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セクハラ記事掲載のお知らせ

現在発売中の『週刊金曜日』(12月25日号)に、北海道新聞のセクハラ事件についての記事を書きました。
合併号のため、1月7日まで書店においてあります。
よかったらご覧ください。
f0016260_10145503.jpg
昨年12月8日、北海道新聞函館支社の忘年会で嘱託看護師の女性がセクハラ被害に遭い、2か月後の2月21日、彼女は自宅の火災による一酸化炭素中毒で亡くなりました。
被害者は亡くなる前日、北海道内のメディア8社を含む13か所に、会社のセクハラ対応を批判する告発資料を郵送しています。

今回のケースは、セクハラ行為そのものもさることながら、企業に相談したにもかかわらず、適切な対応がされなかったために、被害者が追い詰められていったのが、被害者の告発文からわかってきました。

男女雇用機会均等法でセクハラ対応が措置義務化されたにもかかわらず、企業のセクハラ対応は杜撰で、セクハラに遭った被害者が救済されていない現実が見えてきました。

ジャパンタイムズにもこの件で記事を書いています。
切り口が若干違うので、あわせてお読みいただけたら、より詳しくわかるかと思います。
Sexual harassment at bōnenkai, inept handling, a suicide
f0016260_10511314.jpg


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by k_nikoniko | 2015-12-28 10:15 | ジェンダー

性暴力の根絶に向けて(週刊金曜日)

『週刊金曜日』(2010年10月1日)「金曜アンテナ」に掲載された記事です。
性暴力の根絶に向けて 北海道でシンポジウム

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by k_nikoniko | 2015-05-13 09:52 | 掲載記事(2000~2010)

都議会のセクハラ野次はダメで日常生活ではどうよ

都議会のセクハラ野次、もちろん由々しきことだけど、一般人の会社や飲み会の席でのセクハラはここまで大騒ぎにならない。
でも、圧倒的に多いのは、日常生活でのセクハラ。
日々の暮らしで浴びせられるセクハラ発言は、マスコミに取り上げられないし、さほど問題にもされない。
だいたい、セクハラを放置している土壌があるから、都議会でもこんな発言が出ちゃうのでしょう。
こういうことを言う議員は、生活の場においても、同じような態度なのだと思う。
公の場というのを忘れて、つい口が滑っちゃっただけで。
「女性の味方」として、このセクハラ野次を批判する男性も多い。
だったら、日常のセクハラ撲滅にももっと協力してね。
それが、こうした公人によるセクハラをなくす一番の方法だと思います。

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by k_nikoniko | 2014-06-21 09:34 | ジェンダー

フランスのフェミニズム論争をぼんやり見る

日本が地震と津波、原発事故で大変なときに、フランスではストロス=カーン元IMF専務理事の性暴力事件、いわゆるDSK事件を機に、激しいフェミニズム論争が展開されていました。
先日まとめて記事を読んだのですが、私にはまるで、宇宙ステーションぐらい遠いところの話のようで、ぼんやりしてしまった。

こんなときに、男女格差の問題など持ち出すな、と言われそうですが、今この日本で起こっていることが、本当に男女不平等とまったく無縁だと言えるのだろうか。
などと、思っています。

「なでしこジャパン」の快挙は素晴らしいけど、お祭り騒ぎ的な持ち上げ方(に違いない)には寒気がします。
安い給料で働きながらプレイするのは美談ではなく、この明らかな収入格差は性差別でしょう。
こう叫ぶと、ヒステリーだと言われかねないけど。

こんなときに、ではりますが、記事を翻訳したので(誤訳だらけだとは思いますが)、ご興味ある方はこちらです。

議論の発端となった記事は、フランスの人類学者イレーヌ・テリィの「メードの女性と経済人」。
それに反論したのが、アメリカの歴史学者ジョーン・W・スコットの「フランス流フェミニズム」。
ジョーン・スコットの記事に対する4人のフランス知識人の反論が「フランス流フェミニズム:弁護の発言」。
これに対するジョーン・スコットの「回答」。
さらに、「フランス流フェミニズムか新保守主義か」「フランス流フェミニズムなど存在しない」「DSK後:フェミニストの誘惑のために」とつづきます。


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by k_nikoniko | 2011-08-01 01:47 | ジェンダー

DSK後:フェミニストの誘惑のために

2011年6月29日のルモンド紙電子版に掲載された、エリック・ファッサン(高等師範学校)の「DSK後:フェミニストの誘惑のために」です。
発端は、イレーヌ・テリィの「メードの女性と経済人」。
*意訳しています。誤訳がたくさんあると思います。

DSK事件について、アラン・フィンケルクロートは6月15日のルモンド紙の意見欄でためらわずに性暴力について語っている。もちろん、「彼が責められた事実」を形容するためではなく、過去の沈黙を後悔するフランスのジャーナリストたちによって脅かされる私生活の侵害を告発するためだ。そして、ミラン・クンデラの「反全体主義の発言」を引用した。「本当のスキャンダルとは、プロチェツカの淫らな言葉ではなく、私生活の侵害だ」 評決は下された。「カーテンを剥ぎとるのは犯罪である」

IMFの専務理事が逮捕された1ヶ月後、フランスは大きく変わった。昨日の規範は突然異常のようになる。最初の反発は、特に社会連帯を失望させた。しかし、素早い信用失墜が、大衆の言語で理解の崩壊を表明した。ベルナール=アンリ・レヴィやジャック・ラング、ロベール・バダンテール、ジャン=フランソワ・カーンは、たぶん、権力者たち仲間内でいつも行われていたことのように話している印象があった。それは理由にならない。突然、彼らは許せない人たちになった。ありふれた風景が転覆した。彼らは、過去の男性、残酷にも時代遅れと思われたのだ。

この事件は、長年のフランス文化の反映ではない。逆に、衝撃は新しい文化を生じさせた。過去を顧みて自問することがたくさんある。私生活の尊重は、男女の権力関係の格差を口実として利用していないか? フランスの例外の名においてのアメリカ・フェミニズムの拒否は、単にフェミニズムの排除ではないか? この社会は、バンリュー(郊外)で起きた性暴力をすぐに告発するのに、国民議会や大学でのセクハラには目をつぶっていないか?

これは、今日増大している新しい反発の波による抑圧されたフェミニストの再来をかわすためだ。アラン・フィンケルクロートだけが問題なのではない。彼の「性暴力、きわどい冗談、男女交際におけるフランスの概念の訴訟」との告発は、イレーヌ・テリィ(5月29日のルモンド紙)への反響だった。ジェンダー研究の世界的第一人者であるジョーン・スコットに対抗して、この社会学者はパラドックスを恐れずに、「普遍主義者」のように特徴づけた「フランス流フェミニズム」を要求する。

イレーヌ・テリィにとって、このフェミニズムは、「政治的公正を拒否し、男女平等の権利と誘惑の不均衡な喜び、同意の絶対的尊重とキスを奪われる甘い喜びを要求する」。これが1989年にフィリップ・レイノーがやりかけた議論を再び活気づかせている。彼は、「フェミニズムがずっと最先端をいき、あまり気難しくなく、民主的要求である」アメリカとの対比により、フランス人の文明、旧制度(アンシアン・レジーム)の礼儀作法の遺産を普及させる役割をほめたたえた。モナ・オズフは、1995年に、「フランスの特性に関するエッセイ」で、アメリカの「凶暴な」過激さに「フランス・フェミニズムの節度」を対抗させて、その思考を発展させなければならなかった。

国家のアイデンティティーは少しも問題ではないのではないか? ジョーン・スコットは、それを皮肉で強調した。これもまた誘惑の名において、フランス文化でイスラムを異質と判断している。推定被害者がここではイスラム教徒だったのだ。国家の節度を忘れて、「不名誉」とイレーヌ・テリィは激怒している。しかし、2006年にモナ・オズフに捧げた「フランスのギャラントリ」のエッセイのなかで、クロード・アビはこう書いている。「ヴェールの着用はギャラント(女性に対する丁寧さ)のゲームの中断を合図する貞節の提示である。和解の可能性は存在しない」 今日、ジョーン・スコットに対抗して、弁明と我々の「文化遺産」のイラスト(6月17日のリベラシオン紙)をともに固執して署名しそうもないフェミニストは少数派だ。

性暴力が訴訟になる時代に、なぜフランスの誘惑をほめたたえるのか? 事実、現代性がフランスの謝罪に強烈な光を浴びせた。-モナ・オズフによると、「寛容な国、そして同時に政界の男性の異常さに対する寛大」 性暴力の危険を軽減するために、彼女の断言を読み直す機会なのだろうか? 「力と脅迫の使用を今後許さないように、誘惑のあらゆる試みを併せもたないように、十分に柔軟な定義をアメリカで与える」と彼女は口頭の主張に追い込まれた。要するに、フランス人が誘惑のゲームを味わっている一方で、アメリカのフェミニストは性暴力を怒っているのだ。

DSK事件はエピナル版画(大衆向け色彩版画)を台無しにした。どうしたら「重たい誘い」が軽いギャラントを再び呼び返すことができるか? 昔の誘惑は明らかにさほど魅力的ではないようだ。国の特異さの礼賛者は、メルトゥイユ侯爵夫人をいまでも引き合いにだす。しかし、彼女自身がヴァルモンで不正な誘惑の暴力を想起させていることを忘れている。「あなたがた、男性たちへ、敗北は成功が欠けているだけだ。あまりにも不平等な勝負であり、我々の幸運が負けたのではなく、あなたがたの不運が勝たなかったのだ」

アメリカの威嚇は、我々の目前で同時に崩れた。フランスのフェミニストは(「フランス流」ではなく)、性暴力、セクハラ、その魅力を逃す女性差別的発言に何の心づかいもなく、事件に味方して、自分の話を聞かせることに成功した。民主主義よりも国の文化であるのが問題ではない。10世紀前からの反フェミニズムを動揺させる問題が残っている。誘惑は民主主義とは相容れないのか? 男性支配の旧体制(アンシアン・レジーム)以後、何が来るのか? 官能的なフェミニスト-情欲をそそりながらも、より民主的な-を考える権利はないのだろうか?

たぶん、権力から性を解放する幻想は放棄しなければならないだろう。誘惑は、欲望の主体としても存在するという条件で、欲望の客体を支配することを目指している。フェミニストでいるために、「誘惑の不均衡な喜び」を放棄する必要はない。反対に、なぜ不均衡が、男性の接近の働きかけへの回答として女性的なはじらい、という先験的に決定づけられるのか? 社会の役割は、本来仮定された男女の相違を表現させているだけである。同性関係では、誘惑がないと言えるだろうか? 

反対に、どのような役を演じるかを事前には知らずに即興をしのぐというゲームは、不確実性ゆえに魅力がある。固定的な取り決めでそれぞれの性に与えられた役を、不意打ちなどなしに再演するよう強いられたら、「襲われる甘い喜び」はまったく味気ないものになる。別の言い方をすれば、官能的なフェミニストにとって、ジェンダーの問題は…面食らわすものとして確認される。「同意の絶対的尊重」に関して言えば、事前の会話が多ければ、絶え間ない恋愛の交渉を要求できる。性的な契約は、もはや事前の決定的な規則など存在せず、終わりのない勝負の賭けである。否定、もしくは昇華される代わりに、権力関係はまた、民主的な誘惑と同様の題材になる。


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by k_nikoniko | 2011-08-01 01:20 | ジェンダー

ジョーン・スコットの返答

2011年6月22日のリベラシオン紙電子版に掲載されたジョーン・スコットの「回答」です。
4人のフランスの知識人による「フランス流フェミニズム:弁解の発言」への回答。
*意訳しています。誤訳はたくさんあると思います。 

私はクロード・アビとその仲間たちから、耳が聞こえない愚かな盲目で、彼らがそう呼ぶ「フランス流フェミニズム」を断じて弁護しようと生みおとしたエレガントな散文を理解できない人だと責められた。彼らの文章に添えられていたイラストは、主題の本質を強調していた。足で「ブルシット」と書きながら、逆さまにした本を手にして読んでいる女性(知らない人のために、「ブルシット」はフランス語で「ナンセンス」、もしくはもっとしとやかに言うと「くだらない」の意味)。真面目な知性の対立に常備された領域を不当に奪う軽蔑の好例だ。ところで、彼らの著述への批判は、誤った読解や記述の歪曲ではなく、根本的な哲学的不一致に基づいている。

まず、そしてこれが最も重要なのだが、この短文の署名者がフランスの統一されたフェミニズムの表明を主張するのは不可能だ、と私は提唱する。歴史的領域において、フェミニズムが国家のアイデンティティーだと言い張るのは間違っている。フランス流フェミニズムなど存在しない。フランスにおいても、他と同様に、フェミニズムはつねに複数であり、激しい議論を通過する。

それから、性と権力に関して同意しない。男女関係は行動面に従属し、その関係は政治領域の外に位置すると彼らは断言する。私の考えでは、それとは逆で、家族、カップル-結婚していようともいなくとも-が権力関係を及ぼす内部の社会制度であると断言する。レイノーの言うように男女関係が「平等の特殊な形」で特徴づけられるなら、社会制度はそれでも階級構造にとどまる。誘惑のやり方に欲望の熱狂を混合させ、もしくは、「ギャラントリ(フランス特有の女性への心づかい)が、……丁寧さ、尊敬、寛容さによって性の不平等を補う」と示唆して(レイノーのように)、これらの著述家は、バラでぼかしながら、不平等な力関係で生じる問題を不透明にしようとしている。

これらの問題は闘争の中心であり、体に縮小された女性を見るのを拒否しつつ、分離された扱いだけでなく、平等な扱いの恩恵に浴したいと要求したフェミニストたちに代々引き継がれてきただ。あらゆる領域で女性と男性が平等に扱われることを、女性たちは望んでいる。共和主義者の批判によると、女性たちは普遍主義者である。アビとその仲間たちが弁護している差異主義は、フランス・フェミニズムが非常に長い間闘っている不平等に根づいている。もし誘惑が男女関係のカギの理論を表現するのであれば、政界と社会生活-カップル関係だけでなく家族も-のすべての領域での不平等は、回避できない結果になる。


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by k_nikoniko | 2011-08-01 01:00 | ジェンダー

フランス流フェミニズム:弁護の発言

2011年6月17日のリベラシオン紙電子版に掲載された「フランス流フェミニズム:弁解の発言」です。
クロード・アビ(パリ第3大学)、モナ・オズフ(フランス国立科学研究センター)、フィリップ・レイノー(パリ第2大学)、イレーヌ・テリィ(社会科学高等研究院)の連名。
ジョーン・スコットの「フランス流フェミニズム」への返答。
*意訳しています。誤訳はたくさんあると思います。

調査が終了し、アメリカ司法裁判所は夏休みに旅立つことができ、ストロス=カーンの昼メロドラマは終わった。有名なプリンストン高等研究所のジョーン・スコット教授は、それを犯罪だと命名し、共犯者たちを割り出したところだ。犯罪か? フランス人が誘惑で、つまり、男性的凶暴さの何とも最悪な自己表明で示す愛想のよさか? 共犯者たちか? 被告たちの代表者をともかく派遣した、敵対する性に協調する3人の疑わしい知識人か。

告発はむりもない。それにしても、議論をしなければならない。そして、すべてが悪化するのはそれからである。最も明確なケース、イレーヌ・テリィからはじめよう。共犯者の小集団のなかで彼女だけが、DSK事件で持ち上がった公開議論への参加を志願した。「メードの女性と経済人」(ルモンド紙、5月23日)の見出しの寄稿で、彼女は、ストロス=カーンを弁護しようと、「時代遅れの気がふれたような言動を声高に叫ぶ」ことを躊躇しない人々と、「無実の推定の純真な支持者」と名づけた人々を区別した。しかし彼女は、後者に対し、性に関する違反の特殊性を適用できない刑法の概念にとどめておくことを責め、性暴力の被害者だったと嘆く人々に「真実性の推定」を要求している。「メードのただの女性」の話を聞き、4時間で「有力な経済人の襟首をつかむ」のはかなり効果的だったとニューヨーク警察をほめながらも、彼女はフランスの政治文化をさぐっている。我々は、フランスで、推定被害者に同程度の関心を寄せる準備ができているか?

あまり明確ではないだろうか? しかしここで-眠たい目をこすり-権力者に対する気づかいと、貧しい移民のメードの女性に対する「かろうじてぼかされた不信」で、イレーヌ・テリィは批判されたのだ。プリンストンの大学教員は、自分にふさわしい評判を手に入れるために、容易に検証可能な真実の歪曲という危険を冒したことをわかっているのか? それとも、フランスはあまりにも小さく、あまりにも官能的な国なので、ここの住民はたったひとつの真実を提供する小説に逆らって大胆に状況を回復しようとはしないと思ったのだろうか?

こうした混乱において、フィリップ・レイノーは他の仲間たちほど重要な役を演じていない。しかし、同じく無視できない。彼は、「男性の欲望への女性の服従が影響力と権力の根源であると提唱する(原文ママ)」のを「視点」といった表現で、絶対君主制が「平等の特殊な形態」の普及に貢献したと突飛な思考を導入した。ジョーン・スコットによれば、フィリップ・レイノーは、専制政治に迎合的な貴族的感受性をフランスが永続している、と証言していることになる。そして、-アメリカの共和制の美徳とは反対に-女性の役割を、いかがわしく、気に入られようした、もしくは、おべっかつかいの姿でしか考えることができない、と証言していることになる。実際に引用された文献では、ヒュームに続けて、「文明化した君主制」が、不平等を崩すことなく-当然の不平等だと思っていたが-、多種多様な巧みな手法による効果を限定するメカニズムに順応したことを示すために付随したものだ。ギャラントリ(フランス特有の女性への心づかい)や会話などは、暴力を減少し、男性の欲望に服従することなく女性にある種の権力を行使させる美徳をもたらした。ジョーン・スコットにとっておそらく聞くに堪えない発言だが。

ジョーン・スコットが大騒ぎした、クロード・アビの引用も同様である。「完全服従は利益のみならず、愛の条件でもある」 このような文章は、本当にむっとさせるものだ。クロード・アビは、「黄金の歴史」を宣伝したのだろうか? まったく違う。『アストレ』の恋人(男性)の強迫観念に感動した女性の発言を解説することに、彼女は満足していたのだ。引用された文章を問題視するのは、“男性”的な完全服従である。ジョーン・スコットが読んでいないのか。だとしたら大学教員として残念である。もしくは、男性が服従されうるという思考を彼女は根本的に想像できないのか。だとしたら、かわいそうになる。

無教養な誤った解釈の後、ここで理解させるのは不適当である。かなり混乱した方法で、スコット検事はモナ・オズフに対しても同時に、相違を平等に「対立させ」ないこと、こちらをあちらに服従したこと-そして、平等に敵意を持つこと-で非難した。相違は類似に対立するが、平等は対立せず、それが全く別のことであると、誰がジョーン・スコットに説明できるのか? 誰が彼女に、服従という動詞の意味を教えるのか? 自然界や歴史上の人間のあらゆるところにふりまかれた、性、肌の色、健康、知識、美、富といった不均衡かつ具体的な相違は、人々の平等の抽象的かつ普遍的な原理の前に屈しなければならない。なんともいえない不可思議さで、モナ・オズフとクロード・アビが本質的で最高の平等と表した尊敬を、平等の敵に変化させた。さらに、平等の権利のあらゆる闘士の間では、レズビアニズムに反自然的な常軌逸脱のレッテルを貼る傾向にあるのか? 2人の著述家のテキストのどこに、こうしたグロテスクな同一視を見つけ出したのか? 探さなくてもよい、そのようなものはないのだ。

モナ・オズフの本物の引用は法廷で提出された。しかし、「フランス領土に普及させた相違」にかかわることを理解するのに、高等教育は必要ない。結局、局地的で地域的であることと、性的特質とは関係がないのだ。ジョーン・スコット検事のイデオロギーのめがねで見ると、ドミニク・ストロス=カーンに証明された犯罪の免罪符…を明らかにする目的の「フランスのイデオロギーにおいて誘惑が決定的な位置」という文章が特に問題なのだ。

意図的に歪曲する目的か、もしくは、かわいそうに理解していないのか? ジョーン・スコットは我々に対し、フランス流フェミニズムに対し、奇妙な非難を組み立てた。それが我々の考えを歪曲しているのは言うまでもない。いずれにしても彼女は意味があることを言ったので、我々が考えているのとは逆のことを大抵の場合に差し出すにいたった。だからといって我々の意見がつねにまったく同じであると言いたいのではない。我々がフランスの意見の一致を表明することに満足しているのではない。彼女が明らかにしたように。文化的多様性から家族進化へと移行し、少しも秘密ではない食い違いという多様な主題に基づいているなら、我々のなかの誰ひとり、暴力に立ち向かう女性の保護を否定しないし、女性に征服された法的および政治的平等を問題視しなかった。「この中の自然の秩序」の名のもとに、「フェミニズム」と「レズビアニズム」の訴訟の予審もしなかった。しかし、平等の要求が男女関係の問題を消耗させるとの考えを否定しないのも事実だ。そして、消耗することのない問題をよく理解するために、文化的継承物の活用することを否定しないのも事実である。

そこから、たぶん、無限のニュアンスを伝えているフランス文学への我々の愛着がある。甘い恋愛、ギャラン(女性に好かれようとする丁寧さ)、自由奔放さ、ロマンティック…。ジョーン・スコットを大騒ぎさせた表現のなかでイレーヌ・テリィが書いたように、「同意の絶対なる尊重とキスを奪われる甘い驚き」を同時に体験できるのは、非常に多様な行動のモデルのおかげである。それらすべてに、楽しみ、装飾、そして、喜びや美、自己批判といった生活に余裕を与える貴重な可能性を形作っているのだ。もし女性が自らの誘導を考えて可能性を引き出したとしても、驚くことは何もない。こうした偉大な文化は、ゆとりと遊びを提供する。自分をアストレやエロイーズ、メルトゥイユ侯爵夫人だと思うのは、また別の話だ。

スコット検事によってあまりにも悪く紹介されたこの不幸な事件において、我々は“答弁の取引”(刑事事件で検察側の軽い求刑と引き換えに弁護側が有罪を認めたりするような司法取引)など提案しない。我々は我々の共犯者を断固として弁護する。


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by k_nikoniko | 2011-08-01 00:53 | ジェンダー

フランス流フェミニズム

2011年6月9日のリベラシオン紙電子版に掲載されたアメリカの歴史学者ジョーン・W・スコットの「フランス流フェミニズム」です。
イレーヌ・テリィの寄稿「メードの女性と経済人」に対する批判。
*意訳しています。誤訳はたくさんあると思います。

DSK事件に端を発した議論で、男性の側を擁護する人たちが、アメリカ人は誘惑の魅力と性暴力をごちゃまぜにしていると主張している(1回以上)。たとえば、ベルナール=アンリ・レヴィは、ドミニク・ストロス=カーンについて「誘惑者、魅力的な人」であり、「性暴力する人」ではないと言った。それ自体の正確な経過が勘ぐられているなかで、被害者であると意思表示した女性の証言の真実性が疑問視されている。彼女が起訴したことで彼は罰を受けるのか? 彼女はずる賢い人柄を示すサイン―結局、イスラム教徒が問題なのだ―を曲解していないか? 同意した後で、意見を変えたのではないか? 擁護の立場で書かれた論評のいくつかには、ドミニク・ストロス=カーンが性関係の同意があったとの弁明を暗示している。理由はわからないが、この女性は、意見を変え、それから、実際に起こったことに関してうそをついた。この思考順序において、イレーヌ・テリィは、被害者の言葉が、被告の無実の推定よりも重視されることを心配していた。「しかし、我々は、フランスの政治文化のなかで、真の権利として真実性の推定を考慮する準備ができているだろうか?」

イレーヌ・テリィが被告の権利を尊重して表明した懸念は、政界の大物への気づかいであり、労働階級出身の移民の有色女性の動機のかろうじてぼかされた不信でもある。イレーヌ・テリィは同様に、誘惑はフランス文化において特別な位置を占めているという概念も弁護したがっていた。イレーヌ・テリィにとって、「フランス流フェミニズム」の正確な解釈の特徴のひとつ、フランス国家のアイデンティティーである独特で奇異な局面が重要なのだ。

「(このフェミニズム)は、ある生き方であり、単に思考の方法ではない。それは、政治的公正の行き詰まりを否定し、男女平等の権利と誘惑の不均等な喜び、同意の絶対的尊重とキスを奪われる甘い驚きを要求している」

これは、フランスのフェミニスト全員が認めるフェミニズムではない。(パリテ運動の創設者、「ラ・バルブ」グループの活動家、5月31日のリベラシオン紙での論争で説明した女性政治家、その他) 平等の権利の考えは、「誘惑の不均衡な喜び」の観念を弱めることがわかるだろう。さらに、同意と「キスを奪われる驚き」との矛盾も露呈する。イレーヌ・テリィによって誤ったフェミニズムの特徴が付与された定義のなかに、ほかにも多くのことが見えてくるだろう。こちらのものの形が何であれ、「誘惑のフランス理論」と私が呼んでいるものを公式化した人たちは、「愛の同意」と誘惑のゲームが、それ自体、男女の不平等に基づいていることを明示している。

フランス革命から200年の1989年、フランスの「誘惑の芸術」に関して多くの著述が発表された。フィリップ・レイノーが「平等の特殊な形」と呼ぶ思考の起源は、絶対王朝とルイ14世時代の貴族的習慣にまでさかのぼり、お国柄の重要な構成要素として、世代を超えて受け継がれてきた。モナ・オズフ(女性の言葉:フランスの奇異さに関するエッセイ)やクロード・アビ(愛の同意とフランス特有の女性への心づかい)の著述が(とりわけ)発達させたこうした視点は、男性の欲望への女性の服従が影響力と権力の根源であると提唱する。クロード・アビはオノレ・デュフレの代表作『アストレ』を引用している。「完全なる服従は単に利益のためだけでなく、女性の愛の条件でもある」 彼女は、女性が個人として平等の権利を探求するのは、「生活習慣の凶暴化」にいたらせるとつけ加えている。

モナ・オズフは、フランスでは(アメリカとは反対に)「相違が服従関係において―相反するのではなく―平等に存在する」を高く評価し、それに満足している。彼女は同様に(モンテスキューを引用して)、生活習慣は法律よりも重要だと記している。誘惑のゲームから引き出される影響力および喜びの比較対象になるべく「法的およびと政治的な平等の空しさ」を、女性は年月をかけて理解できるようになる、と書いている。この二人の知識人にとって、平等の権利を求めるフェミニズムは、この世の自然の秩序に反する常軌逸脱であり、レズビアニズムに類似している。

ここでの問題は、男女関係をも広く巻き込んだ、貴族政治的共和主義と形容するイデオロギーにある。相違は(男性に対して女性の)階級の流儀に含まれるべきで、法的平等を定着させようとする努力は単に空しい(相違は-性の相違のように-「この世の自然の秩序」の一部をなすので)だけでなく、同時に混乱の要因でもある、と彼女は暗示している。「愛の同意」は、国家的調和の利益において、その人の上級者への服従を意味する。モナ・オズフによると、誘惑の言葉がもたらす政治的解釈はこのようなものだ。「フランス領土に普及した明白な相違を負わされる強迫観念は、あまりにも容易に乗り越えられた。なぜなら、感情的な執着が、全フランス人に共通する本質の確実性に従ったからである。こうして、すべての人が局地的な相違を育み、魅力や値打ちを感じ、媚態やうぬぼれさえも持つが、反逆の精神は抱かない。従属を事前に同意した抽象的な結合における、不安や攻撃性のない相違である」

こうした条件から、ドミニク・ストロス=カーンのケースが、誘惑に重要なウエイトをおくイデオロギーの仲間たちを混乱させたのは当然である。それは単に性的特質や私生活の問題ではなく、同意について重要視することでもない。男性の権利と女性の服従の単なる問題ではない。この事件で投げかけられているのは、フランス国家のアイデンティティーの文脈において相違と平等がどう理解されるのかを知る問いである。


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by k_nikoniko | 2011-08-01 00:43 | ジェンダー

セクハラDSK事件「メードと経済人」

2011年5月23日のルモンド紙電子版に掲載された、フランスの人類学者イレーヌ・テリィの寄稿「メードの女性と経済人」です。
ドミニク・ストロス=カーンIMF元専務理事のセクハラ逮捕の1週間後の記事です。
ここから、フランスではフェミニズム論争がはじました。
*意訳しています、誤訳たくさんあると思います。

5月15日の日曜日の朝、我々フランス人は完全に、驚愕、不信、悲嘆した。政治および道徳的不幸な前代未聞の状況に直面し、沈黙中の神聖連合において、フランスの汚れたイメージをかわすために、事件の意義にいたらせる必要性をあちこちで感じている。茫然自失の奇妙な時間を過ごし、「DSK事件」と名づけられたことを探求しようと、議論が権利を回復した。論評の渦のなかで、どのようにそこから見出すのか? 昔だったら三文の価値もない男性のプライベートや人格の問題だが、性に関する嫌疑は決定的な犯罪訴訟の範疇なのは明確だ。それを覚えているのであれば、新しい分裂がフランスの議論に出現したのが見えてくる。ある方法は明らかで、今日、世界経済の支配者だけを考慮するか、移民のメードのかわいそうな女性だけを同情するか。それを互いにあまりにも批判し合っているため、それほど単純には理解できない。

一方では、無実の推定という基本的な価値を、なによりまず強調する人たちがいる。その無実の推定は、事実を持ち出された張本人が要求する権利である。最初の数日間、彼らのことは、家長父性の秩序を喧伝する支持者として扱わずにはいられないようだった。なぜなら、フランスの世論を作る立役者の中であまりにも多数派で、推定被害者の境遇とはあまりにも違うからだ。無実の男性を彼らの流儀で弁護するために、十分頭に叩き込まれた男尊女卑の反射的行動がここそこで花ひらいたのは事実である。「死者は出ない」「メードのしめあげ」 しかし、時代遅れの気のふれたような言動が、救済のしるしだと我々に信じ込ませるのは困難だろう。裁判を受けねばならない人たちの権利を強硬な弁護で隠す男性的陰謀なのだ。これは支配的男性の弁護ではない。無実の推定のなかに自分たちの反応を導く唯一のコンパスを見出すことができると信じている男性たちは、支配的男性を憂慮している。これはむしろ、現代の社会関係から出現した新しい挑戦に対する、ある種の精神的な幻覚である。

もう一方では、-当初は女性、フェミニスト、社会参加者たちが多かったが、その女性の人格を尊重する新しい形態を民主的価値に高めようと努力する人たちがいる。その女性は法的用語でまだ実際の名はないが、彼女の権利として真実性の推定を訴えることができる。性暴力や性的侵害の被害者であると意思表示する人が、不利な証拠までして人を欺かないことを前提にした推定である。性的攻撃の特性は、傷害や殺人と違い、「客観的な」現実それ自身を第三者の目で認められないことにある。それを私たちは知っている。性的攻撃は存在するのか? 対峙する当事者の証拠と信用性という恐ろしい問題に取り組む訴訟の前に、これらの刑事事件に問われる特殊な疑問が明らかにそこに根づいている。最初に問題になるのは、嫌疑をかけられた無実の推定だけでは決してない。訴えられた性の法律違反ともとれる可能性が、開廷のための資格を備えた第三者の目でかなり現実としてとらえられることにある。違反ともとれる可能性は最初に、実際に考慮に入れられる目的で、提供された可能性を経て推定被害者へと移行する。告訴した性的被害者は、警察署で、ますます好意的に受け入れられる。しかし、我々は、フランスの政治文化において、真の権利として真実性の推定を考慮する準備はできているだろうか?

私たち同国人の多くが辛い感情を持っていたため、フランスでは、ジャロさんに対し、推定加害者であるドミニク・ストロス=カーンに証拠立てられたのと同等の尊重を認めなかった。この衝撃的な状況は、まず、個人的な道徳ではなく、共通の正当性と制度の問題である。私たちはそれをどうやら見て取ったのだ。二人を踏みつけにしながら、性犯罪と性の軽犯罪の正当性を組み立てるために、無実の推定と真実性の推定はどちらも同じくきわめて重要である。しかし、今のところ私たちは、無実の推定と真実性の推定をはっきり区別しておらず、どのように事実がまとまってつながっているかがまだあまりわからない。まるで一方と引き替えにもう一方を選択できなかったかのようなことが起きる。無実の推定の純真な支持者たちは、ドミニク・ストロス=カーンが天下のさらし者にされたときに彼に対する素晴らしい基礎概念を尊重したことを自慢しながらも、同時に、暴行されたと彼を告訴した若い女性が要求している真実性の推定を笑いものにしていることをわかっていなかった。


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by k_nikoniko | 2011-08-01 00:33 | ジェンダー