年6月28日、工藤さんを含む多くの学生が、教養部などの建物を封鎖し、約4ヶ月間立てこもった。11月8日、機動隊3000人が投入され、解除されたが、工藤さんは、北大本部屋上にて数名の学生とともに逮捕される。

捕まったときに、「ああ、こういう方法でもダメなんだ」とわかったんです。僕らは、「何をどう抵抗していいのか」「何をどうするのが世の中を変えることなのか」わからなくって。
本部にこもって、最終的に機動隊と衝突して、そして捕まった。それから裁判が何年かあって、そして、入るとこ入って、出てきて。
そのときに感じたことは、「何をどうやっていったらいいんだろうか」なんですね、今後ね。それを見つけ出すのに、15年以上の年月がかかりました。遠友塾を見つけるまでに、かなり苦労しましたねぇ。おいそれと見つかるものではないからね。自分が「こうだ」と本気で賭ける対象というのはね。
刑務所を出て、いろんな負い目の中で生きていかなければならないわけでしょ。僕の中にできたのはね、「あそこまでやったんだから、やるべきことを見つけときは絶対に引かないぞ」という覚悟なんですね。
しかし、「これだけではダメだ」と思ったんですよ。
刑務所を出てから、お袋の幼馴染の紹介で、稚内のガソリンスタンドに就職したんです。スタンドの現場に10何年いて、本社の販売課長を何年かして、そして、経理的な仕事をするようになって。いまだに職種としては石油製品の販売という仕事をやってる。
この仕事で得られたことは、意外に大きかったですね。いろんな人とのめぐり合い。辛いこと悲しいこと、うれしかったこと。この過程がね、僕にとってはやはり必要だったな。あのー、何ていうんだろう。動機があって、覚悟があっても、世の中を知ってないんですよ。まだまだ子どもなんですよ、精神的には。それを上司の人が見抜くわけですよ。「おまえ所長にしようと思うんだけど、まだ線が細い」とかね。でも、いろんな人事で、所長になるときがきますよね。そうすると、「スタンドの所長」という仕事が自分を創るんですね。

--工藤さんは1987年、地元新聞に掲載された「遠友塾読書会」の小さな新聞記事を見つけた。牧野金太郎氏(故人)が主催し、札幌で自主夜間中学の設立を目指していた。そして自主夜間中学「遠友塾」は1990年4月に開講した。

記事はかみさんが見つけました。かみさんはね、僕が学生運動をやっていたとき大学の図書館に勤めてたんですけど、北海道救援センター(学生運動のデモのケガ人救護や、逮捕者への差し入れ、裁判までの段取りなどをするボランティア)というところにいて。かみさんも大したものだと思いますよ。そうですね、生き方が同じほうを向いている。今、遠友塾でも、重要なスタッフですね。
刑務所出て、そして、稚内に行った頃に、どういうわけか、やけぼっくいに火がついちゃったんだよね。あのときはね、自分が女の人を好きになる力が残ってるなんて、思えなかった。なんていうのかね。「あしたのジョー」が死ぬ場面があるじゃない? やりつくして真っ白になる。わずか25歳の若造が、そういう感覚を持ったんですよ。だから、自分で不思議だった。かみさんを好きになった自分を、自分がびっくりしたの。
「遠友塾読書会」の記事を見て、「これは行こう」と思ったんです。まもなく「(1944年まで50年続いた)遠友夜学校のようなものがあればいいね」という話が出て。「これだ! これがオレのライフワークだ」と直感的に感じた。僕が長いこと探してきた、僕のやりたいことがようやく見つかった。後はもう、まっしぐらです。
動機からも言えるし、覚悟があるから。おまけに、仕事から得られた経験で、いろんな人と交わる術をある程度わかるわけだから。ちょうど良かったな。仕事を通じて得られる経験というのは貴重でねー、仕事そのものもあるし、人との付き合いからくる、いろんなことだねぇー。遠友塾の授業がはじまったちょうど40歳のときに、それがわかったね。
正直、恐ろしかったんですよ。年配の人は、若い人を見ると、瞬時に本物か偽者か判断しますから。特に辛い思いしてきた人は。
開校式に司会をやっていて、ホッとしたんですよ。100人ぐらい、いろんな世代の人が来たんだけど、通じたんですよ、気持ちが。それまで辛かったことも、やっぱり肥やしになってたんだな、僕にとっては必要なことだったんだな、とわかったんですよね。
(1989年の)秋から遠友塾の設立準備委員会を作ってます。毎月の会合を重ねていって、授業を誰がやるかを決めていった。次にお金を集めたの、賛助会員募って。目標は50万円。実際は70万円ぐらい集まったんです。
どういう授業をするかまではわかんないんですよ、やったことがないから。小学校の内容をやったって、ダメなんですよ。学校の先生もいるんだけど、受講生と気持ちが通じないでやったって、ダメなんだよ、難しいことやりすぎてさぁ。
教材の作り方もわからない。失敗しながら作っていきましたから。授業が始まったら始まったで、授業の悩みがものすごく出てきて。今から考えるとね、1期生には迷惑をかけたと思いますよ。知らないからできたんだよ。わけのわからんことやるわけですから。
「わけがわからんこと」は、私に向いているんですよ。そういうのは突破できるの。決まりきったことは、全然向いてないんですが。


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by k_nikoniko | 2015-07-14 08:00 | 掲載記事(2011~)

現役の葛藤を代弁『実録 くにおの警察官人生』

『実録 くにおの警察官人生』 斎藤邦夫著(共同文化社)

本書は、組織ぐるみによる裏金づくりの証拠となる「裏帳簿」を公表し、北海道警察(以下、道警に不正の事実を認めさせるきっかけをつくった元弟子屈署次長の実録だ。
上層部が裏金の恩恵を受ける傍らで、冷遇される「下の者」たち。旅費や夜食代など捜査費に窮する現場。警察学校の教壇に立った経験、不正に蝕まれる教え子たちとの再会。
警官時代に見聞した内部の実態が赤裸々に語られている。
「裏金づくりマニュアルの全貌」では、ニセ書類作成の実務にたずさわった本人だからこそわかる、具体的な手口を明かす。
つじつま合わせの工作は実に涙ぐましい。制服に身を包み、ニセ書類作成に汗水流す警官の姿が冷笑的に描かれている。
不正に関与しながらも、「サラ金に手を出すな、酒や女で不祥事を起こすな」ともっともらしく訓示する。そんな自分に嫌気がさし、著者は三五年間勤務した道警を早期退職した。
再就職して落ちついたころ、公私ともに親交の深い道警OB原田宏二氏が裏金問題を告発。身内に警官や公務員がいるなかで、実名告発に踏み切った。それによる失職や裏切り。本書では「告発者」の苦悩も吐露する。
著者は現在、ヘルパーとして福祉施設で働き、警察再生を目指す活動にたずさわる。
暴露本ではあるが、事故の失敗談を交え、ユーモアと人情味ある口調で綴られている。
警察官を拝命した純真な若者が、組織のなかで歯車のひとつに組み込まれ、良心の呵責に苛まれながらも、裏金システムに慣らされていく。
いちOBの独白は、多くの現役警官の心の葛藤を代弁しているともとれる。「若き警官たちへエールを送る」一冊でもある。

『週刊金曜日』2010年8月27日号
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by k_nikoniko | 2015-07-01 08:46 | 掲載記事(2000~2010)

アイヌ文様で未来を描く 貝澤珠美さん

カラフルな色彩、異色の素材使い。落ち着いた色調のアイヌ刺繍の伝統を覆し、斬新なデザインに挑戦しつづけるアイヌ文様デザイナーの貝澤珠美さん。
インテリアを学び、20代でデザイナーとして独立という華やかな経歴を持つが、生まれ育った二風谷の話になると、“おてんば娘”の意外な一面を見せる。
「倉庫でかくれんぼしたり、裏山を登ったり、凍った川をソリで滑ったり。家の周りはかっこうの遊び場でした」 
撮影で訪れたご実家は、すぐ横をシケレペ川が流れ、敷地は山の奥へとつづき、自然に恵まれたうらやましいほどの環境。貝澤さんの創造力の源となるのは、この二風谷の風景なのだろう。
新境地を切り拓こうと突き進む貝澤さんだが、その生き方もまたおおらかで自然体そのものだ。彼女の言葉を借りると、“たまたま”この道に入ったといえる。

嫌悪感から愛着へ
アイヌへの気持ちが変化

二風谷で暮らしていた頃は、アイヌ文化に嫌悪感さえ抱いていたそうだ。自分のアイデンティティに目覚めたのは、札幌に出て1年ほどたってからのことだった。
30年ほど前の二風谷はアイヌ伝統の保存にそれほど熱心ではなかった。萱野茂さんがアイヌ語教室を開いたのは、小学校1年生のとき。その第1期生だったが、他の子たちがそうであったように、小学校高学年ごろから次第に、アイヌ文化から遠ざかっていく。
高校卒業を控え、“特に夢もなかった”貝澤さんは、進路に迷った末、デザイン学校のインテリア学科に入学。油絵を描く母親の影響と「カッコいい」というやや安易な理由からだった。しかし、ここで周りの学生たちに刺激され、デザイナーとしての自覚が生まれる。
そして、自分のオリジナリティを追求していくなかで、「独創的で個性的な」アイヌ文様を思い出したという。
それまでは、アイヌ刺繍や彫り物は土産物のひとつにすぎず、批判的に見ていた。古いモノという位置づけだったが、「テーブルやカーテンなど日常のインテリアに、カッコよくデザインしてみたい」とのアイデアが湧いてきたのだ。
卒業制作ではじめてアイヌ文化を取り入れ、「体験型アイヌ村」の図面と模型を作成した。それをきっかけに、地元の人に直接話を聞いたり、文献を読んだり、関心が高まっていった。ただ、この時点では、アイヌ文様デザイナーになるつもりは全くなかったそうだ。
転機が訪れたのは、就職した内装会社を辞め、アルバイト生活をしているときだった。「アイヌ刺繍でも習ってみたら?」との勧めもあり、二風谷の訓練校で3ヶ月間、アイヌ刺繍を学ぶことに。
「それまでやったことがなかったのですが、どうやら手先は器用だったらしく……」と屈託なく笑う。「お裁縫と違い、アイヌ刺繍はもの作りの感覚。『私、嫌いじゃないな』と思ったんです」
その後、札幌ですぐに刺繍教室を開いた。「一度だけ大学の非常勤講師を体験し、教える面白しろさに味をしめ、軽い気持で。1年続くか自信はなかったのですが」 心もとないスタートだったが、刺繍教室は今年で12年目を迎える。

独学で基本や規則を学び
自由にアレンジを楽しむ

二風谷は自然だけでなく、人の宝庫でもある。貝澤さんにとって、アイヌ文化の教科書は、地元のおじいちゃんやおばあちゃんたち。そして、「何をするにも、私の先生」という母親・美和子さんの存在も大きい。二人でさまざまな作品を見ながら、「ああしたほうがいいんじゃないか、こうしようか」と研究を重ねているという。
アイヌ文様はまだ解明されていない点が多い。刺繍の刺し方は古い着物などを参考にできるが、アート性の高い文様の描き方に関する文献はなく、謎に包まれている。
それゆえ、アイヌ文様を自らデザインする人はさほど多くない。
「アート面での伝承者はいないので、手で覚えましたね。図録を見ながら、百点以上の着物の文様を書き写しました。とにかく描いたんです、何も考えずに。そうすると、基本や規則のようなものがだんだんわかってきました。『こういうことか、ここは絶対守らなくちゃいけない部分だな』と」
基本は大切と心得てはいるが、デザイナーである限り、先駆性や自己表現が重要な課題になる。貝澤さんは、「古い文様を忠実に再現しすぎるのもどうかな?」との疑問も抱いているそうだ。
「昔の人は、基本の範囲内で、自由にアレンジしていて、個性的な表現をしていたと思うんですね。今もそうであっていいし、自分もそうしたいですね」
素材に関しても、アイヌ刺繍本来の「木綿」にこだわっていない。「今生きている世界、環境の中で、使いたいものを使えばいいのではないか」と考えているからだ。
アイヌ文化や伝統において、「絶対に乱してはいけない」といった制約が多くなりがちなのは、「アイヌが蒙った歴史による影響が大きい」と指摘する。
「そのように育ってしまったんです。もちろん、守るべき箇所は守らなければならない。でも、若い人が継承しなければ、伝統は失われてしまいます」
デザイナーを志したのは、「単にカッコいいから」と言い切るが、実はもうひとつ訳があった。
「自分はアイヌであり、それを変えることはできない。私たちは恥じてきましたが、アイヌ文様をお洒落にしたら、次の世代にとって、良いことではないか。アイヌのことは、アイヌ自身がやらなければ」との思いだ。
人を惹きつけるには、魅力やあこがれが必要である。「後世に残し、世界に広めていくためにも、昔のままのやり方ではダメ。基本を大事にしながらも、どこまで自由に自分を表現できるか。それをいつも試行錯誤しています」
独立したころは、「新しくすればいいわけではない」といった反発もあった。今でこそ若いアイヌが活躍してきているが、当時は珍しく、周囲も驚いたという。

デザインを通して
自分を好きになりたい

デザイナーとして10年。キャリアが持ちながらも、初対面の人に職業を聞かれると、いまでも「アイヌ文様デザイナー」と素直に言えない自分がいる。
「『アイヌのことを言って大丈夫かな、この人どんな顔するのかな』と少し思っちゃう」
この職を貫いているのは、小さい頃から植えつけられた感情を克服するためでもあり、「デザインを通して、アイヌである自分を好きになりたい」とも語る。
アイヌ民族は着物を着て、村に住んでいる。現在でもこうしたイメージの域を脱していない。
「“カッコいい”デザインでイメージを変えていく。それが私のやり方です。私の作品を見た人からは、『これまでのアイヌの印象と全く違う』とよく言われます。デザインで衝撃を受けてもらいたいですね」
昨今の環境ブームの影響もあってか、日本でも先住民が注目されはじめ、若者たちの間で、アイヌ文化が語られる機会も増している。
それはそれで喜ばしいことだが、問題もないわけではない。たとえば、文様をロゴなどに“無断借用”するケースなどだ。
「歴史をきちんと知ったうえで、使って欲しいです。過去の文化ではなく、私を含め、受け継ぐ人たちがいるのだから」と釘をさしながらも、アイヌ文様の意匠特許の重要性を訴える。

アイヌ文様を日常生活に
内装デザインが今の目標

貝澤さんが手がけるデザインの範囲は広い。「とにかく、自分で何でも作りたい」タイプなのだという。好きな照明からはじまり、刺繍を覚え、洋服やアクセサリー、食器の制作にも取り組んだ。
「そもそも生活空間にあるすべてをデザインしたいんです」
これらの作品はほとんどがオーダーメード。「やっと、ここ最近、デザイナーとして食べていけるようになりました」と苦笑い。
これまで、ホテルの浴衣、札幌駅構内「どさんこプラザ」のパッケージ、新千歳空港ターミナル「千鳥屋」の包装紙を担当し、ロゴやポスターなどもデザインしている。
最大の目標は内装デザイン。「インテリアが好きなんです。現場の雰囲気も職人さんの仕事も。店舗やホテルが一番アピールしやすい。ホテルの部屋であれば、ベッドカバーやバスローブ、照明のデザイン。カフェも、やりたいですね」と大きな目を輝かせた。
「おじいちゃん子」を自認する貝澤さんの祖父は、二風谷ダム訴訟の原告であり、アイヌ民族の権利復活に尽力した故貝澤正さんだ。
「祖父は、階段の一段になればいい、とよく言っていました。私もその一段を築くことができたら、と思っています」
自然との共鳴にも似たその姿勢は、幼いころから身についたものだろう。その貝澤さんが創る“アイヌ文様”は、昔そうであったように、暮らしを彩り、人と人とをつないでいくに違いない。

貝澤珠美(かいざわ たまみ)
1974年、平取町二風谷生まれ。
1997年、シケレペ・アート「TAMAMI」ブランド設立。

『カイ』(2010年春号)


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by k_nikoniko | 2015-05-29 10:51 | 掲載記事(2000~2010)

新聞・雑誌使用授業の実態調査(週刊金曜日)

『週刊金曜日』(2009年11月29日)「金曜アンテナ」に掲載された記事です。
教育現場へ不当介入か 道教委が新聞・雑誌 使用授業の実態調査
(一番下の記事です)

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by k_nikoniko | 2015-05-12 08:23 | 掲載記事(2000~2010)

北海道知事選は「原発」が最大の争点

3月26日に告示された北海道知事選は、現職・高橋はるみ氏(自公推薦)と新人・佐藤のりゆき氏(民主・維新・共産・社民・新党大地・市民ネットワークの支持・支援)の一騎打ち。
佐藤氏は脱原発を明言しており、「原発」がこの選挙の最大の争点です。

北海道のマスコミは、告示前から、「泊原発再稼働」や「大間原発建設」など「原発」を巡る両氏の発言を大々的に取り上げ、「原発」報道が繰り広げられています。

脱原発知事の実現の可能性が、いま最も高いのが、北海道。
全国的にはあまり知られていないようですが、北海道知事選に注目しましょう。



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by k_nikoniko | 2015-04-05 10:57 | 原発・核