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フリーライター木村嘉代子のブログです。日々感じたことを綴っています。Copyright(C)2005-2018 Kayoko Kimura
by k_nikoniko


反発というデモの本質を復活させた「黄色いベスト」

仏ルモンド紙の記事の抄訳が届いたのでアップします。

フランスの過去から現在の抗議デモに関する、歴史家Thomas Branthômeの分析です。


いくらかの譲歩と共に、庶民の声を吸い上げるための国民会議を設けたマクロンだったが、ここに来て秩序維持のための抑圧政策を押しすすめた。この選択の理由は、「黄色いベスト」の問題を超えて、ある本質的なことが賭けられていると大統領が認識したからだ。彼の政権維持である。今回、マクロンの党「共和国前進」が採用した答えはすべて、二世紀前からずっと続く「制度的権力」と「民衆の力」の対立に対応するためである。政治の根源をなす、この対立はフランスの権力の源泉を問い糾す。

19世紀末までフランス法制度に社会的自由が欠如していたのは君主制が禁止していたからだと長らく信じられてきた。そして、それを共和制が修正してきたのだと。しかし、この見方は誤りである。どんな政治体制も秩序維持という絶対命令を守ってきた。革命政権は民衆の暴力を吸収し、それを味方につけたおかげで最初の成功を収めた。だが、すぐに穏健派がこの打算的結合を糾弾する。なぜなら、このような同盟は結局、民衆の力への従属を意味するからだ。第一共和制(1792-1804)、七月王制(1830-1848)、第二共和制(1848-1852)はどれも騒乱が生んだ政体である。

このアポリアからの脱出方法を見つけたのがナポレオン三世である。1860年以降、デモやストライキが盛り上がり、新たな蜂起が危惧される。彼は和平の道を捨て、抑圧だけが秩序維持のための答えだと考えた。1864年5月25日発令の法は労働者の「団結」を認め、組合との話し合いだけを許した。目的はストライキの圧殺だ。この論理を第三共和国は継承し、秩序維持のドクトリンとする。

1871年のパリコンミューンの騒乱から生まれた第三共和制は、隙に乗じようと待ち伏せする王制復古派から国家を防衛しなければならなかった。そのため共和制は「暴力を飼い慣ら」し、革命的怒りを民主的表現に変換する必要があった。このころちょうど「manifestation(意見表明)」という表現が辞書に現れ、「意見あるいは要求の平和的表明」と定義された。こうして暴力的運動ではなく、平和的意見表明としてフランス人の精神に刻み込まれた。

デモ行為の新しい意味は、1907年のクレマンソー首相による政策に表れている。国会で彼は宣言する。デモは権利ではなく、行政が与える寛容にすぎない。「規律」を遵守し、「誠実な組織」の下でなされる限り、デモは許される。この理念が今日まで続く。事前許可がなければデモは許されないし、「デモの目的と日時」「通過する道の計画」「組織者の氏名と住所」を明示しなければならない。民衆の集結を非騒乱化するプロセスはこうして完成した。数十年来、デモは予定調和の「散歩」、そして「日常的」儀式に変身させられた。2008年にサルコジ大統領が言い放ったように、「これからフランスでデモがあっても誰も気にしなくなった」。

だが、「黄色いベスト」の18回にわたる異議申し立てが、この認識を打ち壊した。「型」から抜けだしたデモ(manifestation)は、その語源の意味(manoは手、fendreは引き裂く)と本来の蜂起の性格を取り戻した。氾濫した川は元の河床に戻るだろうか。


by k_nikoniko | 2019-04-10 22:34 | フランス
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