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フランス流フェミニズムか新保守主義か

2011年6月22日のリベラシオン紙電子版に掲載された、ディディエ:エリボン(アミアン大学教授)の「フランス流フェミニズムか新保守主義か」です。
ジョーン・スコットの「フランス流フェミニズム」とその論争を受けて。
*意訳しています。誤訳がたくさんあると思います。

リベラシオン紙の6月9日に掲載されたジョーン・スコットの返答記事に、我々は感謝しなければならない。その記事の反響と対象者たちが抱いた激怒から、アメリカの有名な歴史学者が重要かつ触れにくい問題を提起してくれたことがよくわかる。というのも、ジョーン・スコットは、いくつかの特殊な議論の記憶を思い出させることに満足していない。突飛な特質が爆笑を引き起こし、というよりむしろ、現実の状況において、嫌悪感を引き起こした。フランスの知的生活の一連の流れに影響を残すイデオロギー上の営みに、一貫性を再構成するよう彼女は促した。このイデオロギー上の営みは、1980~90年代に政治的思考を右派へ顕著に移行させた。これは誇張なく、保守主義者革命と表現できる。

ジョーン・スコットの論証への反駁を考えるうえで、返答(リベラシオン紙、6月17日)に署名した4人組は、彼女が暗に強調させことを熱心に無邪気に検証したため、仕掛けられた罠に落ちた。Commentaire、Esprit、le Débatとサン=シモン団体の雑誌の支持者である彼らが、連帯と共犯の意思をとにかく表明し、自分の名をそこに入れ込んだ。確かに彼らの著述に記されたが、明らかにわかったのは、それらを読むのは苦労する(読んだとしてもやりがいのない仕事)ことだけである。ここではっきりしたのは、常に左派であると意思表示している人は、昔から右派であることを表明している人とともに、きわめて反動的な議論を作り上げているということだ。その目的は、1960~70年代の社会的および文化的批評の継承物から生じたものすべてを根こそぎにしてしまうことにある。

数あるうちで、これらの著述家のターゲットのひとつは、フェミニスト運動だ。「アメリカ・フェミニズム」に対する「フランスの特異さ」を弁護するふりをしながらも、それは一般のフェミニズム、特に、復讐の対象を構築するフランス・フェミニズムでしかない。その証拠として、クロード・アビの著書がほぼ全部1970年代のフランスのフェミニスト、さらにその前の、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの愚行を告発するのに費やされている。男女の誘惑の魔法のゲームを壊したのが、ボーヴォワールだった。「種まき人のモナ・オズフへ」(彼女は、ヌーヴェル・オブゼルヴァトゥールで礼賛者に説明するためにあちこちで種をまこうと急いでいた)捧げられた作品、『フランスのギャラントリ(フランス特有の女性への心づかい)』において、これと同じ思考を吐き気がするほど繰り返して文章をつないでいる。「女性らしさの価値の危機は、『第2の性』の出現以降、加速していった。確立されたのは、反対することである。自由な行動が画一的に統一された。そこからはじまり、好戦的ではない女性は、ウソつきか愚かという雰囲気があった」 もしくは、「ソフトな優しさを失った女性があまりにも多いので、たくさんの男性が方向転換したが、それは理解できる。誰がトゲトゲのウニを抱きたいだろうか?」 アビの前の著書は、同じく婉曲に相当する。「自分への贈り物」であると認めるよう、「女性」に指示している。なぜなら、結婚と「愛の同意」における男性への女性の服従は、フェミニストが引き起こす性戦争よりずっと価値があるからだ。彼女は、ホモセクシュアルの動きをそこにとらえた。二人で踊るダンスのように、男性がリードして女性が従うという内なるこの美しい合意を混乱させることに敵意を燃やした。彼女は『フランスのギャラントリ(フランス特有の女性への心づかい)』の中で再びそこに戻る。「男性と女性の愛は、繊細さとエスプリの宝物で形作られると知っている。レズビアンは、分別を失った象の印象を与える。象が店に入って瀬戸物を踏みつぶすように、彼女たちは何もかもぶちこわしてしまう」

雑誌Espritでのアビの著述の興奮したスタイルの説明で、イレーヌ・テリィは少しさえぎり、自分に向けられる恐れのある反論を先取りしようと、男女の相違と補完性の底知れぬ神秘さで結んでいる。「現代の保守派は、異性愛を弁護するうえで、自然主義、保守主義そしてホモフォビアの完全悪の三位一体を疑おうと本題に早く入りがちだ」 しかし、この素晴らしい告白が明晰さを示す初期の合図だとは想像できない。違う! テリィは、この「固定観念」に服従していることをわかっていない。そして彼女は、流行をあなどり、「フェミニズムの行き詰まり」「個人主義者の解放」「反異性愛の恨み」をためらわずに同時に一刀両断する自分の「危険な力」にうっとりしている。それはお見通しだ。「フランス流フェミニズム」の著述家は、伝統的であり多国籍的の、月並みな反フェミニストと戦闘的なホモフォビアのひどい混ぜ物に再び洗礼を授けたのである。

国粋主義者の神話を単に重視しているのではない。多種多様な使用目的で、歴史的もしくは社会学的な熟考の成果のように提示してほしい。政治的および文化的運動で生まれた不安定性を取り消し、一度も存在しなかった「調和」への回帰を説くことを可能にし、不平等や階級、支配(女性に対する男性、同性愛に対する異性愛…)に課された秩序を弁護する機能としての伝承の介入もまた重要である。

これらの著述家が、批判的な社会学やピエール・ブルデューの偉業への攻撃を企てて結集するのは当然だ。ピエール・ブルデューは、「男性の支配」を研究するという許せない罪を犯した。それだけでなく彼は、性の秩序として固定されたカテゴリーを疑問視するのに、ゲイとレズビアンの動向がひと役買うと強調したのだ。

クロード・アビ著の『愛の合意』についてのオズフの書評は、完全に概要に基づいている。異性愛には、男女それぞれが本来の、不平等ではあるが恣意的に認めた自分の場を引き受ける楽しみがある。その異性愛の幸福を称える書物を生んだ歓喜は、悪魔の崩壊者の前でキリストの十字架像のようにふりかざされる。この崩壊者とは、フェミニストとホモセクシュアル運動の不穏な過激さを表明する、支配と利益の理論家だ。要するに、あるときは世の中の「自然な」秩序とみなし、あるときは我々の「国家の文化」とみなすイデオロギー-この2つのケースでは古い政治の秩序を意味する-は、解体と変化を事実として認め、総合的な歴史的構築として人間社会の現実を見る思考に相反する。民主的および解放のための活動に対する反動的な修復の試みである。左派の思考に対する平凡な右派の思考である。



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by k_nikoniko | 2011-08-01 01:06 | ジェンダー
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