人気ブログランキング | 話題のタグを見る

おしゃべりな毎日

フリーライター木村嘉代子のブログです。日々感じたことを綴っています。Copyright(C)2005-2021 Kayoko Kimura   

フランスの公共プールでのブルキニ着用禁止をめぐって

フランスの公営プールでは、イスラム教徒の女性用水着ブルキニの着用が禁止されています。グルノーブルの公営プールで、人権活動家らが「ブルキニ着用の禁止は人種差別」と抗議する事件があり、この「ブルキニ」着用の権利の主張で提起された議論にに対し、 社会学者や哲学者らが怒りを表明しました。

「スカーフやブルキニこそが性差別であり、着用禁止を人種差別と抗議する活動家は、えせフェミニストである」といった主張です。

以下、仏ルモンド紙の記事の抄訳です。

プールと「ブルキニ」:「信教の自由を守ることが人種差別と言えるのか?」



いまこそ、強権行使とブルキニ推進派プロパガンダに優位となる自己満足に終止符を打つときである。

このイスラム教の政治工作は危険である。「イスラム教徒の女性=スカーフをつけた女性」という間違った等価の強制を主張しつつ、ブルキニは最高啓典であるクルアーン(コーラン)から生み出されるイスラム政治の道具となっている。

ブルキニの禁止は人種差別になるのだろうか? ブルキニ、そして、海水浴に拡張させたいヒジャブは、遺伝子的特徴となるだろうか? 人種差別に依拠するのは、選択というよりむしろ受け継がれた特性、信仰もしくは個人的信念というよりむしろ本質の問題として存在する宗教に、民族的特徴を与えることになる。

集団内に閉鎖された共同主義者のこうした論理は、つねに多くのイスラム教徒の国で効力のある、背教重罪院への移送の道につながることになる。フランスでは、宗教の変更、もしくは無宗教でいる自由は根本的な権利であり、すべての人に保障されていることを思い出さなければならない。信教の自由を守ることが人種差別といえるのだろうか?

「イスラム教徒の女性がプールに行くのを禁止する差別的規制との闘い」「非植民地化主義」を宣言しなければならない。それはウソである。自治体の規則に従えば、イスラム教徒の女性はプールで歓迎される。彼女らの衣服を脱がせるのは不可能か? スカーフをはずすのに怯え、ショックを受けたイスラム教徒の女性たちは大いに歓迎されるだろう。スカーフをつけたイスラム教徒の女性だけでも、誇示だけの宗教でもないと考えなければならないのか? イスラム教徒の我々の同国民は、自分たちに特別に適用された規則がすべてそろっていないことに我慢できない、わがままな子どもでしかないのだろうか? イスラム教徒とその「複合的な」彼らの仲間は明らかに、イスラム教徒の女性を見下している。

ライシテ(政教分離)監視機構の代表者は、ブルキニ着用禁止のための「客観的議論」が必要だと宣言してうまく立ち回ろうとし、問題の政治的含意を避け、公衆衛生上の問題にして逃げた。そしてここで、議論について考えていなかったことに驚き、クルアーン(コーラン)の文字通りの教義が権利の原点であるべきだとイスラム政治を持ちだし、コーラン第4章34節、「男性は女性の擁護者であり、不忠実であれば、打て」に含意されているからブルキニは有効だという。家庭内暴力のグルネル協定の時代に、夫が妻をたたくという事実を一般化するイデオロギーの戦闘的促進を容認できるだろうか? 一般化よりもっと悪いことに、神聖化である。それに関連する人たちにとっては、家庭内暴力のこうした容認は当たり前の運命だということだ。しかしフランスでは今日、すべての宗教教義において、公共の場での行動の規制は課していない。我々の共同生活は、共に暮らす規制、公共の利益の目的、法の尊重のみにより決定されなければならない。

女性の自由の拡張を振りかざす見せかけのフェミニズムの裏側で、ブルキニの活動家たちは、平等の権利を徐々に打ち負かしつづけている性差別者のイデオロギー促進の道具を用いて、性差別反対の闘いに反論し、信教の自由を否定するために人種差別との闘いのレトリックを使うとともに、見栄を助長するために羞恥を引き合いにだし、そして、彼らの宗教の文字通りの帝国主義的解釈を支持するために寛容さをアピールしている。呆然とさせ、武装解除し、操るための典型的なゆがんだ対策である。

我々はそれにだまされてはいけない。我々が屈服したら、次の段階として、別々の水浴時間を強いることになるかもしれず、男女平等の権利の当然の結果である、公共の場での男女混合が次第にむしばまれる。混合の制限は女性の安全にとって有効だという主張、つまり、接触を避ける歩道の拡大の議論をする人たちに対し、我々は、どんな言い訳をしようとも、あらゆる差別を拒否すると回答する。我々は、女性の安全を守るために性差別的な規制に従わなければならないという考えを否定する。我々は、男性の視線が強烈に卑猥であるとの思い込みを拒否する。ヒジャブとブルキニという2つの性差別は、女性がかきたてる欲望への男性的反応の責任を女性のせいにし、男性を幼稚化させる。

フランスは、女性に対する男性の暴力を認める明白な価値基準の教義の促進に加担する活動家を許すのだろうかか? そうであるなら、家庭内暴力のグルネル協定は、冗談でしかないだろう。いまこそ、我々はしっかり責任を持って、規制を定めるときである。ブルキニ、そしてそれが表していることに直面し、寛容さは自己満足であり、もっと悪いことに、共犯なのだ。

by k_nikoniko | 2019-10-18 21:28 | フランス