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ドキュメンタリー映画『まなぶ』の監督・太田直子さん

「学ぶことで人は変われる」
時代背景に戦争や貧困の影

5年の歳月をかけたドキュメンタリー映画『まなぶ』の監督・太田直子さん。
義務教育を受けられなかった高齢者らの姿を通し、学ぶ場の大切さを問う。

「それまでは義務教育を受けるのは当たり前だと思っていました。撮影中に自分自身が驚き、学んだ”答え”がこの作品です」
 太田直子さんは2009年から5年間、東京都千代田区神田一橋中学校通信教育課程で学ぶ高齢者の姿を追った。そして完成したのが、ドキュメンタリー映画『まなぶ 通信制中学60年の空白を越えて』。3月から上映がはじまる。
 ここに登場するのは、戦争の混乱や貧困などで義務教育の機会を奪われた高齢者たち。就職し、家庭を築き、人生を重ねながらも、学校へ行けなかった欠落感が、彼らの生活に影を落としつづける。
 たとえば、12歳で奉公に出され、職人として働いた70代の男性は、ひとりでやる仕事は得意でも、人との打ち合わせができなかった。
「どう話しかけたらいいのかわからず、ぶつかっちゃうんですよね」
 最初は硬い表情で取材拒否オーラを出していた人も、月2回、日曜日の授業に通ううちに、心に余裕が生まれ、柔和になっていった。
「人前で話せるようになった、とみんな言うんですよ。いくつになっても、『学ぶことで人は変われる』と教えてもらいました」
 前作『月あかりの下で ある定時制高校の記憶』では、若い生徒たちが成長していく姿を撮影した。今回、まさか高齢者が変わるとは想像していなかったという。
「定時制の生徒と通信制の高齢者は、授業に対する熱心さに違いはあっても、傷ついた子ども時代を送ってきた点が共通しています」
 計算に頭を抱えたり、休み時間に屈託なく笑ったり、学び場で青春を取り戻す喜びが描かれる一方で、「負の部分も知ってほしい」と太田さん。学校に行けなかった大きな理由は戦争。作品ではその歴史的事実もしっかり伝えている。
「戦争について代弁してほしかったんです。変な言い方ですが、普通の人でも主人公になれる。あの世代の人は誰もが戦争の傷跡を背負っている、ということを…」
 もともと戦争に関心があった。社会派に目覚めたのは、中学3年のとき。映画『死刑台のメロディ』を解説するドキュメンタリー番組を観て、「社会の不条理」に憤った。
 ドキュメンタリーの初仕事は、高岩仁監督の『教えられなかった戦争・侵略マレー半島』の助手。
「東南アジアの旅先で高岩さんと偶然お会いしたんです。それが縁で、1991年夏の約1か月、マレーシアの撮影に参加しました」
 戦争の混乱期、義務教育を受けられなかった人のために、公立中学校の通信制過程はつくられた。いま残っているのは全国に2校のみ。しかし、学校に行けない人がいなくなったわけではない。
「国勢調査で、15~19歳の小学校の未就学者が増えていて、とても気になります。約6000人と少ないので、見過ごされていますが」
 貧困家庭が増えている現実を学校も意識し、義務教育にもう少し手をかけるべきだと考える。
「18歳選挙権になったじゃないですか。15歳までに主権者になるための基本的な学力を子どもたちに定着させてほしい。義務教育拡充の教材として、この映画を活用してもらえたら、と思います」

1964年、東京生まれ。高校の非常勤講師、出版関連会社勤務などを経て、映像ディレクターに。前作「月あかりの下で」(2010)は文化庁映画賞ほか受賞。「まなぶ」は3月25日から 新宿 K's cinemaで上映。
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『週刊金曜日』2017年3月24日号

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by k_nikoniko | 2017-07-19 09:38 | 掲載記事(2011~)

札幌の自主夜間中学が公立化か

2月15日、札幌市の秋元克広市長が、市立向陵中学で週1回行われている自主夜間中学「札幌遠友塾」(遠藤知恵子代表)を訪れ、4クラスの授業を約20分見学した。
この視察の前週6日に、札幌市議会文教委員会で、「公立夜間中学の早期開設を求める陳情」が全会一致で採択されたばかり。昨年12月には、各都道府県に最低1校の公立夜間中学の設置を盛り込んだ法案が成立している。
義務教育の未修了者らが学ぶ公立夜間学校は8都府県に31校あるが、北海道には存在しない。
秋元市長は受講生約50人の前であいさつし、「地方自治体として、具体的に検討していく時期になってきている。多くの方に学習の場を提供できれば」と強調した。
ただ、「国の動きと合わせて」とも述べ、学習指導要領など国の指針が出るのを待つ姿勢だ。
14日に文科省が公表した小中学校の学習指導要領改定案では、中学の総則に「夜間中学などに通う学齢を経過した者への配慮」が加わり、「年齢、経験などの実情を踏まえ」「指導方法や指導体制の工夫改善に努める」と記されている。
夜間中学に通う生徒の層は、地域により異なる。北海道は戦後の引揚者や移住者のなかに未就学者が多く、高齢者の割合が高い。
「実際に見ていただいたのは大きい。市長からいろいろ質問が出た。”国の枠組み”の発想を変えないと。学習指導要領に合わせた授業は絶対むり」と遠藤代表は言う。
「北海道に夜間中学をつくる会」(工藤慶一代表)は9年前の陳情廃案を機に札幌や北海道の各会派の議員に働きかけ、国への「法案整備を求める意見書」提出や「未就学者の実態把握のための国勢調査の『教育』項目の改善」要請など、全国に先駆けて進めてきた。
工藤代表は、「まず協議会で議論を重ね、中身を詰めていく。北海道から流れを作っていきたい」と夜間中学の公立化に意欲を示した。

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『週刊金曜日』2017年2月24日号


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by k_nikoniko | 2017-06-16 08:36 | 掲載記事(2011~)

札幌の自主夜間中学が公立化か

今日発売の『週刊金曜日』に札幌の自主夜間中学「遠友塾」について書きました。

ちなみに、松戸市が一番のりで、自主夜間中学の公立化を表明。
札幌も後につづいてほしい。

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by k_nikoniko | 2017-02-24 11:36 | 掲載記事(2011~)

約126万人が義務教育未終了

夜間中学の必要性訴える

 12月1日・2日、東京都内で第62回全国夜間中学校研究大会が開催され、教師、生徒、関係者ら約200人が全国から参加した。
 夜間中学は、義務教育を修了できなかった人たちが通う学び場。戦後の混乱期、昼間通学できない子どもたちのために、1947年ごろから各地に誕生した。
 日本の義務教育未修了者数は、85年の国会答弁で約70万人と表明されたが、その後政府は実態調査を行っておらず、正確な数は把握できていない。全国夜間中学校研究会の2003年の調査では、約126万人と推計されている。
 一方、公立夜間中学は、千葉、東京、神奈川、京都、奈良、大阪、兵庫、広島の8都府県に31校あるのみで、生徒数は1849人(15年5月現在)にとどまる。
 それ以外の自治体は、有志が自主夜間中学を運営している。
 札幌では、26年前に自主夜間中学「札幌遠友塾」が開校した。場所の確保などで苦労を重ねながらも、今年3月までに384人が卒業。現在、旭川と函館にも「遠友塾」が存在する。北海道は、樺太や満洲からの引揚者、農漁村や炭鉱地への移住者のなかに、教育の機会を失ったケースがみられるという。10年国勢調査によると、15歳以上の未就学者数は大阪府に次いで2番目に多い7374人、未就学率は全国で10番目だ。
 7日に成立した教育機会確保法には全都道府県に最低1校の公立夜間中学設置が盛り込また。公立夜間中学の開設を求めてきた「北海道に夜間中学をつくる会」の工藤慶一代表は、「『お願い』ではなく、対等な立場で行政と交渉できるようになった」と言う。
 在籍者は変遷し、中国からの引揚者、不登校生、90年代以降は新渡日外国人が増加している。
 前述の研究大会では、3人の現役生が、敗戦後の貧困、居所不明、いじめといった自らの体験を発表。学校で学ぶ喜びを語り、夜間中学の必要性を訴えた。
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『週刊金曜日』2016年12月16日

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by k_nikoniko | 2017-02-16 13:11 | 掲載記事(2011~)

学校の門をくぐったことのない人がいる(『希望』)

「学校の門をくぐったことのない人がいるんです」 工藤慶一 北海道 62歳

--父が勤める貯金局は、北海道旭川市の旧第七師団司令部跡にあった。終戦後、工藤さん一家は、その周辺に点在する旧日本軍建物で暮らしていた。中学3年生の卒業間近、「デン助」というあだ名の同級生から、「世の中を良くしてくれ」と亡くなった兄の高校の数学の参考書を手渡される。「デン助」は両親に死なれ、進学できなかった。

一番記憶に残っているのが、樺太からの引き揚げの人がどんどん来たこと。兵舎というのは二階建ての三角屋根の建物で、何十棟も並んでいるんですよね。そこに大量に入って。当然、生活はすごく貧しくて。みんな一緒の小学校なんですよ。非常に貧しかったなぁ。当時のいろんな細かい出来事は、小さい(子どもの)目で見ても、戦争という時代の刻印というのは、明らかで、非常に大きくて。骨にしみついてますよね。
大学には行きたいという気持ちがすごくありましたよ。数学をやりたかったんです。一浪して、(北大に)入って、まあそこまではまだ半分ね、うれしかったですよ。でも、あとの半分は、入学したとたんに、「あれオレ卒業できないかもしれない」って考えがあったんだよ。おそらく、デン助からの流れだと思う。その通りになっちゃったけど。
「『学びたいんだけど学べない』というのを無視して建っているのが大学」っていう形に思えたので。なんていったらいいのかなぁ、要するに、「人のためにならんぞ」という感じがしたんです、大学そのものが。
みんな、いいとこ就職するわけでしょ。官庁行ったり。当時は理工系全盛の時代だからさ。大学一年の終わりごろには、企業の分厚い冊子が届くんですよ、IBMとか、NECとか。そんな時代ですから。文系も、道庁や市役所に入ったりするわけでしょ。
それが、「デン助の思いを何とかしよう」という僕の気持ちと全く合わないんですよ、合わない。
浪人しているとき、ベトナム戦争というのが大きかったの。大なり小なり、当時の若い人たちが重い課題というか、「なんとかしなきゃ」という気持ちにみんななっているわけ。だから僕は、大学でベ平連に入ったわけですよ。
そこから、日大と東大闘争が起こってきて。無党派の人たちが、僕の一年上の先輩たちが、教養の一学年四〇クラスごとに、クラス反戦というのを作ったの。あるとき、デモで「クラス反戦」という旗をにゅーっと掲げたときにね、「これだ!」と思ったんですよ。「自分たちで作るんだ」って。
僕らが二年生になったときには、教養クラス反戦連合というのを作ったの。そのメンバーで(一九六九年四月一〇日、北大入学式の会場だった体育館を封鎖)、入学式の粉砕闘争をやったんですね。それから、北大闘争の流れができた。

--1969年6月28日、工藤さんを含む多くの学生が、教養部などの建物を封鎖し、約4ヶ月間立てこもった。11月8日、機動隊3000人が投入され、解除されたが、工藤さんは、北大本部屋上にて数名の学生とともに逮捕される。

捕まったときに、「ああ、こういう方法でもダメなんだ」とわかったんです。僕らは、「何をどう抵抗していいのか」「何をどうするのが世の中を変えることなのか」わからなくって。
本部にこもって、最終的に機動隊と衝突して、そして捕まった。それから裁判が何年かあって、そして、入るとこ入って、出てきて。
そのときに感じたことは、「何をどうやっていったらいいんだろうか」なんですね、今後ね。それを見つけ出すのに、15年以上の年月がかかりました。遠友塾を見つけるまでに、かなり苦労しましたねぇ。おいそれと見つかるものではないからね。自分が「こうだ」と本気で賭ける対象というのはね。
刑務所を出て、いろんな負い目の中で生きていかなければならないわけでしょ。僕の中にできたのはね、「あそこまでやったんだから、やるべきことを見つけときは絶対に引かないぞ」という覚悟なんですね。
しかし、「これだけではダメだ」と思ったんですよ。
刑務所を出てから、お袋の幼馴染の紹介で、稚内のガソリンスタンドに就職したんです。スタンドの現場に10何年いて、本社の販売課長を何年かして、そして、経理的な仕事をするようになって。いまだに職種としては石油製品の販売という仕事をやってる。
この仕事で得られたことは、意外に大きかったですね。いろんな人とのめぐり合い。辛いこと悲しいこと、うれしかったこと。この過程がね、僕にとってはやはり必要だったな。あのー、何ていうんだろう。動機があって、覚悟があっても、世の中を知ってないんですよ。まだまだ子どもなんですよ、精神的には。それを上司の人が見抜くわけですよ。「おまえ所長にしようと思うんだけど、まだ線が細い」とかね。でも、いろんな人事で、所長になるときがきますよね。そうすると、「スタンドの所長」という仕事が自分を創るんですね。

--工藤さんは1987年、地元新聞に掲載された「遠友塾読書会」の小さな新聞記事を見つけた。牧野金太郎氏(故人)が主催し、札幌で自主夜間中学の設立を目指していた。そして自主夜間中学「遠友塾」は1990年4月に開講した。

記事はかみさんが見つけました。かみさんはね、僕が学生運動をやっていたとき大学の図書館に勤めてたんですけど、北海道救援センター(学生運動のデモのケガ人救護や、逮捕者への差し入れ、裁判までの段取りなどをするボランティア)というところにいて。かみさんも大したものだと思いますよ。そうですね、生き方が同じほうを向いている。今、遠友塾でも、重要なスタッフですね。
刑務所出て、そして、稚内に行った頃に、どういうわけか、やけぼっくいに火がついちゃったんだよね。あのときはね、自分が女の人を好きになる力が残ってるなんて、思えなかった。なんていうのかね。「あしたのジョー」が死ぬ場面があるじゃない? やりつくして真っ白になる。わずか25歳の若造が、そういう感覚を持ったんですよ。だから、自分で不思議だった。かみさんを好きになった自分を、自分がびっくりしたの。
「遠友塾読書会」の記事を見て、「これは行こう」と思ったんです。まもなく「(1944年まで50年続いた)遠友夜学校のようなものがあればいいね」という話が出て。「これだ! これがオレのライフワークだ」と直感的に感じた。僕が長いこと探してきた、僕のやりたいことがようやく見つかった。後はもう、まっしぐらです。
動機からも言えるし、覚悟があるから。おまけに、仕事から得られた経験で、いろんな人と交わる術をある程度わかるわけだから。ちょうど良かったな。仕事を通じて得られる経験というのは貴重でねー、仕事そのものもあるし、人との付き合いからくる、いろんなことだねぇー。遠友塾の授業がはじまったちょうど40歳のときに、それがわかったね。
正直、恐ろしかったんですよ。年配の人は、若い人を見ると、瞬時に本物か偽者か判断しますから。特に辛い思いしてきた人は。
開校式に司会をやっていて、ホッとしたんですよ。100人ぐらい、いろんな世代の人が来たんだけど、通じたんですよ、気持ちが。それまで辛かったことも、やっぱり肥やしになってたんだな、僕にとっては必要なことだったんだな、とわかったんですよね。
(1989年の)秋から遠友塾の設立準備委員会を作ってます。毎月の会合を重ねていって、授業を誰がやるかを決めていった。次にお金を集めたの、賛助会員募って。目標は50万円。実際は70万円ぐらい集まったんです。
どういう授業をするかまではわかんないんですよ、やったことがないから。小学校の内容をやったって、ダメなんですよ。学校の先生もいるんだけど、受講生と気持ちが通じないでやったって、ダメなんだよ、難しいことやりすぎてさぁ。
教材の作り方もわからない。失敗しながら作っていきましたから。授業が始まったら始まったで、授業の悩みがものすごく出てきて。今から考えるとね、1期生には迷惑をかけたと思いますよ。知らないからできたんだよ。わけのわからんことやるわけですから。
「わけがわからんこと」は、私に向いているんですよ。そういうのは突破できるの。決まりきったことは、全然向いてないんですが。


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by k_nikoniko | 2015-07-14 08:00 | 掲載記事(2011~)