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大間原発建設差し止め裁判と建設現場

10月18日、東京地方裁判所で、大間原発建設差し止め裁判の第10回口頭弁論が開かれました。
毎回、収容席数98席の広い第103法廷で行われ、いつも定員数以上並ぶので、抽選で傍聴券が配られます。
はずれは少ないはずなのに、クジ運悪く、はずれた…でも、悪運に強く、傍聴券を譲ってもらい、この日も傍聴できました。

今回は、原告側(函館市)の代理人弁護士が、「竜巻による大間原発の危険性」をプレゼン。前回は、「火山の影響の想定誤りによる危険性」でした。

裁判については、函館市のHPに詳しく情報開示されています。

先日、函館市に行ったときに、大間町を訪れ、建設中の大間原発を見てきました。
この大間原発建設工事状況の日付ごろなので、私が遠目から見たのは、この状況です。

函館から大間までは、フェリーで1時間半。

朝9時半に函館港を出港し、11時に大間港着。
夏以外は1日2往復しかないため、帰りは大間港発14時10分に乗船。
超短時間の滞在でしたが、実際に町を歩き、地元の方と少し会話でき、行った価値がありました。
まず驚くのが、大間港から大間原発がくっきり見えること。
見たくないのに見える。人家に近い。それだけでゾッとする。
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写真中央、クレーンの右の白い屋根の灰色と水色の建物が原子炉建屋です。

過去に2回、見たくなくて見えてしまった原発に、ゾッとしたことがあります。
ひとつは、岩内のホテルの窓の真正面に見えた泊原発。
朝、爽やかな気分でカーテンを開けたら、目の前にくっきり泊原発の姿。

もうひとつは、フランスのパリからアヴィニョンに向かう電車TGVの窓から見た、ロワール川沿いに建つベルヴィル原発。
すごい至近距離で、ひっくり返りそうになりました。

この大間原発も、見たくないのに、フェリーに乗るたびに見てしまう近さ。
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西吹山展望台から見た建設現場。
この近くに、「陸(おか)マグロ」と呼ばれる大間牛の牧場がありました。
f0016260_20114400.jpg
のどかな風景です。
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こちらが漁港。マグロ漁船も。
そして、大間崎。
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大間埼灯台の向こう、津軽海峡をはさみ、函館市が見えます。
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大間原発建設差し止め訴訟の第1回口頭弁論で、工藤壽樹市長は次のように意見陳述しています。

福島の原発事故によって、はっきり分かったことは、ひとたび原発の過酷事故が起きると、地方自治体、その地域が事実上半永久的に消え去る事態に陥るということです。……
地震や津波のような自然災害も大きな被害をもたらしますが、まちを再建することはできます。……
戦争もまちに壊滅的な打撃を与えますが、復興は可能です。……
しかし、放射能というどうしようもない代物を広範囲にまき散らす原発の過酷事故は、これまでの歴史にない壊滅的な状況を半永久的に周辺自治体や住民に与えるのです。……
私たち函館市民は、承諾もなく近隣に原発を建設され、いざというときに避難もままならない状況の中に置かれることになります。
自分たちのまちの存続と生命を守るために、この訴訟を起こしたのです。……
世界を震撼させた福島原発事故を起こした我々世代の責任として、最低限立ち止まって考えるべきだということを申し上げたいのです。そのため私が訴えてきたのは、原発建設の無期限凍結なのです。
福島の事故を目の当たりにし、その後の福島の現実を見て、原発に大きな不安を抱く多くの人たちに対し、国や事業者は真摯に向き合い、もっと丁寧な対応をすべきだということを申し上げたいのです。
今はその努力、姿勢が全く欠けていると言わざるを得ません。……


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by k_nikoniko | 2016-10-30 20:50 | 原発・核

大間原発建設差し止め訴訟

東京地裁で大間原発建設差止訴訟。
傍聴の抽選にはずれるも、知らない人から傍聴巻をもらった。
ラッキー。
終了後は報告会。

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by k_nikoniko | 2014-10-29 21:34 | 原発・核

函館市大間原発建設差し止め訴訟はじまる

今日7月3日(木)午後3時より、東京地裁103号大法廷で、函館市が提訴した大間原発建設差し止め訴訟の第1回口頭弁論が行われました。
傍聴には200人以上が集まり、100人の傍聴席はすべてうまったそうです。
傍聴できなかったのですが、弁護団の報告によると、工藤函館市長は、35分間びっちり、意見陳述を読み上げたといいます。

工藤函館市長の意見陳述は、函館市のホームページにアップされるとのとですが、結びを一部ご紹介します。
(訴訟にいたった経緯に関しては、函館市のHP大間原発の建設凍結のための提訴についてをご参考に)
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原発の安全の確保や万一の事故が起きた場合に、誰が責任を持ってあたるのか。政府なのか、原子力規制員会なのか、事業者なのか、その根本のところが極めて曖昧なまま、原発の建設が進められています。

電源開発株式会社という営利を追求する一民間企業の事業のために、27万人の人口を擁する函館市の存立そのものが、同意もなく危機に晒され、そこに住む市民の生命と平穏な生活、そして貴重な財産が、一方的に奪われかねない、そんなことがこの民主主義国家において、許されるのでしょうか。

福島の原発事故によって、はっきり分かったことは、ひとたび原発の過酷事故が起きると、地方自治体、その地域が事実上半永久的に消え去る事態に陥るということです。地方自治体の存立そのものが将来に亘って奪われる、このようなことは原発事故以外にはありません。

戦争もまちに壊滅的な打撃を与えますが、復興は可能です。ある意味で人間はそれを繰り返してきました。戦争による最大の悲劇ともいうべき原爆投下を乗り越えてきた広島・長崎も再生しました。

しかし、放射能というどうしようもない代物をまき散らす原発の過酷事故は、これまでの歴史にはない壊滅的な状況を半永久的に周辺自治体や住民に与えるのです。チェルノブイリや広島がそれを証明しています。函館がその危機に直面しています。電気をおこす一手段にすぎない原発によって、まちの存立そのものが脅かされることになります。

私たち函館市民は、承諾もなく近隣に原発を建設され、いざというときに避難もままならない状況の中に置かれることになります。自分たちのまちの存続と生命を守るために、この訴訟を起こしたのです。それ以外に残された道はなかったということを是非ご理解いただきたいと思います。


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by k_nikoniko | 2014-07-03 21:36 | 原発・核

フランス文化を伝えたメルメ・カションの功績

旧日本陸軍は、徳川幕府が創設したフランス式陸軍を明治政府が引き継いだ軍隊。
幕府が招聘した「フランス軍事顧問団」のフランス軍人の一部は、のちの函館戦争で榎本武揚とともに五稜郭に立てこもりました。
明治時代の途中で、日本陸軍はフランス式からドイツ式に変わります。
ある資料には、「フランス式であれば、あれほどの残虐な行為はしなかったのではないか」との記述も。
どの軍隊であれ、正当化するつもりはないのですが、その「もし」を考えてみたりします…。
幕末、フランスの軍事訓練のために、横浜に仏語伝習所が設立されました。
その前身は、フランス人宣教師メルメ・カションが函館に開校したフランス語学校だったそうです。
メルメ・カションは函館の元町カソリック教会を開き、フランス初のアイヌに関する本も出版してます。
幕末の日仏外交史はあまり知られていませんが、興味深いです。

以下、雑誌に書いた記事を紹介します。

実行寺の隣には、イギリスおよびフランス領事館が置かれていた称名寺がある。松前光善寺の末寺で1644年に開基。明治の大火でこの場所に移した。
「箱館開港物語」の著書もある須藤隆仙住職は、寺が領事館として利用された理由を「あらたに建設する時間がなく、大きな建物といえば寺ぐらいしかなかった」と説明する。前述の実行寺にはロシア領事館、東本願寺にはアメリカ領事館が置かれた。
「箱館の開港は安政時代。その後、国交の相手国は15カ国ほどに増えました。長崎や横浜にはロシアが寄港していませんから」と須藤住職は国際色の豊かさを強調する。
この寺で過ごし、日本の幕末の歴史に残した人物が宣教師メルメ・カションである。
パリ外国宣教会のカションは、布教のために1855年に琉球に滞在し、日本語(琉球語)を修得。1858(安政5)年9月の日仏修好通商条約締結の際、フランス全権公使グロ男爵の通訳に任命され、下田に来航した。幕府の外国奉行たちは、カションの堪能な日本語に驚いたという。
1859年11月、箱館に赴いたカションは、称名寺の一棟を住居にし、12月には司祭館の建設に取りかかった。これが、後のカトリック元町教会となる。
教会が現在の場に完成したのは、カションが去った後の1867年。ムルクー神父が箱館奉行の土地を借り受けて建てた。ゴシック様式の現教会は、1921年の大火後に建造された。
教会の裏手には、100年ほど前に造られたルルドの洞窟とマリア像がひっそりたたずむ。土台は、1877年建立の教会が焼失し、その際に出た石を再利用している。
キリスト教が禁じられていた時代、布教は思うようにいかなかったが、カションの残した功績は大きい。そのひとつが、フランス人医師を招聘しての本格的な病院の設立計画である。箱館奉行に病院創設を提案し、土地を借り入れ、着々と準備を進めた。しかし、ロシア正教司祭団が巨額を投じて大病院を建設してしまったため、カションの計画は頓挫してしまう。
二つ目は、称名寺境内に設立されたフランス語学校(コレージュ・ド・フランス)だ。この語学学校は、後に創設される横浜仏語伝習所の母胎となった。
幕府がフランス語教育を奨励するきっかけとなったのは、フランス語を外交語とするロシアの接近にある。1806年、ロシア使節レザノフの部下フヴォストフ大尉が樺太に来航した際、松前奉行所宛にフランス語の外交文書を残している。この文書はオランダ語から日本語に重訳された。このとき幕府はフランス語の必要性を痛感し、学習の命を出したという。
カションは箱館奉行の役人・栗本鋤雲と日仏の語学交換を行った。栗本は江戸に戻り、軍艦奉行、外国奉行などを歴任する。二人の交流は、幕末のフランスと幕府の親密な関係に大きな影響を与えた。
また、生徒のなかには、遣欧使節団の通訳として渡欧し、後述する横浜製鉄所・横須賀造船所建設に尽力した立広作や塩田三郎など、幕末の日仏関係で重要な働きをする者もいた。
カションはさらに、「アイノ」「仏英和辞典」「日本養蚕論」の3つの著書をパリで刊行している。「アイノ」はフランス人では初といえるアイヌ民族に関する書物である。
1863(文久3)年3月ごろ、“家庭の事情”を理由に箱館を去ったカションは、江戸に出て、塾のような会を立ち上げ、フランス語を教えていたらしい。そして、1864(元治元)年に着任した第二代駐日フランス公使レオン・ロッシュにより、通訳として採用された。

『KAI』 2010年秋号
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by k_nikoniko | 2013-10-04 16:24 | 掲載記事(2000~2010)

幕末をゆるがしたフランス人たち

開国前の日本、フランス人が最初に上陸した土地は函館だった。
1843年創刊のフランス紙『イリュストラシオン』は、幕末の様子が詳細に書かれていて面白い。
植民地主義を考えるうえでも、参考になります。
日本が強国から学んだのは、植民地主義と官僚制度と軍隊と…。
で、結局、民主主義は学んだのだろうか?...

幕末をゆるがしたフランス人たち

まずは実行寺からはじめよう。この寺の境内には日仏友好を象徴する碑が建っている。1855(安政2)年、この寺にフランス人がやって来た。日仏修好通商条約が結ばれる3年前のことである。
1854(安政元)年3月(旧暦、以下同)の日米和親条約締結で、下田とともに開港された箱館。ペリー艦隊につづき、箱館港に突然姿を見せたのは、フランスの軍艦シビール号だった。寄港の目的は、水と食糧の補給。それから、艦内に多数の病人が発生したため、陸上で養生させることだった。箱館奉行の竹内下野守は、とりあえず病人を実行寺に収容し、療養させる許可を出した。
1843年創刊のフランス紙『イリュストラシオン』には、当時の記事が掲載されている。(『フランスからみた幕末維新「イリュストラシオン」日本関係記事から』東信堂より引用、……は筆者中略)
「1855年8月1日(新暦、筆者注)、われわれは……箱館に錨を下ろそうとしていた。壊血病のために大量の者が死んだフランスのフリゲート艦シビール号が、イギリス師団の一部とともにわれわれの到着を待っていた。……われわれの到着の翌日、陸でゲラン提督と箱館奉行の会見が行われた。……『……フランスとは条約を締結しておりません。しかしながら、フランスのために、人道主義の法に照らしてわれわれの法を黙らせましょう。――あなたがたに不足している食糧、水、薪はわれわれの世話で供給してさしあげましょう。疲労した乗組員は陸に上がってもよろしい……』 そして2週間後にわれわれは、……シビール号に収容することのできない50人の病人を病院に改装された寺に残し、タルタリー [韃靼地方] に向かって出発したのだった」(1856年11月8日号)
つづいてヴィルジニ号、コンスタンティヌ号が入港した。「……われわれは、すでに条約を結んだ国々と同じ条件で扱われている。病人たちは陸上で、主要な寺院の1つの付属施設に急ごしらえに作られた病院に収容された……」(1857年5月9日号)
フランス艦船が相次いで箱館に入港したのは、クリミア戦争の余波である。トルコ領土を狙うロシアに対し、イギリスとフランスらがトルコ側として参戦。英仏の艦隊は、カムチャッカ、千島、樺太、黒龍江あたりまで出航し、ロシアの南下を妨げる作戦に出たのだ。
実行寺は1655年草創の松前法華寺の末寺で、1879年の大火後に移転し、1918年に現寺院が完成した。
望月伸泰住職は、「奉行所はどの寺に収容させるか迷った末、ここに決めたそうです。秘密裏だったため、公文書は残っていません」と色鮮やかな本堂へ案内してくれた。この4倍の広さだったという本堂で、600人のフランス人を数ヶ月間受け入れたそうだ。
それだけでなく、病人たちに栄養をつけるため、寺の農園で生産した卵やキャベツなどの農産物をふるまったという。
1855年秋、二人のフランス人水平が死亡したといわれる。遺体は、山背泊の共同墓地に埋葬された。この地は、プロテスタントやロシア正教などの外人墓地になっている。墓ははっきりとわからないが、フランス人水平は港を見下ろす丘に眠っている。

『KAI』 2010年秋号
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by k_nikoniko | 2013-10-03 08:12 | 掲載記事(2000~2010)