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海外で出会った人々:スリランカの若者

通っている英語の語学学校に、スリランカの若者が加わった。
パリから英語を勉強しにロンドンへやってきた、20代のスリランカの男性。
両親がパリへ移民し、彼は祖国に行ったことがない。スリランカ語もほとんど話すことができない。
しかし、彼は、パリの自慢話を全然しなかった。

同じクラスには、スペイン人、イタリア人、トルコ人などが多かった。
アジア系は、彼と私だけ。
授業中、イギリス人の教師に、「僕と君の違うところは?」と質問され、彼は「名前が違う」とだけ答えた。

トルコ人の女性は、授業が終わってから私にこう言った。
「彼はきっと肌の色にコンプレックスを感じているのね。肌の色が違う、とは答えたくなかったんだわ」
私はそうした考えがまったく浮かばなかったので、ドキっとした。
自分もまた、白人に対し、コンプレックスを感じていたからかもしれない。

「日本人の女の子がダンスをするのを見たいもんだ」とか、このスリランカの若者は、私にときどきちょっと憎たらしいことを言った。
でも、そこには親しみが感じられた。アジアの仲間、だしね。

1992年、ロンドンにて



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by k_nikoniko | 2014-01-21 09:54 | ひとりごと

映画『いとしきエブリディ』

旧知のライターとランチした後、映画『いとしきエブリディ』を観ました。
世界各地でとんでもない出来事が起きているなか、イギリスの一家の何もない日常を淡々と撮りつづけた作品。何か起きそうで、何も起こらない。ちょっとしたAffairぐらい。でも、このAffairが、この一家には重大事件ともいえる。
日々大騒ぎしているからか、ここで描かれる生活感が新鮮に感じました。
昔取材したロンドンの刑務所も思い出した。クリスマス前になると、軽犯罪を犯して、刑務所に入りたがる人が多いそう。暖かいし、食事も出るし。

イギリス映画を観たら、おやじパブに行きたくなりました。
そういえば、先日、赤坂のイングリッシュ・パブでギネスを飲んだんだった。
ベルビー赤坂がビックカメラになっていて、がっかり。

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by k_nikoniko | 2013-12-07 16:10 | カルチャー

サウスウェールズの炭鉱労働者

2009年8月9日、北海道岩見沢市の岩見沢コミュニティプラザで、シンポジウム「日本とウェールズにおける炭鉱の記憶:『地域再生へのアーカイブと社会教育の役割』」が開催されました。
基調講演を行ったスウォンジー大学のクリス・ウィリアムズ教授が、会場からの質問に答えた一部です。

スペイン戦争について
サウスウェールズから参戦した兵士のうち、114名が炭鉱労働者で、一番多くの割合を占めていた。
なぜ、サウスウェールズの炭鉱労働者かというと、民主主義を守るのはもちろんだが、スペインの置かれた状況が、自分たちと重なる面があったからだ。たとえば、政府の政策が労働者にとって不利だったなどだ。
それで、志願して参戦した。
ファシズムがヨーロッパに広げてはならない、という使命感もあった。
「ファシズムを許さない、それに抵抗する」という精神が流れていた。
その後、世界第二次大戦がはじまり、その際もファシズムに抵抗した。
戦後、1948年に冷戦がはじまり、共産主義が影を潜める。
炭鉱労働者はもともと労働党を支持していて、過激化する傾向もみられたが、冷戦中に共産主義を弱体化するという形に代わっていった。

コミュニティー・レストランについて
サウスウェールズにも、エンタープライズを立ち上げるという話があった。
90年代に、コミュニティービジネス、いろいろな社会に対応する形で、ビジネスを立ち上げている。
協同組合 エンタープライズを興し、サウスウェールズ全体に広げている。
ウェールズの政策の方向性として、社会整備という名で、旧産炭地のエンタープライズを支援する政策をうちたてた。最終的には地域の産業にまでもっていこう、という政策だ。

負の遺産という意識はなかったのか? (安全管理・強制労働)
サウスウェールズでも、事故が起きると、人命を失う。病気など、負の遺産という面がある。
日本の安全基準が低いとは思っていない。戦後の安全基準は、大変優れている。
炭鉱は、災害や疾患など、一般的に社会では負のイメージでとらえられている。
アバーデンでは、128人の子どもたちが命を失うという象徴的な事故があった。
危険、リスクをともなう仕事であり、負のイメージがあるのは当然だ。

再就職はどこでしているのか。
工業部門が大きくなり、そこで雇用を生んでいる。
仕事がなくなれば、リタイアするしかない。
家電工場があったが、そこも撤退してしまった。
200人の雇用しかないような工場(洗濯機)しかない。

DOVEワークショップ(女性たちに学習の機会を提供するために創設)の受講者はどのような活躍をしているのか?
ワークショップは、ヨーロッパの助成団体から助成を受けている。
受講したコースによって、就職先はそれぞれ違う。教師、ソーシャルワーク、公共施設など。
図書館の分館がDOVEの施設内にあり、女性たちのケアをしている。
託児所があり、女性の自律を支援している。
DOVEワークショップに参加した女性で、図書館の司書のアシスタントとして働いている人もいる。
DOVEそのものの機能として、雇用機会を作ることにある。
たとえば、生涯学習コースで修士を取得したマネージャーがいたりする。
働いていたが、さらにスキルアップし、雇用を確保していく、ということもやっている。

サウスウェールズの炭鉱マンはプライドを持っているのか?
プライドを持っているかを判断するのは難しいが、私が会った炭鉱労働者は、誇りを持っていた。
70年代、炭鉱に対する一般的なイメージは、乱暴者でデリカシーがないといったものだった。
しかし、きちんと見てみると、あれほどきちんとした連帯が作られているのは、炭鉱だけといえる。社会が落ち着いて流れている。他の産業にはない環境。
社会はそれをちゃんと認めているので、尊敬の念を持つ。
以前炭鉱で働いていた人は、「危険で大変な仕事をきちんとやっていた」というのが、自信になっている。
マイナスイメージがないわけではないが、「炭鉱の歴史は残さなければならない」という雰囲気はある。
「こうした仕事をいつまでもやっていたくない」という人もいたし、そういう両方の気持ちを持っていたのではないか。
「生まれ変わっても炭鉱を選ぶか?」という問いには、素直にうなずけないかもしれない。
若い男性は、炭鉱で働きたがった。20世紀はじめは、仕事の選択が少なく、炭鉱を選ばざるを得ないという状態だった。
他の仕事に逃げていく人もいた。
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by k_nikoniko | 2013-11-18 15:18 | 社会問題

シェイクスピアを訪ねて

天国と地獄を体験した
ストラットフォードの少年時代

近年のロンドンの盛り上がりを、ルネッサンスに例える人がいる。ファッション、アートは世界中から注目され、新しくオープンしたショップやパブ、レストランは、いつもにぎわっている。“復興”という言葉がふさわしい華やかなムードが漂うなか、人々の流れは、テムズ川南岸へと向かっている。16世紀のルネッサンス期、劇場や宿場が集中していた娯楽エリアが、再びそのにぎわいを取り戻しつつあるのだ。このバンクサイドと呼ばれるサザック地区に、今年5月、グローブ座が昔の姿で再オープンした。
文芸復興の中心的人物、忽然と現れた天才詩人シェイクスピア。彼をなくして、イギリスのルネッサンスは語れない。数々の素晴らしい作品を残したシェイクスピアだが、その生涯は多くの謎に満ちている。グローブ座を中心とした演劇活動に燃えたロンドン、そして、生まれ育ち、晩年息を引き取るまで過ごしたストラットフォード・アポン・エイヴォン。シェイクスピアの魅力の原点は、この2つの町にあるといえる。
ストラットフォード・アポン・エイヴォンは、イングランドのほぼ中心に位置する。16世紀の昔、ここは200軒程の家が点在する静かな村だったが、ロンドンと地方都市を結ぶ主要道路の接点となっていたため、地域経済に重要な役割を果たしていた。
農夫の子として育ったシェイクスピアの父ジョンは、徒弟奉公を経て手袋商人となり、1557年に、農家出身のメアリー・アーデンと結婚。ヘンリー・ストリートに住居兼店舗を構えた。シェイクスピアがこの家で生まれたのは、1564年4月のこと。洗礼の日から推測して、23日が誕生日となっている。シェイクスピアは、8人兄弟の3番目、長男だった。父ジョンの商売は繁栄し、シェイクスピアの生まれた翌年に参事会員、1568年には町長に選ばれるなど、ストラットフォードの公務においてもトップの座についた。
裕福な家庭に生まれ、幼年期を過ごしたシェイクスピアだったが、その幸せは長く続かなかった。彼が9才の頃から、一家は財政困難に見舞われはじめ、ジョンは、財産や土地、社会的地位を次々に失っていく。没落していく父の姿から、シェイクスピアは多くの教訓を得たに違いない。彼が将来、実業家としての才覚を発揮したのも、この時期の経験からきていると思われる。
シェイクスピアは、小学校を卒業後、生家に近いエドワード6世グラマー・スクールに進学した。このグラマー・スクールは、無料であったのに加え、オックスフォード出身の教師が教える、レベルの高い学校だったという。通常は15才で卒業だが、シェイクスピアは途中で学校を辞め、親の家業を助けたそうだ。ラテン語、ギリシャ語、聖書、ギリシャ神話、北欧神話など、シェイクスピアが無限の知識を持っていたことは、彼の作品から明らかである。これらの知識は、グラマー・スクールで学べる以上のものであり、大学へも行かず、海外体験もないのに、どうしてこれほどの知識を得ることができたのかは、大きな疑問点だ。シェイクスピア家は異教徒カトリック信者で、高貴なカトリック関係者から教育を受けたとか、本人ではなく全くの別人が代わりに書いたなど、様々な説がささやかれている。

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by k_nikoniko | 2013-10-16 10:59 | 掲載記事(1991~1999)

英語が話せても歴史を知らなければ国際人になれないよ

イギリスが軍事介入断念。シリアは石油があまりとれないしね。シリアはフランスの委任統治領だった(イラクはイギリス領だった)ので、手を出さないほうがいいという、イギリスのしたたかさかも。フランスはしゃしゃり出てまたヘマをする…。
などと考えながら、イギリスの高校生向け世界近代史の本を久しぶりに開いてみました。それにしても、日本の立ち位置がわからないところが不気味。

学校の教科のなかで、歴史が一番苦手だった。
年号が覚えられない。だから、テストの点数がとれない。

イギリスに住みはじめたとき、歴史を知らず、恥ずかしい思いをたくさんした。
そこで、30歳にして、イギリスの高校卒業テスト(GCSE)の参考書を買いこみ勉強…。
日本ではほとんど習わない世界近代史。

読破するのは途中でくじけたので、今日、久ぶりに本を開いてみた。

1冊はドイツが統一された1870年のからはじまり、もう1冊は1914年の世界第一次大戦からはじまり、どちらも1988年まで。
問題集にもなっているが、イギリスの参考書は、年号とできごとを暗記して答えるという問題がまったくない。

たとえば、「第二次世界大戦中の日本とアメリカについて、次の資料を読み、質問に答えなさい」という問い。
資料は、ハワード・ジン(歴史家)の著述からの引用やトルーマン大統領の発言などA~Gの7つ(これを読むだけでも大変)。
そして質問(17問)。
・資料Aによると、アメリカは日本に対し、どのような経済制裁を行ったか?
・資料A~Cの証拠、そして自分の知識から、アメリカと日本の開戦について、どちらに責任があると思うか? その理由を完璧に説明しなさい。
・資料E~Fを使って、アメリカが日本に原爆を落とした理由のリストを作りなさい。
といった具合。

歴史に関して、高校卒業までに達成すべき4つの目標は、
1)関連知識を評価・選択し、それを明確に筋を通して展開する
2)原因と結果、継続と変化、類似と違いのコンセプトを利用し、理解する
3)過去の人々の見方から出来事や問題を考える
4)広範囲のさまざまな歴史的資料を読み解くのに必要なスキルを身につける

高校までにこういう学び方をしているかしていないかで、世界を見る目がまったく違ってくるだろう。

最近のイギリスの若者は歴史を学ばないそうなので、イギリスが絶対いいとは言わないが、歴史を知らなければ、英語を知らない以上に恥ずかしいというのは間違ってないと思う。

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by k_nikoniko | 2013-08-31 10:45 | 歴史

ロンドンの戦争博物館

日本には国立の戦争博物館がないという話を聞き、昔、ロンドンの戦争博物館について書いたことを思い出しました。
“戦争”は嫌いなので、この手の博物館は避けていたのですが、パリとソウルの戦争博物館は友人に誘われて行きました。
ソウルでは米兵がたくさん見学に来ていたのが印象的でした。
最初に訪れたロンドンの戦争博物館では、広島原爆の展示コーナーに展示してあった、変形した「飯ごう」がいちばん記憶に残っています。

以下、1993年の記事です。

8月15日は終戦記念日。戦争は過去のことと片付けがちな日本人が多いが、旧ユーゴスラビア紛争をはじめ、現在でも戦争は続いている。戦争博物館は、戦争の残虐さと平和の大切さを、見て触れて体験しながら確認できる博物館だ。
開館は第一次世界大戦後の1920年。1936年に現在の場所に移され、第二次世界大戦中1940~46年の休館後、再び開館。その後、1986年に大改装し、ニューオープンした。
入るとすぐ、実際戦争で使用しされた戦闘機やミサイルなどが展示されている大ギャラリー。
地階は第一、第二世界大戦に関するメイン展示室になっている。武器や軍服、当時の生活用品など、年代やテーマによって展示。広島原爆のコーナーもある。
フォークランド戦争に関する展示室や、2つの大戦中に描かれた絵画を展示したアートギャラリーなども。
また、1916年のソンム川前線の塹壕(ざんごう)や第二次世界大戦時に空襲で被害を受けたロンドンのストリートが再現されており、実際に歩いて通ることができる。照明、音響、匂いなど当時のままで、緊迫した生活を体験することができる。
そのほか、戦闘機の航空体験ができるコーナーもある。
10月15日までは戦中のロマンスをテーマにした「FOECES SWEET-HEART」を開催。ラブレターやウエディングドレスなど、悲惨な戦争の中でのひとときの幸福に感動するだろう。
また、子供向け特別イベントも開催されている。
8月29日までは、第二次世界大戦時の占領下のヨーロッパからの脱出を体験できる「エスケープ・ルート」、9月12日までは大戦中のおもちゃの展示会を開催。
戦争博物館では、親子連れはもちろん、孫を連れた高齢者の姿も多く見かける。博物館の見学は、戦争を知らない世代へ、戦争について語り伝えるに機会になるだろう。

『UKういーくりー』 1993年8月12~17日号
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by k_nikoniko | 2013-08-17 09:35 | 歴史

英国ガーデンデザイナーのデビッド・スティーブンス氏

日本人はイギリスが好きですね。
これは1998年の記事。日本での英国式庭園ブームに「どうしてなんだろう?」とのご意見も。


「やあ、いらっしゃい」
 満面の笑みで出迎えてくれたのは、ガーデンデザイナーのデビッド・スティーブンスさん。彼の自宅は、ロンドンから電車で約40分、ミルトン・キーンズからさらに車で15分ほどのところにある。
 まわりには20軒ほどの人家しか見当たらない。「ここは、パブもショップもないんです。こういう田舎はね、英語で“ハムレット”というんですよ」 1650年に建てられた家を改装して、5年前からここに住みはじめたという。
 「4年前から6月の間だけ、庭を一般公開しています。シーズンが過ぎてしまったので、今は少し、みじめな状態だけどね」
 BBCのテレビ番組にも出演しておなじみの彼は、いたって気さくな人柄。7月のある日の午後、自らコーヒーを入れながら、さっそく庭園談義がはじまった。

コピーではない自分の庭造り

「今、日本では英国式庭園が大流行なんだってね。でも、日本には伝統的な日本庭園という、すばらしいスタイルがあるのに、どうしてなんだろう。現代の生活にマッチした日本庭園を追求したほうが、おもしろいと思うけど」
 イギリスも日本も、庭園の歴史は長い。彼は、その本来持っている伝統を無視し、ほかの様式をコピーすることに納得がいかないようだ。
 「真似をするのは感心しませんね。イギリスの庭をそっくりそのまま日本に作ろうとして、同じ植物や小物を買いそろえるなんて、おかしなこと。人はそれぞれの庭を造るべきなんです。生活環境に調和した、自分だけの庭を造ることのほうがすてきですよ」
 こう語るスティーブンスさんは、イギリス人でありながら、伝統的な英国庭園に否定的で、“コンテンポラリーガーデン”の先駆者として活躍している。
「伝統は大切ですが、そこにとどまっていてはいけないと思うのです。しかし二一世紀を目の前にしているのに、人々は50年前の庭をイギリスの庭として見に来る。建築デザインや音楽やファッションはこんなにモダンなのに、ガーデンは古典へ逆戻りしているとしか思えない。イギリスでも、モダンガーデンを理解してくれる人は少ないんですよ」
 庭も現代的に変化しなければならない――。新しいアイデアを表現する彼の庭は、いわゆる英国式のものとはかけ離れている。過去22回の受賞歴を持つ『チェルシー・フラワーショー』への今年の出典作品も独特であったようだ。
「植物を使わない、木と岩だけの庭でね。空間の利用がテーマになっています。ちょっと京都の庭に通じるものがあるかな。私のデザインは、ますますシンプルな方向へと向かっていますね」
 彼のデザインは、“ストラクチャー(構成)”という言葉で表せるだろう。たとえば、植物を用いる場合は、立体感を大切にして種類は4、5種におさえ、その代わり、ひとつの種類を100本くらい使ってボリュームを出す。100種類もの植物をカラフルに多様するという、伝統的な英国式庭園とは、まったく反対である。
 「人々が自由に旅するこの時代、デザインが“日本式”“英国式”ととどまっていられるわけがない。人間同様、デザインも動いているんですから。ほかの文化から影響を受けるのは、悪いことではありません。そこからインスピレーションを得て、オリジナルの庭を造っていけばいいのです。そう、コピーとインスピレーションはまったく違うものですね」

ガーデンデザインという仕事

 ガーデンデザイナーという職業は今でこそ広く知られているが、一般的になったのは80年代に入ってから。70年代はイギリスにも専門の学校はなかったという。スティーブンスさんは、テムズ・ポリテクニックでランドスケープ・アーキテクチャーを学び、この道に進んだ。
 「建物と庭はいつも密接な関係にあるので、建築の勉強がガーデンデザインにとても役立っています。一般の人は、家、庭、植物と、別々にデザインしがちだけど、いいデザイナーはすべてトータルに考えます。だって、庭は孤立した存在ではないですからね」
 建築物と庭の関係は、デザインしていく家庭で結ばれていくのだという。
「デザインは、デザイナーのひとりよがりではなく、人のためにするもの。庭の持ち主、つまりお客さんが一番なんです。私はデザインをする場合、まずクライアントに会って、相手の考えていることを知ることからはじめます。家の壁の色やインテリア、寝室、家族、ライフスタイル、街の通りの様子など、あらゆる情報を収集しますね」
 その後に、庭を一人で歩いてみて、サイズを確認して分析する。そして思いついたアイデアのスケッチをクライアントに見せ、本格的な設計図を描き、最終的に賛成が得られたら、造園の作業にとりかかる。こうしてデザインした庭は100を超えるそうだ。

模様替えする庭、新しさの追求

自宅と仕事場のある建物にはさまれた庭に、まさに彼のガーデン哲学が表現されている。
「ラインを意識してデザインしてあります。水が好きなので、池や流れは必ず加えますね。庭はただ観賞されるばかりではなく、実際に歩いてもらい、人をその自然環境に巻き込む目的を果たさなければと思うのです。水の流れを渡ったり、こころよい音をたてる砂利道を踏みしめたり――。異なる空間に移動する楽しみを味わうために、私は、庭も部屋のような感覚でデザインしていきます」
 そうした庭を構成する要素は、無作為に選ばれているわけではない。たとえば、枝の長い植物は、風によって美しい動きを見せる。このときに生じる音もまたきちんと計算されているのだ。そしてラベンダーなどのハーブで自然の香りを楽しむことも。
「残念なことに、人間は植物が生み出すサウンドと香りを忘れてしまいました。私にとって、カラフルな花はボーナスにしかすぎず、むしろ、美しい葉の形のほうに興味がある。夜のライトに照らされてできる影にしても、その効果を考慮していますよ。私のこの庭はね、ときどき変化させているんです。部屋の家具の位置を替える人は多いのに、庭の模様替えをする人が少ないのは不思議だと思わない?」
 ガーデンデザインのほか、テレビ番組、本の執筆、ミドルサセックス大学の講師など、多忙な毎日を送っているスティーブンスさん。アメリカ、イスラエル、南アフリカ、スリランカなど、世界各国でも活動しており、この11月にはアルゼンチンへ行く予定だ。今はやりたい仕事だけをしているので、本人はその忙しさも感じていないようだ。
「もっとも恐れているのは、同じことを繰り返すこと。私は、新しさを追求し続けたい。いつもスタート地点にいたいと思っています」

『THE CARD』 1998年10月号
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by k_nikoniko | 2013-07-26 07:50 | 掲載記事(1991~1999)

キュー王立植物園は植物百科事典

 ロンドン南西、テムズ川沿いに広がる緑豊かな植物園は、1720年代、ジョージ二世の住むリッチモンドから息子フレデリックが借用していた土地だった。
 フレデリックの死後、1751念に未亡人オーガスタが、約3.5ヘクタールの土地に植物園を創立し、一流の庭師たちのアドバイスにより完成させた。その後、ロイヤルファミリーの土地譲与で拡大し、1840年には国家のものとなる。世界の珍しい植物を見られると評判になり、1846年頃から見物者が増え、当時、年間300万人が訪れたそうだ。1848年に温室パーム・ハウスが完成、1897年にはヴィクトリア女王即位60年祭を祝って、クィーンズ・シャルロットのコテージが贈呈された。
 200年以上の歳月を通し、“見る楽しみ”“教育”“科学研究”という三つの目的は変わらない。現在でも、世界最大の植物コレクションを誇り、有名な科学的植物園の地位を保っている。
 庭園内を歩けば、そこは生きた植物百科事典の世界だ。創立当時の樹木園には、1759年に植えられたイチョウ、プラタナス、アカシアなどを見ることができ、パーム・ハウスには、樹齢100年以上のヤシの木や熱帯地方の植物が育っている。もちろん、歴史の古さばかりが自慢ではない。ここの植物コレクションは、常に進化している。
 20年勤務しているという、園芸オペレーションおよびサポートセクション課長のアンソニー・S・カーカムさんは語る。
 「年に1回は外国へ行き、植物を採集してくるんです。最近は、中国、日本、ヒマラヤ、チリ、南アフリカが多いですね。1992年には台湾で三種類の新しい植物を発見したんですよ。この秋は北海道、来年は四川を訪ねる予定です」
 世界で絶滅の危機にある植物の保存に力を入れているため、採取するのは種であり、植物を根こそぎ持ってくることはしない。花が咲いて初めて何の種類かわからないこともあるそうだ。こうした貴重な植物はここで栽培されて、場合によっては再び自然へ戻される。現在、3500以上の植物の種を保存しているという。
 人間に恩恵を与えてくれる植物王国の理解を深める――。この一貫したテーマのもと、キュー王立植物園には、新しいテーマパークが次々と誕生している。
 1987年にオープンした温室プリンセス・オブ・ウェールズは、12種類の気候をコンピュータで調整し、それぞれに適した植物が植えられている。地球誕生と植物の進化を見て学べるのは、エボリューションハウス。この夏は、人間の衣食住と植物の関係を知るための博物館が完成した。植物を身近に感じ、誰でも楽しく理解できる工夫がなされている。
 新しい企画に携わっている、技術課長のジョン・ロンズデールさんは、2年前に完成したジャパニーズ・ゲートウエイを手がけた。
 「1910年の英国博覧会に日本から贈られた京都西本願寺の勅使門の模型を修復して、まわりに日本庭園を造りました。英国人好みの日本庭園になるのを避けるため、デザインと造園は日本人に頼んだんですよ」
さらに、自慢のコンピュータシステムについて説明する。
 「ここでは、巨大なデータベースを所有しており、プラントインフォメーションとマップを組み合わせて、どこにどの植物がどのような状態で育っているか、一目でわかるようになっているんです」
 園内の植物には、それぞれナンバーとデータを記入した札がつけられ、コンピュータにより管理している。このシステムは1980年頃から導入されたという。
 行き届いた管理のもと、大切に育てられている植物たち。古い樹木、新しい植物に触れ、自然に親しむことは、イギリス人にとって、もっとも大きな喜びのようだ。
 「一般的にイギリス人は庭いじりが好きですよね。皆、アマチュアガードナーと言ってもいいくらい。この植物園に来る人も、どのように木が育つか、どんな植物を自宅の庭に植えようか、そういうことを考えながら見学していますね。プロの人も、栽培テクニックのアイデアを学ぶために訪れているようですよ」と、カーカムさん。
 科学的な役割を果たす植物園は、同時に、庶民の憩いの場としても愛されている。

『THE CARD』 1998年10月号
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by k_nikoniko | 2013-07-01 14:39 | 掲載記事(1991~1999)

英国刑務所事情4/4

英国の刑務所は自由過ぎるのではないか。
この謎を解くため、刑罰、刑務所の改善に取り組む慈善団体プリズン・リフォーム・トラストに話を聞いた。
この団体が発足したのは1981年。
リサーチや出版物の発行などを通じて、刑務所に関する政策の改善・向上を政府に働きかけるのが主な活動だ。
一般市民に刑務所や収容者に対する意識を高めさせるとともに、投獄による刑罰をできるだけ減少させることを活動の目的としている。
罪を犯した人をより良い人生へと導き、恵まれた人間関係を形成させる手助けをする。
これが英国の刑務所の最重要点だ。
受刑者は厳しく規制されるべき、という一般市民の意見もあるが、過酷な刑罰によって彼らを立ち直らせることはできない。
刑務所に入る収容者は、恵まれない家庭環境、悲惨な人間関係を体験している者が多い。
その彼らに仕事や学習の機会を与え、薬物やアルコールによる乱れた生活態度を改めさせる場所を提供するのが刑務所なのだ。
多種多様な人種が行き交う国、英国。
刑罰、刑務所の改善が急ピッチに行われているこの国では、国連やヨーロッパの基準に応えるものへと近づけようという動きもある。
また、日本の監獄法は1908年に制定施行されたもので、著しく変化した今の社会に対応できない面も増えている。
そのため、世界の行刑思想や国際人権規約や国連の準則を考慮に入れた改正法案を過去に国会に提出した。
“刑務所に入る=懲罰”の日本、そして、“罪に目覚めさせるために刑務所に送る”英国。
両国の刑務所のあり方は違うが、共通していえるのは、歪んだ社会が犯罪を生む原因のひとつになっているということだ。

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by k_nikoniko | 2013-06-16 20:36 | 掲載記事(1991~1999)

英国刑務所事情3/4

ここが違う、日英の刑務所

住み心地:個人主義の英国はシングルルームが主流?
英国の刑務所の多くは、ヴィクトリア時代に建てられ、これらの施設は設備が古く、環境が良いとはお世辞にもいえない状況。
そのため、刑務所の近代化が見直され、92~93年に6つの新施設がオープン。
96年までに3施設が建設される予定だ。
居室は個室か二人部屋が一般的。
各部屋にはベッド、棚、トイレが設置されている。
苛めにあいやすい収容者、自殺の可能性の高い収容者用に、家具のない独房も用意。
各施設には、トレーニング用ジム、図書館、テレビ室、シャワー室、売店が備えられている。
日本でも近代的な建物に建て直す計画が進み、最近では外観の美しい建築物に変わってきている。
また、寒冷地の暖房を充実させるなど、快適さも増しつつある。
収容者は、食卓、学習机、清掃用具などが配置されている個室か共同部屋に収容される。
食堂、浴室、図書館、テレビ室は共同で使用。

食事:刑務所内の食事がマズイ、これって贅沢?
英国では、栄養を考慮したり、ベジタリアン用メニューを用意するなどの改善が実施されつつある。
自分の居室で食事をした経験がある収容者は64%。
日本の1日の食費は、未決拘禁者443円、成人受刑者496円、少年受刑者554円。
未決拘禁者には、外部からの持ち込みが許されている。
成人受刑者は食堂で食べるのが原則。
カロリー計算や栄養のバランスなどをふまえた上でのメニューの多様化、食事の改善に努めている。

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by k_nikoniko | 2013-06-16 20:35 | 掲載記事(1991~1999)