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フリーライター木村嘉代子のブログです。日々感じたことを綴っています。Copyright(C)2005-2018 Kayoko Kimura
by k_nikoniko


26年目の祖母の涙

今日は祖母の27回忌だった。
父方の祖父が高校3年生のときに亡くなるまで、4人の祖父母が健在していた。近くに住んではいなかった、おじいちゃん、おばあちゃんの思い出はそれなりにあるほうだ。
26年前の今日この世を去った母方の祖母は、一番好きなおばあちゃんだった。ケタケタよく笑う、お洒落な人だった。
その祖母の死に際し、私はある悔いを残している。

祖母が死ぬ前年の夏、母から、「おばあちゃんが遊びに来るのを楽しみにしているから、札幌に行ってきてほしい」と言われた。
東京に住んでいた私は、夏休みにその頃家族が住んでいた新潟県にいったん帰省し、それから札幌へ向かった。
祖母は死を予感していたのだと思う。自分の若い頃の写真を見せてくれたり、得意料理の煮物を作ってくれたり、後で考えれば、変な行動が多かった。
もちろん、そのときは全く気づかず、私は久しぶりの祖母との時間を楽しんだ。
祖母はテレビ体操の時間に一緒に運動し、「いつも体操している。こんなに身体が柔らかいんだから」と屈伸しながら自慢したりしていた。病気など想像もつかないほど、元気だったのだ。
オープンしたての開拓の村に行き、キタキツネをはじめて近くで見た。
テレビ塔で祖父も一緒にそばを食べた。
向田邦子さんが飛行機事故にあわれたのも、祖母の家に滞在しているときだった。
こうして、1週間ぐらい過ごしただろうか。私は、また元気な祖母に会えることを疑いもせず、札幌を後にした。
その年の秋、家族は帯広に引っ越し、これからは頻繁におばあちゃんに会えるね、と思っていたやさき、翌年の4月に祖母は突然入院してしまった。そして、もう長くないことを知った。
15年ほどの本州暮らしの末、やっと北海道に戻ってきた喜びが、悲しみに変わってしまった。
母は特にショックだったに違いない。今の私の歳より若かったはずだ。

いつも元気な祖母しか知らなかったので、病に伏せている姿を私は見たくなかった。
祖母とはよく話しをしたのに、入院している祖母に対しては、なぜか口が重くなってしまった。
20歳の私は幼稚な子供でしかなく、祖母にやさしい言葉さえかけられなかった。

祖母が危篤に陥ったのは、9月の26日ぐらいだったと思う。
記憶が定かではないが、すぐに飛行機で、東京から札幌の病院に向かった。
祖母はすでに意識不明だった。
病室に入ったのはいいが、ベッドから少し離れたところで固まってしまった。
こういう祖母を見たくない。その気持ちが強く、近づくことができなかったのだ。
祖母はもう意識がない。もう何を言ってもわからない。祖母の声も聞けない。
立ちすくんだまま、私はそんなことを考えたような気がする。
そして、「おばあちゃん、涙を流しているよ、来たことがわかってるんだよ」と叔母か誰かに言われて、われに返った。
祖母は涙を流していた。意識がないはずなのに、涙を流してくれた。
それでも私は、祖母の命が消えていくのを受け止められず、やや離れて立っているだけだった。

この自分の冷たい行動を、私はずっと後悔していた。
大切な人と永遠の別れをしなければならないときに、この態度はないだろう、と。

心の整理がついたのは、祖母の夫である祖父の最期を看取ったときである。
祖父が認知症をわずらって引き取ることになったとき、私は日本に戻ってきた。
祖母に対するすまない気持ちがあったからだ。
もちろん、それだけが理由とはいえないけれど、同じ後悔をしたくなかった。

祖母の涙が、私を少し大人にさせてくれた。
26年の歳月を経た今、たぶん、祖母はケタケタ笑いながら私を許し、見守ってくれているのではないかと思う。
by k_nikoniko | 2008-09-27 23:27 | ひとりごと
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