フリーライター木村嘉代子のブログです。日々感じたことを綴っています。Copyright(C)2005-2018 Kayoko Kimura
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北海道新聞セクハラ疑惑事件の第2回口頭弁論

今日発売の『週刊金曜日』のアンテナ欄に北海道新聞セクハラ事件の続報書きました。

仮に「セクハラの事実がなかった」としても、この会社は男女雇用機会均等法セクハラ規定の措置義務に反する、と。

社員への啓発など、「事実がなかった」場合のセクハラ対策を講じていない様子。
新聞社がこれでは困る。

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by k_nikoniko | 2017-01-27 11:29 | ジェンダー

北海道新聞セクハラ疑惑の民事裁判初日

本日11月4日10時より、函館地方裁判所で傍聴。
北海道新聞函館支社のセクハラ疑惑の民亊裁判の初日だった。

当時、同支社の嘱託看護師だった女性が同社男性社員2人からセクハラ行為を受け、同社が適切な対応をしなかったなどを理由に自殺したとして、遺族が訴えている。

セクハラ事件はとても難しい。

まず、わいせつな行為は、人が見ていないところ、人がいても見ていないとき、に行われる。
そのため、目撃証言がなかなか得られない。
加害者とされる側は当然、「目撃者がいないのに、そんな事実は認められない」と言い張る。

そして、酒の席での無礼講はある程度許される、と考える人が多い。
男性だけでなく、女性も、酔っぱらうと、超えていい境界線のハードルが下がる。
酔った勢いでのボディタッチは、する側もされる側も、それを見ている側も、「このぐらいOKじゃん、酔ってるし~」みたいな雰囲気になったりする。
”笑ってがまんしている”女性に、酔っぱらってハイになっている周囲は気づかない。

たとえ目撃者がいたとしても、なかなか名乗り出ない。
面倒なことに首を突っ込みたくない、からだ。
それほど仲のいい人でもないのに、自分を犠牲にしてまで、助けたいとは思わない。
これまた、理解の範囲内の心理。

最悪だが、よくあるのは、何がセクハラ(女性が嫌がる行為、発言)なのか、男性はわかっていない。
自分の行為や発言が、相手を傷つけていると気づかない。
男性が多い職場で、かつ、そこで働く女性は野心や出世欲が強い職場の人は特に、デリカシーに欠け、女性の微妙な心理がわからない。

私もその種の仕事を長くやっているので、そうした行為、発言にときどき出くわす。
いちいち気にしていたら、仕事にならない。
女性の心理など、なよなよしたこと言うな、みたいな。
だから、やりすごしてきた。が、大きな間違いだった。
やりすごしてきたから、いまだにこうした行為や発言がつづいているのだ、と。

セクハラや性暴力の被害者が亡くなっている場合、「死人に口なし」をいいことに、相手側は好きなだけ自分の弁護ができる。
現世で辱められ、命を断ってもまだ、蹂躙される。
どれだけ悔しいか。

今朝の函館は気温3度。11月にしては早すぎる冬の寒さ。
そしてもうすぐ、今年もまた、忘年会の季節がやってくる。
彼女がセクハラを受けたとされるのは、2年前の12月、忘年会でのことだった。

関連記事はこちらです。
社内のセクハラ被害で自殺 『道新』の対応を民事提訴(『週刊金曜日』2016年8月26日号)
問われる『道新』の企業責任(『週刊金曜日』2016年3月18日号)
形骸化した「男女雇用機会均等法」実効性の実態(『週刊金曜日』2015年12月25日号)
Sexual harassment at bōnenkai(『The Japan Times』2015年12月9日 邦訳)


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by k_nikoniko | 2016-11-04 23:10 | ジェンダー

「道新のセクハラ対応を民事提訴」記事掲載のお知らせ

先週26日発売の『週刊金曜日』アンテナに、「社内のセクハラ被害で自殺 『道新』の対応を民事提訴」を書きました。

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先週8月22日の民事提訴には、北海道のテレビ局5社、新聞社(『北海道新聞』以外)、通信社が取材にきていましたが、テレビの報道はなし、共同通信が配信した記事を産経新聞が掲載、朝日新聞が独自記事を掲載しました。

いつもはセクハラ事件を大きく取り上げるマスコミも、同じ業界内のセクハラ問題になると、自己規制がかかるのか、口をつぐむ傾向にあります。

ネットで読める記事としては、こちらがよく書けています。
道新「セクハラ自殺」問題が法廷の場へ 問われる人権への姿勢


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by k_nikoniko | 2016-08-30 08:55 | ジェンダー

道新セクハラ自死事件で遺族が民事訴訟

8月22日、北海道新聞函館支社で嘱託看護師だった松本A子さんが亡くなったのは、同社で起きたセクハラが原因だったとして、A子さんの遺族が同社と社員2人に約8600万円の損害賠償を求める訴訟を函館地裁に起こしました。

また同日、暴行容疑などで刑事告訴された社員2人が不起訴処分となったのを不服として、函館検察審査会への申し立ても行いました。

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北海道新聞社を嘱託看護師の遺族が提訴 「セクハラ原因で自殺に追い込まれた」(産経新聞)
北海道新聞と社員をセクハラで提訴 嘱託看護師の遺族(朝日新聞)

以下、記者会見での松本A子さんの父親のお話です。

娘は会社でセクハラを受け、それを解決する間もなく、死んでしまいました。
もしセクハラがなければ、いまも普通に自宅から歩いて坂を下りて、電車に乗って、出勤し、夕方6時には自宅近くの停留所で降りて帰宅し、うがいをして、食事をして、シャワーを浴びて、その後は自分の部屋で普段の生活をしていた、と考えますと、やりきれない気持ちでいっぱいです。
娘の死に方があまりにも悲惨なものだけに、何をどう言ったらいいか、まったくわかりません。



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by k_nikoniko | 2016-08-25 23:41 | ジェンダー

「言論の自由」をめぐる記事が『北方ジャーナル』に

本日(2月15日)発売の『北方ジャーナル』に、「言論の自由」に関する記事が掲載されてます。
よかったらご覧ください。
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by k_nikoniko | 2016-02-15 08:43 | メディア

セクハラ記事掲載のお知らせ

現在発売中の『週刊金曜日』(12月25日号)に、北海道新聞のセクハラ事件についての記事を書きました。
合併号のため、1月7日まで書店においてあります。
よかったらご覧ください。
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昨年12月8日、北海道新聞函館支社の忘年会で嘱託看護師の女性がセクハラ被害に遭い、2か月後の2月21日、彼女は自宅の火災による一酸化炭素中毒で亡くなりました。
被害者は亡くなる前日、北海道内のメディア8社を含む13か所に、会社のセクハラ対応を批判する告発資料を郵送しています。

今回のケースは、セクハラ行為そのものもさることながら、企業に相談したにもかかわらず、適切な対応がされなかったために、被害者が追い詰められていったのが、被害者の告発文からわかってきました。

男女雇用機会均等法でセクハラ対応が措置義務化されたにもかかわらず、企業のセクハラ対応は杜撰で、セクハラに遭った被害者が救済されていない現実が見えてきました。

ジャパンタイムズにもこの件で記事を書いています。
切り口が若干違うので、あわせてお読みいただけたら、より詳しくわかるかと思います。
Sexual harassment at bōnenkai, inept handling, a suicide
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by k_nikoniko | 2015-12-28 10:15 | ジェンダー

都議会のセクハラ野次はダメで日常生活ではどうよ

都議会のセクハラ野次、もちろん由々しきことだけど、一般人の会社や飲み会の席でのセクハラはここまで大騒ぎにならない。
でも、圧倒的に多いのは、日常生活でのセクハラ。
日々の暮らしで浴びせられるセクハラ発言は、マスコミに取り上げられないし、さほど問題にもされない。
だいたい、セクハラを放置している土壌があるから、都議会でもこんな発言が出ちゃうのでしょう。
こういうことを言う議員は、生活の場においても、同じような態度なのだと思う。
公の場というのを忘れて、つい口が滑っちゃっただけで。
「女性の味方」として、このセクハラ野次を批判する男性も多い。
だったら、日常のセクハラ撲滅にももっと協力してね。
それが、こうした公人によるセクハラをなくす一番の方法だと思います。

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by k_nikoniko | 2014-06-21 09:34 | ジェンダー

フランスのフェミニズム論争をぼんやり見る

日本が地震と津波、原発事故で大変なときに、フランスではストロス=カーン元IMF専務理事の性暴力事件、いわゆるDSK事件を機に、激しいフェミニズム論争が展開されていました。
先日まとめて記事を読んだのですが、私にはまるで、宇宙ステーションぐらい遠いところの話のようで、ぼんやりしてしまった。

こんなときに、男女格差の問題など持ち出すな、と言われそうですが、今この日本で起こっていることが、本当に男女不平等とまったく無縁だと言えるのだろうか。
などと、思っています。

「なでしこジャパン」の快挙は素晴らしいけど、お祭り騒ぎ的な持ち上げ方(に違いない)には寒気がします。
安い給料で働きながらプレイするのは美談ではなく、この明らかな収入格差は性差別でしょう。
こう叫ぶと、ヒステリーだと言われかねないけど。

こんなときに、ではりますが、記事を翻訳したので(誤訳だらけだとは思いますが)、ご興味ある方はこちらです。

議論の発端となった記事は、フランスの人類学者イレーヌ・テリィの「メードの女性と経済人」。
それに反論したのが、アメリカの歴史学者ジョーン・W・スコットの「フランス流フェミニズム」。
ジョーン・スコットの記事に対する4人のフランス知識人の反論が「フランス流フェミニズム:弁護の発言」。
これに対するジョーン・スコットの「回答」。
さらに、「フランス流フェミニズムか新保守主義か」「フランス流フェミニズムなど存在しない」「DSK後:フェミニストの誘惑のために」とつづきます。


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by k_nikoniko | 2011-08-01 01:47 | ジェンダー

DSK後:フェミニストの誘惑のために

2011年6月29日のルモンド紙電子版に掲載された、エリック・ファッサン(高等師範学校)の「DSK後:フェミニストの誘惑のために」です。
発端は、イレーヌ・テリィの「メードの女性と経済人」。
*意訳しています。誤訳がたくさんあると思います。

DSK事件について、アラン・フィンケルクロートは6月15日のルモンド紙の意見欄でためらわずに性暴力について語っている。もちろん、「彼が責められた事実」を形容するためではなく、過去の沈黙を後悔するフランスのジャーナリストたちによって脅かされる私生活の侵害を告発するためだ。そして、ミラン・クンデラの「反全体主義の発言」を引用した。「本当のスキャンダルとは、プロチェツカの淫らな言葉ではなく、私生活の侵害だ」 評決は下された。「カーテンを剥ぎとるのは犯罪である」

IMFの専務理事が逮捕された1ヶ月後、フランスは大きく変わった。昨日の規範は突然異常のようになる。最初の反発は、特に社会連帯を失望させた。しかし、素早い信用失墜が、大衆の言語で理解の崩壊を表明した。ベルナール=アンリ・レヴィやジャック・ラング、ロベール・バダンテール、ジャン=フランソワ・カーンは、たぶん、権力者たち仲間内でいつも行われていたことのように話している印象があった。それは理由にならない。突然、彼らは許せない人たちになった。ありふれた風景が転覆した。彼らは、過去の男性、残酷にも時代遅れと思われたのだ。

この事件は、長年のフランス文化の反映ではない。逆に、衝撃は新しい文化を生じさせた。過去を顧みて自問することがたくさんある。私生活の尊重は、男女の権力関係の格差を口実として利用していないか? フランスの例外の名においてのアメリカ・フェミニズムの拒否は、単にフェミニズムの排除ではないか? この社会は、バンリュー(郊外)で起きた性暴力をすぐに告発するのに、国民議会や大学でのセクハラには目をつぶっていないか?

これは、今日増大している新しい反発の波による抑圧されたフェミニストの再来をかわすためだ。アラン・フィンケルクロートだけが問題なのではない。彼の「性暴力、きわどい冗談、男女交際におけるフランスの概念の訴訟」との告発は、イレーヌ・テリィ(5月29日のルモンド紙)への反響だった。ジェンダー研究の世界的第一人者であるジョーン・スコットに対抗して、この社会学者はパラドックスを恐れずに、「普遍主義者」のように特徴づけた「フランス流フェミニズム」を要求する。

イレーヌ・テリィにとって、このフェミニズムは、「政治的公正を拒否し、男女平等の権利と誘惑の不均衡な喜び、同意の絶対的尊重とキスを奪われる甘い喜びを要求する」。これが1989年にフィリップ・レイノーがやりかけた議論を再び活気づかせている。彼は、「フェミニズムがずっと最先端をいき、あまり気難しくなく、民主的要求である」アメリカとの対比により、フランス人の文明、旧制度(アンシアン・レジーム)の礼儀作法の遺産を普及させる役割をほめたたえた。モナ・オズフは、1995年に、「フランスの特性に関するエッセイ」で、アメリカの「凶暴な」過激さに「フランス・フェミニズムの節度」を対抗させて、その思考を発展させなければならなかった。

国家のアイデンティティーは少しも問題ではないのではないか? ジョーン・スコットは、それを皮肉で強調した。これもまた誘惑の名において、フランス文化でイスラムを異質と判断している。推定被害者がここではイスラム教徒だったのだ。国家の節度を忘れて、「不名誉」とイレーヌ・テリィは激怒している。しかし、2006年にモナ・オズフに捧げた「フランスのギャラントリ」のエッセイのなかで、クロード・アビはこう書いている。「ヴェールの着用はギャラント(女性に対する丁寧さ)のゲームの中断を合図する貞節の提示である。和解の可能性は存在しない」 今日、ジョーン・スコットに対抗して、弁明と我々の「文化遺産」のイラスト(6月17日のリベラシオン紙)をともに固執して署名しそうもないフェミニストは少数派だ。

性暴力が訴訟になる時代に、なぜフランスの誘惑をほめたたえるのか? 事実、現代性がフランスの謝罪に強烈な光を浴びせた。-モナ・オズフによると、「寛容な国、そして同時に政界の男性の異常さに対する寛大」 性暴力の危険を軽減するために、彼女の断言を読み直す機会なのだろうか? 「力と脅迫の使用を今後許さないように、誘惑のあらゆる試みを併せもたないように、十分に柔軟な定義をアメリカで与える」と彼女は口頭の主張に追い込まれた。要するに、フランス人が誘惑のゲームを味わっている一方で、アメリカのフェミニストは性暴力を怒っているのだ。

DSK事件はエピナル版画(大衆向け色彩版画)を台無しにした。どうしたら「重たい誘い」が軽いギャラントを再び呼び返すことができるか? 昔の誘惑は明らかにさほど魅力的ではないようだ。国の特異さの礼賛者は、メルトゥイユ侯爵夫人をいまでも引き合いにだす。しかし、彼女自身がヴァルモンで不正な誘惑の暴力を想起させていることを忘れている。「あなたがた、男性たちへ、敗北は成功が欠けているだけだ。あまりにも不平等な勝負であり、我々の幸運が負けたのではなく、あなたがたの不運が勝たなかったのだ」

アメリカの威嚇は、我々の目前で同時に崩れた。フランスのフェミニストは(「フランス流」ではなく)、性暴力、セクハラ、その魅力を逃す女性差別的発言に何の心づかいもなく、事件に味方して、自分の話を聞かせることに成功した。民主主義よりも国の文化であるのが問題ではない。10世紀前からの反フェミニズムを動揺させる問題が残っている。誘惑は民主主義とは相容れないのか? 男性支配の旧体制(アンシアン・レジーム)以後、何が来るのか? 官能的なフェミニスト-情欲をそそりながらも、より民主的な-を考える権利はないのだろうか?

たぶん、権力から性を解放する幻想は放棄しなければならないだろう。誘惑は、欲望の主体としても存在するという条件で、欲望の客体を支配することを目指している。フェミニストでいるために、「誘惑の不均衡な喜び」を放棄する必要はない。反対に、なぜ不均衡が、男性の接近の働きかけへの回答として女性的なはじらい、という先験的に決定づけられるのか? 社会の役割は、本来仮定された男女の相違を表現させているだけである。同性関係では、誘惑がないと言えるだろうか? 

反対に、どのような役を演じるかを事前には知らずに即興をしのぐというゲームは、不確実性ゆえに魅力がある。固定的な取り決めでそれぞれの性に与えられた役を、不意打ちなどなしに再演するよう強いられたら、「襲われる甘い喜び」はまったく味気ないものになる。別の言い方をすれば、官能的なフェミニストにとって、ジェンダーの問題は…面食らわすものとして確認される。「同意の絶対的尊重」に関して言えば、事前の会話が多ければ、絶え間ない恋愛の交渉を要求できる。性的な契約は、もはや事前の決定的な規則など存在せず、終わりのない勝負の賭けである。否定、もしくは昇華される代わりに、権力関係はまた、民主的な誘惑と同様の題材になる。


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by k_nikoniko | 2011-08-01 01:20 | ジェンダー

ジョーン・スコットの返答

2011年6月22日のリベラシオン紙電子版に掲載されたジョーン・スコットの「回答」です。
4人のフランスの知識人による「フランス流フェミニズム:弁解の発言」への回答。
*意訳しています。誤訳はたくさんあると思います。 

私はクロード・アビとその仲間たちから、耳が聞こえない愚かな盲目で、彼らがそう呼ぶ「フランス流フェミニズム」を断じて弁護しようと生みおとしたエレガントな散文を理解できない人だと責められた。彼らの文章に添えられていたイラストは、主題の本質を強調していた。足で「ブルシット」と書きながら、逆さまにした本を手にして読んでいる女性(知らない人のために、「ブルシット」はフランス語で「ナンセンス」、もしくはもっとしとやかに言うと「くだらない」の意味)。真面目な知性の対立に常備された領域を不当に奪う軽蔑の好例だ。ところで、彼らの著述への批判は、誤った読解や記述の歪曲ではなく、根本的な哲学的不一致に基づいている。

まず、そしてこれが最も重要なのだが、この短文の署名者がフランスの統一されたフェミニズムの表明を主張するのは不可能だ、と私は提唱する。歴史的領域において、フェミニズムが国家のアイデンティティーだと言い張るのは間違っている。フランス流フェミニズムなど存在しない。フランスにおいても、他と同様に、フェミニズムはつねに複数であり、激しい議論を通過する。

それから、性と権力に関して同意しない。男女関係は行動面に従属し、その関係は政治領域の外に位置すると彼らは断言する。私の考えでは、それとは逆で、家族、カップル-結婚していようともいなくとも-が権力関係を及ぼす内部の社会制度であると断言する。レイノーの言うように男女関係が「平等の特殊な形」で特徴づけられるなら、社会制度はそれでも階級構造にとどまる。誘惑のやり方に欲望の熱狂を混合させ、もしくは、「ギャラントリ(フランス特有の女性への心づかい)が、……丁寧さ、尊敬、寛容さによって性の不平等を補う」と示唆して(レイノーのように)、これらの著述家は、バラでぼかしながら、不平等な力関係で生じる問題を不透明にしようとしている。

これらの問題は闘争の中心であり、体に縮小された女性を見るのを拒否しつつ、分離された扱いだけでなく、平等な扱いの恩恵に浴したいと要求したフェミニストたちに代々引き継がれてきただ。あらゆる領域で女性と男性が平等に扱われることを、女性たちは望んでいる。共和主義者の批判によると、女性たちは普遍主義者である。アビとその仲間たちが弁護している差異主義は、フランス・フェミニズムが非常に長い間闘っている不平等に根づいている。もし誘惑が男女関係のカギの理論を表現するのであれば、政界と社会生活-カップル関係だけでなく家族も-のすべての領域での不平等は、回避できない結果になる。


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by k_nikoniko | 2011-08-01 01:00 | ジェンダー