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学校の門をくぐったことのない人がいる(『希望』)

「学校の門をくぐったことのない人がいるんです」 工藤慶一 北海道 62歳

--父が勤める貯金局は、北海道旭川市の旧第七師団司令部跡にあった。終戦後、工藤さん一家は、その周辺に点在する旧日本軍建物で暮らしていた。中学3年生の卒業間近、「デン助」というあだ名の同級生から、「世の中を良くしてくれ」と亡くなった兄の高校の数学の参考書を手渡される。「デン助」は両親に死なれ、進学できなかった。

一番記憶に残っているのが、樺太からの引き揚げの人がどんどん来たこと。兵舎というのは二階建ての三角屋根の建物で、何十棟も並んでいるんですよね。そこに大量に入って。当然、生活はすごく貧しくて。みんな一緒の小学校なんですよ。非常に貧しかったなぁ。当時のいろんな細かい出来事は、小さい(子どもの)目で見ても、戦争という時代の刻印というのは、明らかで、非常に大きくて。骨にしみついてますよね。
大学には行きたいという気持ちがすごくありましたよ。数学をやりたかったんです。一浪して、(北大に)入って、まあそこまではまだ半分ね、うれしかったですよ。でも、あとの半分は、入学したとたんに、「あれオレ卒業できないかもしれない」って考えがあったんだよ。おそらく、デン助からの流れだと思う。その通りになっちゃったけど。
「『学びたいんだけど学べない』というのを無視して建っているのが大学」っていう形に思えたので。なんていったらいいのかなぁ、要するに、「人のためにならんぞ」という感じがしたんです、大学そのものが。
みんな、いいとこ就職するわけでしょ。官庁行ったり。当時は理工系全盛の時代だからさ。大学一年の終わりごろには、企業の分厚い冊子が届くんですよ、IBMとか、NECとか。そんな時代ですから。文系も、道庁や市役所に入ったりするわけでしょ。
それが、「デン助の思いを何とかしよう」という僕の気持ちと全く合わないんですよ、合わない。
浪人しているとき、ベトナム戦争というのが大きかったの。大なり小なり、当時の若い人たちが重い課題というか、「なんとかしなきゃ」という気持ちにみんななっているわけ。だから僕は、大学でベ平連に入ったわけですよ。
そこから、日大と東大闘争が起こってきて。無党派の人たちが、僕の一年上の先輩たちが、教養の一学年四〇クラスごとに、クラス反戦というのを作ったの。あるとき、デモで「クラス反戦」という旗をにゅーっと掲げたときにね、「これだ!」と思ったんですよ。「自分たちで作るんだ」って。
僕らが二年生になったときには、教養クラス反戦連合というのを作ったの。そのメンバーで(一九六九年四月一〇日、北大入学式の会場だった体育館を封鎖)、入学式の粉砕闘争をやったんですね。それから、北大闘争の流れができた。

--1969年6月28日、工藤さんを含む多くの学生が、教養部などの建物を封鎖し、約4ヶ月間立てこもった。11月8日、機動隊3000人が投入され、解除されたが、工藤さんは、北大本部屋上にて数名の学生とともに逮捕される。

捕まったときに、「ああ、こういう方法でもダメなんだ」とわかったんです。僕らは、「何をどう抵抗していいのか」「何をどうするのが世の中を変えることなのか」わからなくって。
本部にこもって、最終的に機動隊と衝突して、そして捕まった。それから裁判が何年かあって、そして、入るとこ入って、出てきて。
そのときに感じたことは、「何をどうやっていったらいいんだろうか」なんですね、今後ね。それを見つけ出すのに、15年以上の年月がかかりました。遠友塾を見つけるまでに、かなり苦労しましたねぇ。おいそれと見つかるものではないからね。自分が「こうだ」と本気で賭ける対象というのはね。
刑務所を出て、いろんな負い目の中で生きていかなければならないわけでしょ。僕の中にできたのはね、「あそこまでやったんだから、やるべきことを見つけときは絶対に引かないぞ」という覚悟なんですね。
しかし、「これだけではダメだ」と思ったんですよ。
刑務所を出てから、お袋の幼馴染の紹介で、稚内のガソリンスタンドに就職したんです。スタンドの現場に10何年いて、本社の販売課長を何年かして、そして、経理的な仕事をするようになって。いまだに職種としては石油製品の販売という仕事をやってる。
この仕事で得られたことは、意外に大きかったですね。いろんな人とのめぐり合い。辛いこと悲しいこと、うれしかったこと。この過程がね、僕にとってはやはり必要だったな。あのー、何ていうんだろう。動機があって、覚悟があっても、世の中を知ってないんですよ。まだまだ子どもなんですよ、精神的には。それを上司の人が見抜くわけですよ。「おまえ所長にしようと思うんだけど、まだ線が細い」とかね。でも、いろんな人事で、所長になるときがきますよね。そうすると、「スタンドの所長」という仕事が自分を創るんですね。

--工藤さんは1987年、地元新聞に掲載された「遠友塾読書会」の小さな新聞記事を見つけた。牧野金太郎氏(故人)が主催し、札幌で自主夜間中学の設立を目指していた。そして自主夜間中学「遠友塾」は1990年4月に開講した。

記事はかみさんが見つけました。かみさんはね、僕が学生運動をやっていたとき大学の図書館に勤めてたんですけど、北海道救援センター(学生運動のデモのケガ人救護や、逮捕者への差し入れ、裁判までの段取りなどをするボランティア)というところにいて。かみさんも大したものだと思いますよ。そうですね、生き方が同じほうを向いている。今、遠友塾でも、重要なスタッフですね。
刑務所出て、そして、稚内に行った頃に、どういうわけか、やけぼっくいに火がついちゃったんだよね。あのときはね、自分が女の人を好きになる力が残ってるなんて、思えなかった。なんていうのかね。「あしたのジョー」が死ぬ場面があるじゃない? やりつくして真っ白になる。わずか25歳の若造が、そういう感覚を持ったんですよ。だから、自分で不思議だった。かみさんを好きになった自分を、自分がびっくりしたの。
「遠友塾読書会」の記事を見て、「これは行こう」と思ったんです。まもなく「(1944年まで50年続いた)遠友夜学校のようなものがあればいいね」という話が出て。「これだ! これがオレのライフワークだ」と直感的に感じた。僕が長いこと探してきた、僕のやりたいことがようやく見つかった。後はもう、まっしぐらです。
動機からも言えるし、覚悟があるから。おまけに、仕事から得られた経験で、いろんな人と交わる術をある程度わかるわけだから。ちょうど良かったな。仕事を通じて得られる経験というのは貴重でねー、仕事そのものもあるし、人との付き合いからくる、いろんなことだねぇー。遠友塾の授業がはじまったちょうど40歳のときに、それがわかったね。
正直、恐ろしかったんですよ。年配の人は、若い人を見ると、瞬時に本物か偽者か判断しますから。特に辛い思いしてきた人は。
開校式に司会をやっていて、ホッとしたんですよ。100人ぐらい、いろんな世代の人が来たんだけど、通じたんですよ、気持ちが。それまで辛かったことも、やっぱり肥やしになってたんだな、僕にとっては必要なことだったんだな、とわかったんですよね。
(1989年の)秋から遠友塾の設立準備委員会を作ってます。毎月の会合を重ねていって、授業を誰がやるかを決めていった。次にお金を集めたの、賛助会員募って。目標は50万円。実際は70万円ぐらい集まったんです。
どういう授業をするかまではわかんないんですよ、やったことがないから。小学校の内容をやったって、ダメなんですよ。学校の先生もいるんだけど、受講生と気持ちが通じないでやったって、ダメなんだよ、難しいことやりすぎてさぁ。
教材の作り方もわからない。失敗しながら作っていきましたから。授業が始まったら始まったで、授業の悩みがものすごく出てきて。今から考えるとね、1期生には迷惑をかけたと思いますよ。知らないからできたんだよ。わけのわからんことやるわけですから。
「わけがわからんこと」は、私に向いているんですよ。そういうのは突破できるの。決まりきったことは、全然向いてないんですが。


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by k_nikoniko | 2015-07-14 08:00 | 掲載記事(2011~)

ドイツのエコは68年学生運動からはじまった

6月に行ったG8勉強会の3回目は、19歳のドイツ人、ディビッドを講師に、環境問題と学生運動について語ってもらった。
ドイツでは、徴兵を拒否して、代わりに奉仕活動をするシステムがある。
ディビッドはその良心的徴兵拒否で札幌に来て、ボランティア活動に従事していた。
「何について話そう?」と迷っていたが、雑談で学生運動について質問したら、「68年の学生運動については話したい!」ということになった。
若い彼が、68年のことを知っていて、「話したい!」と言ったことにちょっと驚いた。
日本でも同じ頃、学生運動が盛んだったが、若者はそれを学ばない(と思う)。
ドイツでは、学校で勉強するそうだ。
ちなみに、フランスでも、68年5月革命について、若者でさえ知っている。
外国人のためのフランス語のテキストにも載っていて、私はそこで学んだ。
その後のフランス社会を語るとき、68年は非常に重要なカギになっている。
ドイツでも同様に、このときの動きが、現在社会に大きな影響を与えているそうだ。

以下、ディビッドのスピーチを紹介する。

昨年6月のドイツG8サミットが国民にどのような影響を与えたか、国民がどのように受け止め、マスコミがどう報道したか、お話しします。
サミットが開催されたハイリゲンダムは、スパとホテルで有名な小さな村です。ドイツでは、G8サミットを問題視している人が多く、その理由は、世界の金持ち8カ国が集まり、世界の政策を決めるのにもかかわらず、結果はまったく発表しないからです。
サミット開催にはドイツ国民の税金が使われます。昨年は150億円かかり、一番高くついたのは、会場の周りのフェンスで、10億円かかったそうです。
サミットに反対するのは、ほとんどが高校生から大学生、30歳ぐらいの若者たちです。それから、左派系の人たち。
デモやキャンプに参加したのは5万人でした。キャンプは、G8サミットについて考えるのが目的で、「なぜ8カ国が集まるのか」「どんな政策を決めるのか」といった勉強会が開かれました。
このサミットでドイツ軍隊を出動させたことは憲法違反で、今でも問題になっています。
G8にこれだけの人がデモに参加したのは、ドイツでは昔から大学生運動の文化があったからです。ドイツでは、19世紀から大学運動がはじまりました。その目的は、ドイツの平和と民主主義国家の成立にありました。当時の運動で使われた旗が、現在のドイツの国旗になっています。
最も有名な学生運動は、68年学生運動です。このときの運動の目標は、「ナチ時代を忘れないこと」でした。第二次世界大戦後、ドイツの制度は変わりましたが、大学のなかでも、ナチ時代に公務員として働いた人はそのままで仕事をつづけていたので、それに反対して大学生運動が起こりました。それから、ナチ時代から残っている教科書もあり、その反対運動でもありました。
もうひとつ大事な問題は、原子力発電とエネルギー、環境保護、人権問題、女性の権利です。ナチ時代、女性は育児や家事を押しつけられ、働きたくてもなかなか働けず、賃金格差もありました。今でも賃金格差はありますが、以前はもっとひどかったのです。
さらに、アメリカの反戦運動の影響で、ベトナム戦争への反対運動も盛り上がりました。
こうした学生運動から、「緑の党」が設立されました。「緑の党」は70年代に一度政権をとり、1998年に社会党と連立で与党になりました。原発反対といった市民団体は、「緑の党」を通して、政府へ意見を言えるようになりました。
「緑の党」が取り組んでいる最も重要な課題は、環境保護と原子力発電問題です。  「緑の党」のおかげで、日常生活での境保保護が行われているといえます。日本に来るまで、ドイツが環境問題に努力していることに気づきませんでした。具体的にどのように環境問題に取り組んでいるのか知らなかったのです。毎日やっていたのですが。
ひとつはゴミ分別です。ドイツはゴミの収集が有料で、袋の大きさによって支払い額が違うので、できるだけゴミを少なくします。ビンは専用のところに返却し、ペットボトルはデポジットを支払って返却のときにお金が戻ってきます。新聞紙はリサイクルに出せばお金が戻り、生ゴミは堆肥にします。ゴミを少なくする工夫がいろいろあります。また、スーパーマーケットでのビニール袋は80円ぐらいするので、エコバッグも普通に持っています。
ドイツは、街中で自転車を使いやすくするために、自転車専用道路があります。自転車専用の信号があり、地下鉄やバスにも乗れます。

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by k_nikoniko | 2008-08-10 11:22 | 社会問題