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紛争時の性暴力の問題と「慰安婦」

今日8月14日は、韓国の金学順さんが旧日本軍の「慰安婦」被害者として、はじめて名乗り出た日です。
1991年、あれから25年も経ちました。

日本での「慰安婦」問題の取り上げ方について、政府に対してもマスコミに対しても、ものすごく嫌悪感を抱きます。
「女性の人権」という視点が欠けているからです。

以下、昨年2015年3月5日に『The Japan Times』に寄稿した記事です。
Stance on “comfort women” undermines fight to end wartime sexual
violence

紛争時の性暴力撲滅の闘いを弱体化させる「慰安婦」への姿勢

 それにしても、なぜ日本では、紛争時の性暴力の問題と「慰安婦」を結びつけて考える人が少ないのだろうか?
 その理由のひとつは、「慰安婦」問題が単に韓国と日本の外交問題として扱われる傾向にあるからだ。実際には、「慰安婦」はアジア全域で募られたのであり、アジア大陸だけでなく、世界各地で、女性の人権や正義にかかわる多くの人々を苦境に追い詰めている問題だ。しかし、いまだに男社会の日本では、国家主義者の言い分をフィルターにかけたり、基本的人権や女性の権利の問題に目を向けたりするのが難しいようだ。



全文はこちら。



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by k_nikoniko | 2016-08-14 11:46 | 戦争

季刊戦争責任研究86号に寄稿しました

日本の戦争責任資料センターが発行する『季刊戦争責任研究』第86号に、「フランス軍専用売春宿BMC」を寄稿しました。

フランス軍専用売春宿(BMC:Bordels Millitaires de Campagne)に関するフランスの文献2冊のごく一部をまとめたものです。

よかったらご覧ください。

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by k_nikoniko | 2016-08-13 22:13 | 歴史

「少女像」作家が来日講演

「少女像」を制作したアーティスト、キム夫妻の記事がこちらにアップされました。

「少女像」作家が来日講演ー日韓合意の「撤去」を批判ー

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by k_nikoniko | 2016-03-19 13:16 | 掲載記事(2011~)

「少女像」作家の記事掲載のお知らせ

現在発売中の『週刊金曜日』に、「慰安婦」少女像を制作したアーティストの記事を書きました。
昨年12月28日の日韓合意について語っています。
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by k_nikoniko | 2016-03-10 08:20 | 掲載記事(2011~)

「慰安婦」の過去は消えない

2014年5月31日から6月2日にかけて、「慰安婦」問題解決を考える「第12回日本軍『慰安婦』問題アジア連帯会議」が開催され、6人の元「慰安婦」が来日しました。
安倍政権の「戦争のできる国」への暴走にストップをかけようと、急きょ東京での開催が決まったそうです。

6月2日、日本政府への提言とともに、強制性を証明する資料、および河野談話後に発見された日本軍「慰安婦」関連公文書等529点を、内閣府に提出しました。
元「慰安婦」たちも立ち会いましたが、門前での受け取りという、非常に失礼な対応でした。

元「慰安婦」たちは、涙ながらに悲惨な体験を話し、そのなかで、「2度と戦争をしてはいけない、私たちのような犠牲者を出してはいけない」と訴えました。
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以下、元「慰安婦」の声。

スリ・スカンティさん(インドネシア、79歳)
「自分の身に起こったような悲惨さを、誰も2度と経験しないことを望みます。私は、日本政府に、この国の犯した犯罪の責任をとっていただきたいと思う。世界のあらゆるところにおいて、こうしたことが再び起こらないように、そう思うのです」
小学校2年生の9歳のとき、村長が付き添い、日本兵に2人やって来て、力づくで連れ去られた。その夜、オランダ人の住居だった館の2階で、オガワという軍人に、あたかも人形のように扱われた。風呂に入れられ、髪を洗われ、おしろいを塗られ、服を着替えさせられた。翌朝まで少なくとも6回、レイプされた。幼い私の膣からは大量に出血し、「お母さん、お母さん」と痛みをこらえて、泣き続けた。翌日の夜、部屋に鍵をかけられ、監禁された。3日後、またオガワにレイプされ、家に戻された。下腹部の出血の治療には1か月かかった。小学校に戻ったが、学友や先生から、「サルの使い古し」(日本兵に手をつけられた女)と嘲られ、学校をやめた。生殖器官の損傷で、子どもができなくなった。マッサージ師など、さまざまな仕事をしているが、治療費をまかなうのに十分ではない。
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ミンチェさん(インドネシア、86歳)
「人前で話すのははじめて。話を聞いてくれる人がいると聞いたので、はじめて体験を語ることにした。胸の痛みは消そうと思っても、気づかないうちに思い出している。日本人にあんなことをされなければ、不幸にはならなかったのに。苦痛は今もつづいている」
14歳のとき、トラックに乗せられ、日本軍に連れ去られた。そのとき、母親が父親の目の前で、日本軍にレイプされ、私もそれを見ていた。慰安所では1日4人の男性の相手をさせられた。6か月そうした生活がつづき、耐えられなくなり、すきを狙って逃げた。近所の人が助けてくれて、男の格好をして、車で送ってくれた。家に戻ると、母親は温かく迎えてくれたが、親せきに「お前は恥だ」と受け入れられなかった。家を出て、知り合いを頼り、お手伝いさんの仕事をして生活した。
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by k_nikoniko | 2015-05-05 09:19 | 歴史

アート作品としての「慰安婦」少女像

昨日で終わってしまいましたが、「不自由な表現展」に、韓国ソウルの日本大使館前に設置されている「慰安婦」少女像のレプリカが展示されていました。

少女象の縮小模型は、2012年8月東京都美術館で開かれた「第18回JAALA国際交流展」に出品されましたが、美術館側が「(政治的表現物であるため美術館の)運営要綱に抵触する」という理由で一方的に会場から撤去されたとのこと
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今回の展示にあわせ、少女像の作家キム・ソギョンさんとキム・ウイソンさんが来日し、都内で講演を行いました。そのときのお話を紹介します。
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「慰安婦」少女像は「反日の象徴」のような取り上げられ方をしますが、この像は、芸術大学を卒業した芸術家が制作した「アート作品」です。

キム・ソギョンさんとキム・ウイソンさん夫妻は、韓国中央大学校の芸術大学卒。学生時代の80年代から民主運動にかかわり、芸術で社会問題を提起してきました。

地方から20年ぶりにソウルに戻った二人は、ハルモニたちが水曜デモを20年間もつづいていることに驚き、「このままにしておけない」と動きだしたそうです。金学順(キムハクスン)が名乗りでたのは1991年8月14日。当時はメディアも騒いだので、すでに解決されたものと思っていたのです。
2011年5月ごろ、ハルモニを支援している韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)を訪ね、「アーティストとして、私たちに何かできることはないか、それがわかれば、やらせてほしい」と訴えたところ、「2011年12月14日に水曜デモが1000回を迎えるので、平和の碑を建てたい。そのデザインを担当してほしい」と言われました。
そこで、二人は20数点のアイデアを作って見せたのですが、日本大使館前に設置することに対し、「無事にできるのか」「韓国政府が賛成するのか」という悩みが深刻になり、いいアイデアが浮かばなくなってしまったそうです。
日本政府から「建てないでほしい」との要請もありましたが、「こういう状況だからこそ、違うものを作ろう」とするのがアーティストです。
最初は文字を刻む「平和の碑」を建てる予定でしたが、「人々がコミュニケーションでき、ハルモニたちを癒す彫刻はどうだろう」と考え、挺対協がその案を受け入れてくれたので、ソギョンさんが少女像を提案しました。

日本大使館前の少女像の設置は、韓国政府から承認を得たわけではなく、地方自治体や地元警察は、何度も対策会議を開きました。拘束されるかもしれないが、その責任は自分たちでとろう、とこの少女像を建てたそうです。

少女像を制作する際、最も大切にしたのは、多くの人と分かち合えること、コミュニケーションがとれること、でした。

少女像にしたのは、10~20代のたくさんの少女が連れていかれたのがわかっているからです。最初はおばあさんにしようかと思ったのですが、「女性たちが連れて行かれたのをどう表現したらいいか」を考え、少女にしたそうです。ソギョンさんは、「女性として、娘を持つ母親として、こういう発想になった」と言います。
3か月の制作作業中、ソギョンさんは、「自分自身が被害者だったら、娘が被害者だったら」を考えていたそうです。

この少女像には、いくつかの象徴があります。

少女の背後には、影と蝶々、碑文見えます。
この影は、おばあさん、つまりハルモニたちの姿で、ハルモニの痛みや苦しみを表しています。
真ん中に飛ぶ蝶々は、既に亡くなられた被害者がよみがえり、伴にいることを表しています。
「おばあさんの影を描いたら?」とアイデアを出したのは、娘さんだったそうです。
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作りはじめたときは、手は重ねているだけでしたが、最終的には、こぶしをギュッと握る形にしました。
こぶしを握る形にしたのは、3か月の作業中に、日本政府が「建てるな」と要請したのがきっかけでした。
彼女自身との約束であり、この問題を解決するための闘い、未来の子どもたちへの思いが込められています。

おかっばの髪は、毛先がそろっていません。これは、日本人によって無理やり切られた髪をイメージしています。
最初はおさげやきれいに切りそろえたおかっぱにしてみましたが、最後にはガタガタに切られたおかっぱにしました。
「家族や祖国とのつながりをむりやり切られた」というのを表しています。
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肩にとまる鳥は、亡くなられたハルモニと生きているハルモニをむすぶ触媒の役割を持っています。

少女は裸足です。それは、険しかったハルモニの人生を表しています。
遠くに連れて行かれ、故郷に帰れなかった人、帰る故郷を失った人がいます。
ですから、かかとがすり減っているのです。
今もハルモニたちは胸に痛みを抱え、その痛みを消し去れないでいる人もいます。
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少女の横の空いた椅子は、亡くなったハルモニが座り、一緒にいるために用意した椅子です。
また、誰もがここに座ることができ、ここから日本大使館を見つめてほしいとの思いもあります。
ハルモニの心、少女の心に共感してもらうために作った椅子です。
さらに、次世代の子どもたちが、ここに座ってくれたらいいと思っています。
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この少女像は、ある日突然ひらめいたのではなく、二人は大学在学中から、芸術的才能を使って、社会的なことができないか考えていたそうです。
ウイソンさんは、「韓国には抵抗美術、民衆美術というものがあり、これを抜きにして、芸術を語れない」と言います。
民衆美術を制作する芸術家はたくさんおり、反戦や反核、女性問題や労働問題など、さまざまな分野で表現しています。
民衆美術は政治的、社会的だとの批判し、否定的な人もいますが、ウイソンさんは、「政治や社会問題を抜きにして、何の表現活動ができるのか」と。

少女像の日本の反応については、次のように述べました。
「少女像が日本大使館の前にあるから、不快なのだろう。
しかし、なぜこの少女像がイヤなのか考えてほしい。
真実をあきらかにするためにハルモニたちは闘っている。
日本政府が解決すれば、いやな気持ちはなくなるのではないか。
それまでは、いやだという気持ちを甘受すべきだと思う。
この問題が解決したら、少女像は日本政府が管理すべきだ。
そうすることで、日本の誠実さ、度量の広さが見えてくる。
これを引きうけることで、日本の偉大さが見えてくると思う」


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by k_nikoniko | 2015-02-02 23:49 | 歴史

少なくとも二人のフランス人女性が旧日本軍「慰安婦」に

フランスのネットマガジン『Slarte fr』に、BC級戦争犯罪裁判・サイゴン裁判(フランス)で判決が下った「フランス女性に対する強姦事件」についての記事が掲載されました。

第二次世界大戦:少なくとも二人のフランス人女性が日本軍「慰安婦」に


2014年12月4日 14:36(日本時間 6:00)
Julie Hamaïde

戦時中、主に朝鮮人と中国人の20万人もの女性が、組織的に、日本軍の性奴隷状態に強いられていた。

朝鮮半島と中国の一部を侵略した後、1945年に日本軍は、治安と監視の口実で、フランスが統治していたインドシナに侵攻した。そのなかに、フランス人の姉妹を捕らえ、7週間もの間、監禁・強姦した軍人がいる。

この事実は、関東学院大学の林博史教授の最近の研究で明らかになった。サイゴン常設軍事裁判所(現・ベトナムのホーチミン市)の1947年の起訴状によると、日本陸軍大尉が姉妹を捕らえた。妹は14歳だったといい、まず姉を強姦し、二人を“連行”した。同大尉は、1945315日から53日まで、「部下である中隊の兵隊らが、数週間にわたり毎日強姦するのを知りながら、それを組織もしくは黙認していた」と起訴状には書いてある。

194553日、大尉と部下である軍曹は、二人の女性を射殺した。裁判所は、この大尉に、殺戮、強姦、強姦共犯、詐欺の罪で死刑の判決を下し、1947812日に死刑が執行された。

インドシナに居住していたフランス人女性への強姦に関する記述および証明の公文書が見つかったのは、今回が初めてだ。「慰安婦」は性奴隷を歪曲した表現であり、その時期に同様な境遇にあった女性が非常にたくさんいたという隠された事実を示している。

当時、日本軍のインドシナでの使命は、治安と監視だけに限られていた。しかし、林教授が見つけた記録によると、194539日、日本軍司令部は、「数知れない残酷さと違法な犯罪」による武力行使を予謀したという。最高司令部の人道的主張とは反対の行動だった。「日本軍の目的は、フランス軍との中立にとどめる。…略… 市民は敵とはみなさない」 それから数日後、さまざまな暴虐を伴い、人間狩りがフランス人に対しても行われた。

1日に10人以上

林教授はこの夏、公文書が日本法務省から国立公文書館へ移管された後に、この裁判記録を見つけた。それまで、林教授も、彼が運営する日本の戦争責任資料センターも、フランス女性に対するこうした裁判について知られていなかった。林教授によると、その他のこうしたケースを証言できる証人尋問報告書をフランス軍が所有しているかもしれないという。インドネシアのオランダ人女性に関しても、似たような実態がすでに明らかになっている。

林博史教授は、1128日にパリで開催された記者会見でこの情報を発表したが、フランスのメディアはほとんど注目しなかった。この記者会見は、韓国挺身隊問題対策協議会が主催し、韓国人の元「慰安婦」サバイバーのキル・ウォノクさんも出席した。サバイバーの数は減ってきており、韓国で生存している元「慰安婦」は50人ほどだという。

何万人もの女性たちが、戦地の駐屯所付近に作られた日本兵のための「慰安所」に強制的に連行された。女性たちは、1日に10人以上の男性の相手をさせられたこともあった。キル・ウォノクさんのように13歳にもならない少女もいた。「1940年、私は『慰安婦』として満州のハルピンに連行されました。そこで性病を患い、兵士の相手ができなくなりました」 キル・ウォノクさんは朝鮮に送り返された。

慰安所制度は体系的である。女性が性病に感染しないよう検査するために、軍医が定期的に訪問していた。数年前にシベリアで、地元の女性を強姦した日本兵の一部が性病で死亡しているからだ。金銭を受け取った女性もいたが、彼女たちはそのお金をお酒やタバコ代として使っていた。

責任を否定する日本

戦争が終わった後も、性奴隷の被害者たちは羞恥心と拒絶の恐怖を抱えて生き、自分の体験を話そうとはしなかった。初めて声を上げたのは、90年代に入ってからだ。

それ以来、日本政府は、責任を認めなければならないこと、教科書に「慰安婦」の歴史を入れるべきであることを恐れ、調査を拒否している。戦争被害者すべてに対し、1965年の日韓協定で賠償済みだとの見解である。それゆえ、20年以上前から毎週水曜日に、挺対協、元「慰安婦」サバイバー、その支援者たちは、ソウルの日本大使館の前でデモをつづけている。デモの参加者たちは、亡くなった被害者の名誉を象徴する像を作った。日本大使館をじっと見つめる、椅子に座った少女の像だ。その横には、サバイバーと抗議活動する人たちのために、空席の椅子がおいてある。「人権、女性の権利、そして正義は、一度踏みにじられると、回復するのは難しい。平和のために、このような戦争犯罪が二度と繰り返さないために、がんばらなくてはならない」とフランスを訪問したキル・ウォノクさんは訴えた。

ここ数年、世論を変えるために、そして外国政府の支援を求め、「各国訪問」を敢行している。戦後70年を来年に控え、「人権の国」に値する支援がもたらされることを期待し、挺対協はフランスで多くの政治家たちと面会した。


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by k_nikoniko | 2014-12-05 23:44 | 戦争

「性奴隷」とは何か

今日の集会は立ち見がでるほどだった。
とはいえ、知った顔も多く。
一般の人、特に女性がなぜ「慰安婦」問題への関心が薄いのか…を考えながら、講演を聞いていた。
理由は明白なんだけどね。

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by k_nikoniko | 2014-10-26 22:27 | 歴史

「慰安婦」無視の司法記者クラブで感じたこと

今日、はじめて司法記者クラブの記者会見に参加した。
変な雰囲気。まぁ、それはいいとして。

悲しかったのは、元「慰安婦」のイ・ヨンスさんが記者会見終了直前に最後の訴えをしたとき、前席にいた二人の女性記者同士が何か話だし、聞いていなかったこと。
この娘たち(という表現しかできない、悪いけど)は、イ・ヨンスさんがわざわざ韓国から来た被害者だということをわかっていないのだろうか?
あまりにも失礼。話を聞いてからおしゃべりすればいいのに。

「慰安婦」問題が持ち上がったとき、今日いた記者のほとんどは子どもだったと思われる。
この問題が棚上げされつづけている結果が、こういう若者にさせているのだと、ものすごく憤りを感じた。

この記者たちの親の世代でもある私たちにも責任があると痛感。
怒ると暑い。が怒る。

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by k_nikoniko | 2014-07-25 23:40 | メディア

オランダ人が撮ったインドネシア人「慰安婦」

フランスの雑誌『XXI』のサイトに掲載されていた記事(2012年5月29日)です。

Comfort Women(「慰安婦」)

第二次世界大戦中、10万から20万のアジアの女性が、日本占領軍の性奴隷にさせられた。80代になった今、何人かが初めて写真撮影に応じてくれた。ヤン・バニングが撮った彼女たちのポートレートが、フランスのセットで開催中の写真フェスティバル(festival Images Singulières)で6月3日まで展示されている。

インドネシアのエンプラワスで、彼らはサバイバーを見つけることができると期待していた。太平洋の真ん中にあるインドネシアの島に面した小さな集落にたどりつくまでに、オランダ人カメラマンのヤン・バニングとジャーナリストのヒルダ・ヤンセンは2機の飛行機をチャーターし、酔った船長が操縦するモーターボートに乗って突き進むまでに、ボートを8日間も待った。世界の果てのそこには、人から聞いていたように、数十年も前から「慰安婦」が身を隠して生活していた。

1930年代から第二次世界大戦の終戦まで、中国、朝鮮、フィリピン、ヴェトナム、インドネシアで、10万から20万の若い女性が日本占領軍の性奴隷にさせられた。暴力的に誘拐されたり、仕事があるとだまされ、彼女たちは、軍隊が部分的もしくは直接運営する隔離された施設「慰安所」に閉じ込められた。数か月、ときには数年にわたって毎日、彼女たちはそこで数10人の兵士たちが次々に現れるのを見た。参謀部の目的としては、一般市民へのレイプ、反日感情の盛り上がり、性病の感染を防ぐことにあった。

エンプラワスで、オランダ人たちは最初何も見つけることができなかった。南西アジアのどこでも同じように、「日本人に関わったこと」を隠している。村長が妨げる。辛抱の末、ヤン・バニングとヒルダ・ヤンセンは住民に受け入れられ、80歳を超える2人の女性にやっと会うことができた。「私たちが外国人であり、死ぬ前に話すという緊急性に直面していたので、彼女たちは打ち明けてくれたのだと思います」とカメラマンは言う。

アントネッタとドミンガスという2人の女性は、1944年に起きた村人の虐殺、「戦利品」として日本軍に連行された集落の12人の娘たちのかたわらで生き延びたこと、平和が戻った後の数回の流産……。彼女たちは最後の生存者である。

2年間で、ヤン・バニングとヒルダ・ヤンセンはインドネシア中を回って未公開の50もの証言を集めることができた。家族や夫が真実を知らないこともしばしばあった。2010年、彼らは、18人の写真と話をまとめた「慰安婦」を出版した。この本は、長い間タブーだったスキャンダルを露わにしている。

1991年に初めて、ひとりの韓国人が日本政府に被害を訴えた。そして、日本兵の証言が増えていった。彼らは、軍がどのように慰安所に入るために避妊具とチケットを供給したかを語った。いくつかの公文書が再浮上した。日本は「慰安所」の存在と若い女性を強制的に集めたことを認めた。

日本政府は調査をはじめた。その1年後、官房長官の談話(河野談話)で口先だけの謝罪を述べた。直接被害者に補償することなく、民間寄付を資金とするアジア基金という基金の創設に同意した。インドネシアでは特に、「慰安婦」たちは一銭も受け取らなかった。そのお金は、「女性と家族の名誉を守る」ための高齢者施設の建設資金に使われた。

14年後、売春婦組織の本質が、日本ではまだ論争になっている。2007年に安倍首相は、被害者を強制的に連行したことを証明する「証拠」の存在を否定した。彼は発言を撤回する騒動になったが、日本の多くの学者が彼の立場に賛成し、一方では、被害者は2万人に過ぎないと見積もる人たちがいる。

カメラマンのヤン・バニングにとって、「慰安婦」問題は家族の問題でもある。彼の両親は、オランダの植民地インドネシアに定住し、日本の国際捕虜キャンプに入れられていた。2005年、カメラマンはすでに、ビルマとスマトラの鉄道建設工事の現場の男性生存者のポートレートのシリーズを発表している。この本で最初に証言しているアジア女性は、父が若いころの恋人である。

ドミンガス:1928年、インドネシア・ババル島のエンプラワス村生まれ。1944年10月、日本軍が村を襲撃。虐殺の生存者であるドミンガスは、軍隊に連行され、16歳で強制的に「慰安婦」にさせられる。戦後、出産したが乳児で亡くし、二度と母親にはなれなかった。

アントネッタ:1929年、インドネシア・ババル島のエンプラワス村生まれ。ドミンガスとともに、エンプラワス虐殺で生き残った12人の若い女性たちのひとりで、強制的に「慰安婦」にさせられる。日本帝国軍に村人800人が虐殺された。

パイニ:1930年、インドネシア・ジャワ島のゲタサン生まれ。13歳のとき、日本軍に動員され、昼間は兵士の宿舎の世話をし、夜はレイプされた。

ワイナム:1925年、インドネシア・ジャワ島のMojogedang生まれ。自宅で日本兵に連行され、戦時中、「慰安婦」を強いられた。


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by k_nikoniko | 2014-06-22 23:48 | 歴史