フリーライター木村嘉代子のブログです。日々感じたことを綴っています。Copyright(C)2005-2016 Kayoko Kimura
by k_nikoniko
お問い合わせ:
k.kayoko.7☆gmail.com
☆→@に変えてください

最新の記事
南スーダンPKO派遣差止め訴..
at 2017-06-20 11:06
札幌の自主夜間中学が公立化か
at 2017-06-16 08:36
ルモンド紙より「南スーダンの..
at 2017-06-03 14:05
『道新』セクハラ認めずも始末書
at 2017-05-05 17:38
恵庭OL殺人事件の第2次再審..
at 2017-05-01 14:35
通信制中学の記録映画『まなぶ..
at 2017-03-24 11:54
元原発作業員が労災認定を求め..
at 2017-03-10 11:47
南スーダンPKO派遣差し止め..
at 2017-03-03 11:39
札幌の自主夜間中学が公立化か
at 2017-02-24 11:36
約126万人が義務教育未終了
at 2017-02-16 13:11
カテゴリ
全体
掲載記事(2011~)
掲載記事(2000~2010)
掲載記事(1991~1999)
掲載記事(1990以前)
ジェンダー
男と女
ひとりごと
フランス
イギリス
国際ニュース
社会問題
原発・核
デモ日記
戦争
歴史
メディア
カルチャー


サッカー
外部リンク
ライフログ
タグ
検索


<   2015年 07月 ( 26 )   > この月の画像一覧

東電の元会長ら3人を強制起訴

久しぶりにうれしいニュースです。

東京電力福島第1原発事故をめぐり、東京第5検察審査会は本日31日、勝俣恒久元東電会長(75)、武藤栄元副社長(65)、武黒一郎元フェロー(69)の3人について、業務上過失致死傷容疑で起訴すべきだと議決しました。

告訴、告発された旧経営陣3人は、これまで2度にわたり、事前に事故を防ぐことは不可能だったとして、東京地検が不起訴処分にしていましたが、2度目の検察審査会でも起訴となりました。

川内原発の再稼働が差し迫ったこの時期に、東電の元会長らが強制起訴されたことは、とても意味深いと思います。

検察審査会の議決要旨から、「犯罪事実」を掲載します。
内容は変えていませんが、読みやすいように少し手を入れています。

被疑者・勝俣恒久(以下「勝俣被疑者」)は、平成14(2002)年10月から東京電力株式会社(以下「東京電力」)の代表取締社長、平成20(2008)年7月からは東京電力の代表取締役会長。
被疑者・武黒一郎(以下「武黒被疑者」)は、平成17(2005)年6月から東京電力の常務取締役原子力・立地本部長、平成19(2007)年6月からは東京電力の代表取締役副社長原子力・立地本部長。
被疑者・武藤栄(以下「武藤被疑者」)は、平成17(2005)年6月から東京電力の執行役原子力・立地本部副部長、平成20(2008)年5月からは東京電力の常務取締役原子力・立地本部副部長、平成22(2010)年6月からは東京電力の取締役副社長原子力・立地本部副部長。
つまり、勝俣被疑者は東京電力の経営における最高責任者としての経営判断を通じて、武黒被疑者は同社の原子力担当の責任者として原子力発電所に関する知識、情報を基に実質的経営判断を行うことを通じて、武藤被疑者は同社の原子力担当の責任者として原子力発電に関する知識、情報を基に技術的事項に関して実質的判断を行うことを通じて、3人はいずれも、福島第一原子力発電所(以下「福島第一原発」)の運転停止または設備改善等による各種安全対策に関する実質的判断を行い、福島第一原発の地震、津波による原子力発電所の重大事故の発生を未然に防止する業務についていた者である。

福島第一原発は、昭和40年(1965年~)代に順次設置許可申請がなされて設置され、我が国では津波に対する余裕の最も少ない原子力発電所とされていた。

しかし、文部科学省に設置された地震調査研究推進本部(以下「推本」)の地震調査委員会が平成14(2002)年7月31日に公表した「三陸沖から房総沖にかけての地震活動の長期評価について」(以下「長期評価」)において、三陸沖北部から房総沖の海溝寄りの領域内のどこでも津波マグニチュード8.2前後の津波地震が発生する可能性があるとされた。

原子力安全委員会が平成18(2006)年9月に改訂した耐震設計審査指針(以下「新指針」)では、津波について、施設の供用期間中に極めてまれではあるが発生する可能性があると想定することが適切な津波によっても、施設の安全機能が重大な影響を受けるおそれがないことは十分に考慮したうえで設計されなければならないとされた。

原子力安全・保安院は、それを受け、各電力業者に対し、既設の原子力発電所について新指針に照らした耐震バックチェックを指示。
そのバックチェックルールでは、津波の評価につき、既往の津波の発生状況、最新の地検討を考慮するとされる。
その一方で、それまでの海外の事例や東京電力内で発生した浸水事故等により、想定津波水位を大きく超える巨大津波が発生して原子力発電所が浸水した場合には、非常用の電源設備や冷却設備等が機能喪失し、最悪の場合には炉心損傷等の重大事故が発生する可能性があることがすでに明らかになっていた。

平成19(2007)年11月ころより、東京電力では、耐震バックチェックにおける津波評価につき、推本の長期計画の取り扱いに関する検討を開始。
その結果、平成20(2008)年3月ころには、推本の長期評価を用いると福島第一原発の小名浜港公示基準面+10メートルの敷地(以下「10m盤」)を大きく超える津波が襲来することが判明した。
それ以降、武藤被疑者は少なくとも平成20(2008)年6月に、武黒被疑者は少なくとも平成21(2009)年5月ごろまでに、勝俣被疑者は少なくとも平成21(2009)年6月ごろまでにはその報告を受け、被疑者ら3名はいずれも、福島第一原発の10m盤を大きく超える津波が襲来する可能性があり、それにより浸水して非常用の電源設備や冷却設備等が機能喪失となり、炉心損傷等の重大事故が発生する可能性があることを予見し得た。
したがって、武藤被疑者は少なくとも平成20(2008)年6月以降、武黒被疑者は少なくとも平成(2009)年5月以降、勝俣被疑者は少なくとも平成21(2009)年6月以降、福島第一原発の10m盤を大きく超える津波が襲来した場合に対する何らかの設備改善等の安全対策を講じることを検討し、何らかの合理的な安全対策を講じるまでの間、福島第一原発の運転を停止すること等も含めた措置を講ずることにより、いつか発生する可能性のある大規模地震に起因する巨大津波によって福島第一原発が浸水し、炉心損傷等の重大事故が発生することを未然に防止すべき注意義務があった。
しかし、これを怠り、必要な対策を講じることなく、運転を停止することもないまま漫然と福島第一原発の運転を継続した。

その過失により、平成23(2011)年3月11日午後2時46分に発生した東北地方太平洋沖地震(以下「本件地震」)に伴い、本件地震に起因して生じた巨大津波による福島第一原発の浸水により、全電源喪失により非常用の電源設備や冷却設備等を機能喪失させ、炉心損傷等の重大事故を発生させた。

同日以降に生じた水素ガス爆発等により福島第一原発から大量の放射性物質を排出させた結果、別紙被害者目録(省略、以下同様)の番号1ないし13の計13名につき、水素ガス爆発等により生じたがれきに接触するなどして同人らにそれぞれ同目録記載の障害を負わせた。

福島第一原発から約4.5キロメートルに位置する福島県双葉郡大熊町大字熊字新町176番1所在の医療法人博文会双葉病院に入院していた患者のうち同目録の番号14ないし57の計44名につき、前記放射性物質の大量排出に起因して災害対策基本法に基づく避難指示により、長期間の搬送、待機等を伴う避難をさせた。その避難の過程において、同目録記載の同人らの既往症をそれぞれ悪化させ、よって、同項目記載の日に同人らをそれぞれ同目録記載による死因により死亡させたものである。


[PR]
by k_nikoniko | 2015-07-31 19:14 | 原発・核

福島の現実(週刊女性)

地産地消を奨励の福島県、弁当持参は「復興の妨げ」の声も

前出の森園さんは、いまでもガラスバッチをつけ、線量計を持ち歩き、外出時にはマスクも欠かさない。
「このところ、『自分だけが浮いている』と感じますね」と苦笑する。子どもがいなかったこともあり、夫とともに郡山にとどまった。
20代に化学物質などが原因で体調を崩し、食事療法を取り入れて健康管理に気をつかってきた森園さん。それだけに、放射能による体への負担を心配だ。
「除染がはじまったときは、すごく期待しました。実際、自宅を除染してもらったら、効果があったので」(森園さん、以下同)
屋外の空間線量は0.7μ㏜だったのが、今は0.2μ㏜ぐらいに。放射能汚染物の入ったフレコンパック4個は、庭に埋めてある。
「除染というより、移染ですよね。ホットスポットもあちこちにあるし」
たとえば、公民館横の砂利の上は、昨年10月の測定で11μ㏜。雨どいがなく、雨が直接落ちるからだと推測する。
「ここは、お母さんがバギーで通るところ。”早く除染したほうがいいのでは?”と施設の職員に言ったら、”そういわれても…”と。そんな感覚なんですよ」
行政も政治も、子どもの目線でやるべきだと思っている。
「甲状腺がんの疑いで85人の子どもが手術を受けたのに、”命にかかわらない”と平気で言ってのける大人の、なんて無神経なこと!」
口には出さずとも、母親たちの不安は消えたわけではない。その証拠のひとつに、子どもの室内遊技場はいつも満員だという。
森園さんは、「風評被害と言われることが一番のストレス」と嘆く。
「原発事故がなかったら、実害も風評被害もなかったんです。どんなにとりつくろっても、原発事故で汚染されたのは事実。それを認めたうえで、どういう政治や行政をやっていくか、どう物事をとらえて生きていくか、を考えるべきなのに」
それをいっさいやらずに、復興にひた走る福島。復興バブルで、土木建築や不動産関係は儲かり、収入格差も広がっている。
「除染が公共事業になってますよね」
除染事業を担うのは大手ゼネコンだが、実際に作業をする2次、3次の下請け。作業者の健康被害は顧みられているとはいえない。
「被ばくをないものとして、事業が進められている。それが怖いです」

帰宅困難区域の女性「帰ったら危ない」で町民に叩かれる

脱原発訴訟にたずさわる河合弘之弁護士は、事態は深刻だと指摘する。
「時間が経てばたつほど悪化している。不可逆なコミュニティ崩壊、家庭崩壊が今も進行中です」
福島での分断や対立は複雑だ。逃げ出したい若夫婦と残りたい年老いた親との亀裂。3世代で住んでいたのに、避難先の狭い仮設や借り上げ住宅で分かれて暮らすことになった家族。まとまって移動できなかったため完全に分解された地域。
「4年経ち、家を買った人はもう戻る気はない。物理的にも精神的にも、故郷の復興は難しくなっています」(河合弁護士、以下同)
仮設や借り上げに住む人と、もともとの地域の人たちとの摩擦も生じている。「昔は4時起きして、乳しぼりや畑仕事をしてきたのに、朝起きてもすることがない。毎月10万の賠償金をもらい、パチンコに行ったり、昼間から酒を飲んだり。全員ではないけれど、普通の人は弱いですからね。そうすると、”なんだあいつら”という話になる」
同じ仮設のなかでも、自主避難者は切り詰めて生活しているのに、帰還困難地域から来ている人たちは羽振りがよく見える。そんな日常的な心の行き違いがどんどん積もっていく。
「思いやり、惻隠の情というのをお互い持たないと、ますます分断が深まっていくでしょう」
だが、こうした状況が好都合な人たちもいる。
「国や電力会社は、コミュニティが崩壊してくれたほうがいいんですよ。集団での強い要求が出してこないし、対策も簡単だから」
除染などどうでもいい――、そう住民が言い出すのを待っている。それが、電力会社や政府の本音ではないか、と河合弁護士は見る。
臭いものにはふたをして復興したことにする。そして、〝はい再稼働しましょう!〟というわけだ。
「国や東電を相手に原発事故の損害賠償や刑事責任を追及すること。そして、いちばん大切なのは、再稼働差し止めの裁判を日本全国で展開することです」
近々再稼働が危ぶまれる原発は、川内(鹿児島県)、大飯(福井県)、高浜原発(福井県)。これらすべての原発の差し止め裁判を河合弁護士は担当している。
「原発を2度と稼働させない。それが究極の目標です」
郡山市は2月24日、市議会で『九州電力・川内原子力発電所の再稼働に反対する意見書の提出を求める請願』を採択した。
傍聴した前出・森園さんは、「小さな声でも、”2度とこのような原発事故を起こさない! 再稼働と原発輸出を絶対に許さない!”と言いつづけてきた」とこの4年間を振り返る。
また木幡さんも、「原発を誘致して、稼働したら、原発事故でこうなってしまう。それを世間に知らせなくちゃいけないんだよね」と言い、次のように結んだ。
「もう終わったと思ってるみたいだけど、まだ終わってないんだよ」

『週刊女性』2015年3月24日号


[PR]
by k_nikoniko | 2015-07-28 07:58 | 掲載記事(2011~)

チャールズ・ディケンズのクリスマス・カロル

名作の世界 クリスマス・カロル チャールズ・ディケンズ

「とにかくクリスマスはめでたいと思うんですよ。親切な気持ちになって人を赦してやり、情けぶかくなる楽しい季節ですよ」(新潮文庫・花岡花子訳)
 クリスマス・イブの夜、ケチで冷酷なスクルージに、甥フレッドはそう言い残し、クリスマス・パーティーの開かれる自宅へと帰っていった。英国の文豪ディケンズが『クリスマス・カロル』を書いた19世紀ヴィクトリア時代のクリスマス。その習慣の多くは、20世紀の英国のクリスマスにも受け継がれている。英国人にクリスマスの予定を聞けば、ほとんどの人が「家族とパーティー」と答えるように、クリスマスは家族と過ごす年に一度の最大の祭りなのである。
 現在のクリスマスの基礎を作り上げたといわれるディケンズ。12月のロンドンはグレーの空が低くたれこめ、夜が駆け足でやってくる。19世紀のロンドンでディケンズはどのように暮らしていたのだろう。
 英国は18世紀の産業革命により人々の生活が大きく変化していた。地方の労働者が集中し、急激な発展を遂げていたロンドンは、まさにエキサイティングな町だった。だがその反面、階級制度による貧富の差や失業などの社会問題が表面化しはじめた時代でもあった。
 ディケンズが家族とともにロンドンにやってきたのは10歳のとき。しかし、事業の失敗で父親は刑務所へ送られ、靴墨クリーム工場で働くはめになってしまう。幼いディケンズが見たものは、貧しく不公平に満ちたロンドンであった。刑期を終えた父の援助で学校を卒業したディケンズは、15歳で弁護士事務所で働きはじめるが、仕事に対する興味を失い退職。その後、18歳で新聞記者となり、文才を認められ作家へと転身することになる。1836年、24歳のときにエッセイ『ボブのスケッチ』、翌年には『ピクウィック・ペッパーズ』を発行。独特なキャラクター設定と鋭い観察眼で、たちまち人気の作家として成功を遂げた。
 ディケンズのさまざまな足跡が残るロンドン。1837年~39年の2年間、ディケンズ一家が暮らした家ダウティ通り48番地は、現在ディケンズ・ハウス博物館として一般公開されている。友人らを招いてパーティーを開いた居間、小説を書くための小さな書斎、ピアノの置かれた客間、そしてクリスマスの料理作りに活躍したであろう台所。この家で書き上げた『ピクウィック・ペッパーズ』『オリバー・ツイスト』『ニコラス・ニックベリー』が、ディケンズを成功へと導いたのは言うまでもない。
 ディケンズは1843年~48年の5年間に『クリスマス・カロル』をはじめ5つのクリスマスの物語を書いている。クリスマスのごちそう、家族舞踏会、ゲーム……。貧しくても愛情に満ちた、心温まるクリスマス。人々は、クリスマスという神聖な日を利用して、古き良き時代を回顧し、近代化によって失われつつある人間同士の絆を取り戻そうとしていたともいえる。クリスマス・ツリー、クリスマス・カード、プレゼント交換、クリスマス料理など、“伝統的な英国のクリスマス”が確立したのは、まさにディケンズの生きたヴィクトリア時代であった。
 ヨーロッパでは、キリスト誕生以前から、行く年を惜しみ、来る年を祝い、真冬に祭りが行われてきた。それは食べて飲んで、厳しい寒さのなかでの生活をお互い励ましあうというものだった。実はキリスト誕生の日は定かではなく、初期のキリスト教者の間では誕生を祝うという習慣はなかったのである。12月25日をキリスト誕生の祝日クリスマスと設定したのは、ローマ・カトリック司教ジュリアス一世。しかし、教会がこの日をキリスト誕生の厳粛な日に仕立てようとしたにもかかわらず、一般には飲んで騒ぐ、古来の行事が行われていた。
 1213年、英国で最初に盛大なクリスマス晩餐会を開いたのはジョン王で、ヘンリー二世、リチャード二世が豪勢な宴会を開催した記録が残っている。14世紀になるとクリスマスの宴会を仕切る担当者の選出が行われた。クリスマスは、日ごろの身分階級をひっくり返すという重要な意味も含んでいたため、この宴会担当者には、身分の低い人や道化師などが選ばれたという。華やかなクリスマスも、15世紀にはチューダー“冬の時代”に入る。新教徒の勢力拡大により、ローマ・カトリックの儀式が弾圧され、伝統的なクリスマスの行事はすべて禁止されてしまったのだ。クリスマスの復活は19世紀まで待たなければならない。
 クリスマスをよみがえらせた自分として、ディケンズは英国史に重要な役割を果たした。もちろん、クリスマスの普及には産業革命による交通・メディアの発達などの要因もあるが、メンタルな部分でのディケンズの影響はかなり大きい。なかでも『クリスマス・カロル』はヴィクトリア・クリスマスの手本ともいわれている。
 鵞鳥のローストとプディングは、スクルージの書記ボブ一家のクリスマス・ディナー。貧しい生活をやりくりし、人々はこの日のためにクリスマス・ディナーを用意したのである。現在のメニューは当時とほとんど変わらない。詰め物をした鵞鳥、もしくはより高価な七面鳥。英国のおふくろの味ともいえるこげ茶色の重量感のあるプラム・プディングは1ヶ月ほど前に準備しておいたもの。そして、ドライフルーツがたっぷり入ったパイ、ミンスミート。
 クリスマス・ツリーを飾る習慣も、この時代にドイツから紹介された。1840年、ヴィクトリア女王とアルバート王子が初めてウィンザー城にツリーを飾ったといわれる。また、クリスマス・カードは、1846年にヴィクトリア&アルバート博物館の初代館長によって考案され、郵便制度の施行により庶民に普及していった。このように19世紀後半までに、現在のクリスマスの習慣が確立されていったのだ。
 英国では10月に入るとクリスマスの準備が始まる。クリスマス・カードやギフト商品が店頭をにぎわせ、パーティーに関する記事が新聞や雑誌にあふれ、ロンドンのストリートはそれぞれ競い合ってクリスマスのデコレーションを始める。なかでも、メインのショッピング通りであるリージェント・ストリートは美しいイルミネーションで有名。今年はディズニーの協力でより彩り鮮やかだ。
 金の亡者スクルージは、優しくほのぼのしたクリスマスと自分の将来の悲惨な姿をみて、心を入れ替えた。『クリスマス・カロル』で取り上げられた社会問題と将来への危惧は、そのまま現在に通じるものがある。英国だけでなく、世界各国で深刻な諸問題を抱えている20世紀。“家族”の価値さえも失われつつあるのは非常に嘆かわしいことである。
「クリスマスの家族パーティー! この世に存在する最高の喜び」(『ボズのスケッチ』)
 それは木枯らしの音だったのか、それとも街角で叫ぶディケンズの声だったのか……。ロンドンに今年もまたクリスマスがやってくる。

『VISA』 1993年12月号
f0016260_20005460.jpg
f0016260_20010466.jpg

[PR]
by k_nikoniko | 2015-07-27 07:52 | 掲載記事(1991~1999)

海外で活躍する医師で人材確保と地域医療活性化(月刊自治研)

海外で活躍する医療従事者の受け皿となり 人材確保と地域医療活性化を目指す
北海道社会事業協会余市病院「地域医療国際支援センター」

地方の病院はどこも、医師や看護師の人材不足が深刻だ。北海道も例外ではない。その北海道で、「海外勤務や海外留学の経験者で医師不足を補う」画期的な試みをはじめた病院がある。北海道社会事業協会余市病院(以下、余市協会病院)だ。
地域医療に熱意を持つ医者は限られている。派遣会社からは望みどおりの医師が来るとは限らない。他の地域でがんばっている医者をいい条件で引き抜きぬくようなこともしたくない。
地方の病院に質の高い人材を集める「何か新しい道」を考えあぐねていた余市協会病院の吉田英明院長のもとに二年前、タイから帰国した森博威医師がやって来た。それがきっかけとなり、二〇一三年十一月に「地域医療国際支援センター」準備室が設置され、今年四月から本格的に始動の運びとなった。
今回は、全国的にも珍しい取り組みに挑む余市協会病院を訪ね、吉田秀明院長と森博威医師に、現在抱えている課題や今後の抱負などについてお話をうかがった。

内科医ゼロでも標準レベルの医療を

余市協会病院は、北海道社会事業協会が展開する病院のひとつ。北海道社会事業協会は、一九二二年(大正十一)七月、当時は皇太子だった昭和天皇が来道の際、社会福祉振興のために下賜された五〇〇〇円を基に発足し、初代理事長は北海道庁長官が務めた。現在、余市の他に、小樽、岩内、函館、洞爺、帯広、富良野と七つの病院をもつ。
余市町は、北海道の積丹半島のつけ根に位置する、人口は約二万人の町。この秋放送開始のNHK連続テレビ小説「マッサン」の舞台の地で、ニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝がスコットランド人妻リサと暮らした町として知られる。
余市協会病院の診療対象は、余市町、古平町、積丹町、赤井川村、岩内町の五か村町の約三万五千人。圏内ではここが唯一、本格的な入院診療に対応できる公的病院だ。一六八床のうち、人員不足でも、急性期六〇床、回復期二五床、障がい者・慢性期中心病棟六〇床を稼働している。
余市協会病院は地域の基幹病院として、標準レベル以上の医療を提供しつづける。余市町は小樽まで車で二〇分強、札幌の西部までは四〇~五〇分で、中心部までも一時間の距離。町民には小樽や札幌の病院に通う選択肢もある。「『田舎で田舎診療』をやっていたら、患者に見放される」と、吉田院長の意識は高い。
余市協会病院に危機が訪れたのは二〇〇四年の新臨床研修制度が施行された年。それまでいた十三人の常勤医師が、婦人科、眼科、脳外科の引き揚げで、五人に減り、内科医がゼロになったのだ。
「通常なら病院はつぶれるか、縮小、あるいは診療所に格下げされますが、ぎりぎり持ちこたえてきました」 吉田院長が外科医でありながら内科も兼任してしのぎ、この地域の医療を支えてきた。
余市協会病院はこの一帯の最後の砦ともいえる、救急医療機関でもある。救急は原則断らないのがモットーで、積丹半島の東半分一帯から来る救急車に対応し、年間八〇〇人以上受け入れている。
救急隊所有の携帯電話を病院で預かり、医師が直接電話を受けるホットラインシステムを導入。二四時間体制で医師が救急応対する。
「統計は取っていませんが、救急隊が傷病者に接触して、病院が決まるまでの時間が日本一短いと豪語してるんですよ。救急隊が『こういう人いますが…』と直接電話してきて、病院側が『はいどうぞ』と返事をすれば、即座に受け入れが決まりますから」と吉田院長。ただ、決して無理はせず、たとえば、生命にかかわる重度の脳卒中や心筋梗塞などの場合は、当直医が迷わないように、最初からしかるべき医療機関に送るよう決めてある。

ひとり分を数名で補う新システム

数多くの手術をこなし、内科も担う毎日は、吉田院長はじめここの医師たちにかなりの負担となっている。しかし、なかなかいい人材には恵まれない。
状況が改善されないなか、吉田院長は一〇年ほど前からある構想をもっていた。「海外留学や海外ボランティアで働いている医師で人材を補えないだろうか」というものだ。
「海外に出た同級生の医師が、『日本に戻ってきたときに安定して勤める病院がなくて困っている』と言うのを聞いていましたので…」
常勤の医師を雇いたいのはやまやまだが、地方でそれは望めない。であれば、三~四人で交代して一人分を一年間暇なく埋めるシステムを構築したらどうか。海外で活躍している医師はすでに一人前。モチベーションが高く優秀で、こちらも学ぶべきことが多いだろう、と。
この構想は、森医師の派遣赴任でいっきに現実味を帯びることになる。
タイのマヒドン大学で研究をつづける森医師は、「海外に出た医師の日本での働き場」を模索していた。
「僕自身もそうですが、海外と日本を行き来している医師は、帰国したときに働く病院なかなか見つからないんです。病院は一年間働いてくれなければ困るので…」
若くして海外に出た医師は、日本に人脈もなく、帰国後に就職難に陥るという。せっかくの海外での経験を生かす場が用意されていないのだ。
地域医療と国際支援とはあまり関係がないようだが、実は両者には類似点があるそうだ。
「海外の困っている人の役に立ちたい、と思っている医師のほとんどが、日本の地域で役に立ちたい気持ちが強い。海外でも日本でも、困っている地域で一生懸命働くという点でかなり共通しています」と森医師。
余市に来たころ、森医師はちょうど「この先」と考えていた時期でもあった。宮古島で内科医として、タイで研究者として働き、次のステップとして、「若手を育てなければ」との思いがあった。「医師や看護師が日本でスキルアップできる職場があり、そのうえで、海外に堂々と胸を張って行ける。そうした環境を作るのが、自分が貢献できる一番のことだと感じたんです」
余市町と病院を「すばらしい」と気に入ったのも、森医師がここに留まろうと決意した理由だ。人手不足で不完全な状況でありながらも、標準レベルの医療を実施している病院の姿勢に心打たれたという。
「ここで温かく迎えられ、必要とされていた観が強かったですね。役に立てることはあるんじゃないか、と思いました」
ただ、ひとりでは心もとなかったため、海外で知り合った仲間の医師三人に見学に来てもらった。訪れた医師たちの評判は上々で、「また来たい」との声を聞き、「これはいける。仲間が一緒に働いてくれれば、病院は変わっていく」と確信したという。
こうして、森医師と吉田院長の構想が合致し、森医師をセンター長に「地域医療国際センター」がスタートした。
センターの目的の柱は、「国内外の地域で働く医療事業者の支援」「研修プログラムの提供(短期~長期)」「国際支援」「教育活動」。
喫緊の事業は、内科医を補うための、海外経験のある医療事業者の受け入れだ。実際の状況はどうか。
森医師はタイで三か月研究するという契約があり、三~四か月おきにタイに一か月滞在し、残りの九か月は余市病院に勤務する。この十一月にもタイへ行くことになっており、その間、マヒドン大学で知り合った呼吸器の医師が余市で働く。
二〇一四年九月末現在、タイ国境の難民キャンプでボランティアをしている小児科医も勤務している。
先日も「国境なき医師団」の医師から連絡が入り、需要は多いとみている。ただ、三~四人で入れ代わり立ち代わり勤務するのは、言うのは簡単でも、実際に調整するのは難しい。「いろいろ苦労しています」と森医師。
とにかく、余市で軌道に乗せ、ひとつロールモデルを作るのが目標だ。そして、「こういうやり方がある」「やる気のある医師が来る」と他の地域にも広まることを期待する。マンパワーが充実して力をつけていけば、国際支援も展開できる。
一〇月には、アフリカで働く外科医が見学に来る予定だ。紛争地帯で奮闘している医師だが、ここ三年間は外科手術から離れている。「ならば、手術数が多く、腕のいい外科医がいる余市協会病院がベストだと思ったんです」
緩和ケアやプライマリーケアであれば、余市協会病院以外に紹介する病院の当てがある。いずれは、目的に合わせて病院をマッチングさせるのが理想だ。「海外に理解があり、医者不足で困っている病院と手を組み、ネットワークを作りたいですね」
余市で数人雇っても頭打ちになるのは明らかだ。他に困っている地域はたくさんあるため、北海道だけでなく、関東ではここ、九州だったら、沖縄だったら、と受け皿を増やさなくてはならない。

地域医療を担う人材育成のための研修を

地域医療国際支援センターは研修プログラムにも力を入れる。余市協会病院はもともと「地域医療研修協力病院」でもあり、平均して一か月に二人ほど研修医を受け入れてきた。
研修医に関しては、都市の研修機関病院は見学型の研修がいまだ多いといわれ、ここに来た研修医は、「はじめて医者になったと実感した」などの感想をもらすそうだ。
「研修医にもひとりで当直をさせてます。ただし、僕ともう二人の医師の住居が病院敷地内にあるため、研修医ひとりのようで、実際はつねに二~三人の上の医師が病院にいる状況にしています」と吉田院長。
「地域医療はこんなもの」と少し見下していた研修医も、できる範囲で精いっぱいの医療をやる姿を見て、九割は満足して帰るという。
全国的にも北海道の地域医療が厳しい状況にあるのは、「専門性を重視した研修システムに問題があるのではないか」と森医師は見てとる。北海道の医療は専門性に固執しすぎる傾向がある。たとえば、心臓医のところに肺炎の患者が来ても、「専門ではないので」と断るケースが少なくないという。
「どこの地方も高齢者の割合が高いので、外来で一番多いのが肺炎の患者です。まずは肺炎の診断ができないと、話にならないのですが」と吉田院長は苦笑する。「整形外科でも、手だけ、膝、もしくは指先だけの専門医が、冗談ではなく存在します。都会はそれが成り立ちますが、地方で効率化を図るのは不可能です。いろんなものが雑多に突然きますから」
 森医師も、「この悪いシステムを変えないと、根本的な解決になりません」と指摘する。
「僕が研修した沖縄の県立病院では、アメリカ式の臨床研修が導入されていました。沖縄は、離島で働く医者の育成がベースになっていて、一般内科を幅広く診る文化があります。ですから、四年間の内科研修の間に、救急と集中治療も含め、一応全部診ることができるようになります。一通り学んだうえで、専門性をつけていく。僕の場合は、消化器と感染症を選びました」
研修制度は看護師にも導入している。「地方にいても国際的な活動ができたり、海外に行く可能性があるのが魅力のひとつになるのではないか、との下心考えもあるからです」と吉田院長は本音をもらす。
「看護師のなかには、スキルアップしたい、どこか外へ出てみたい、という人もいます。質の高い看護師を呼び込み、離職を防ぐ方策のひとつです」
森医師は、「医師や看護師だけでなくて、事務職を含め、あらゆる職種の人が海外に行くべきです」と言う。
「海外や他の地域に行くことで見えるものは、けっこう多い。若い人はどんどん外に出てほしい」
そう森医師が強調するのは、自らの体験からきている。宮古島で働き、マヒドン大学の修士課程や博士課程のコースで学んだ森医師が最終的にたどりついたのは、「宮古島もタイも、結局は地域医療」だった。
「もちろん病気の種類など、違う点はありますが、地域で暮らし、文化があり、一生懸命生きている、という部分はあまり変わらなかったんですね。同じ地域医療だな、と」
タイの田舎と北海道の余市町では、共通点もあれば違うところもあり、その比較のなかで、できることが明確に見えてくる。
「困っている地方の病院ほど、常勤医師しか雇おうとせず、医師が外に行くのもいやがりますが、それでは閉塞感が募るだけ。人手不足だからこそ、風通しを良くして、やる気のある人にはチャンスを与えるべきです」
国際的にも、欧米で勉強するより、アジアやアフリカで支援しながら学ぶほうへとシフトとしているという。日本もその流れに乗るのが大切だ。
外に出て、いろいろ学び、自分の地域のいい面を見つけ、戻ってきて変えていく。地域医療を担う人材を育成する意味でも、海外に気軽に行ける土台作りが必要だという。
余市協会病院の今後の課題は、プライマリーケアの充実だ。現在のところ、そこまでは手が回っていない。
「住民が一番困った救急事態のときだけでも、少ない人数でカバーする。いまはそれで手いっぱいです。やっと少しずつ伸びてきたので、これから力をつけていこうという戦略です」と吉田院長。
住民が求めている地域医療を実践するには、マンパワーを強化しなければならない。質の高い人材を確保するには、魅力のある病院であるべきだ。
「お金をかけたからといって、魅力的な病院になるわけではなありません。海外から医師が来て刺激を受けたり、海外に限らず外に出て行けるのも魅力になるでしょう。病院ベースでのプライマリーケアについても、いろいろ構想を練っているところです」
余市協会病院の挑戦ははじまったばかりだ。

『月刊自治研』2014年10月


[PR]
by k_nikoniko | 2015-07-26 08:11 | 掲載記事(2011~)

古本とジャズ、パリの場合(カイ)

書物と音楽が息衝く街パリ
日常風景としてのブキニストそしてジャズ

パリの名物のひとつに、セーヌ川河岸通りで書物を売るブキニストがある。古本も扱う彼らは、歴史的建造物を背景に、野外で客の相手をする。
ブキニストは、書物の露天商という職業であると同時に、パリの風景、そして観光資源にもなっている。本の青空市は、約三キロメートルにわたる。セーヌ川河岸は世界遺産に登録されており、午前十一時ごろから日暮れまでそこに居るブキニストは、彼ら自身が“パリの遺産”の一部だと自覚している。
一八五九年以来、ブキニストは市に税金を払い、許可証を更新して営業している。新規の申請者は、場所が空くまで待たなければならない。本を並べる深緑色の箱は、大きさが規制されている。壁に固定された箱は、夜になると蓋に鍵がかけられ、置きっぱなしにされる。
パリ市によると、二百十七のブキニストが、九〇〇の箱を並べ、古本から新刊本まで三〇万冊を販売しているという(二〇〇九年二月二六日現在)。
ブキニストの歴史は古い。「ブキニスト」という言葉は、一七八九年刊行のアカデミー・フランセーズの辞書で確認できるそうだ。
パリに書物の露天商が現れたのは、大学が創立された十三世紀ごろだという。架台や地面に並べたり、木箱を革バンドで首から下げてブラブラ歩き、通行人に本を販売していた。
現存する最古の橋ポン・ヌフが完成した一六〇一年以降、ここが格好の稼ぎ場となる。商売は大繁盛。書籍商・印刷業ギルドとの対立や、「よからぬ思想を撒き散らす」と王権や教会からの度重なる取り締まりを受けながらも、露天売りはつづけられた。一七世紀半ばのブキニストの数は二四人だったという。
ルイ十五世は、風刺本、宗教や政治的パンフレットの流布を危惧し、ブキニストを厳しく弾圧したが、穏健派のルイ十六世時代、ポン・ヌフ一帯は再び社交と文学の場となった。フランス革命時、路上は危険きわまりなかったにもかかわらず、徴集・略奪された書物がブキニストのもとにもたらされ、商売は盛況だったらしい。
一九世紀、フランス文壇華やかな時期には、著名な作家たちがいたるところで文学講義を催し、そのおかげもあり、ブキニストは飛躍的な発展をとげた。
一九二〇年に二〇四名だったブキニストは、二つの大戦による影響をさほど受けることなく、一九五六年には二三〇名に達し、大きな変動のないまま、いまに至っている。
二年前に発行されたブキニストの冊子には、一九九三年に行われた実態調査の結果が紹介されている。十四年たった現在もほとんど状況は変わっていないとのこと。
ブキニストの七割が男性。年齢は、二〇歳から三五歳が四割で、三六歳から五〇歳が三割。親や配偶者の後を継いでいる人が多いという。
ブキニストになるための資質は、本好きで、自由を愛し、人と接するのを好み、さらに、独創的で独立精神旺盛なこと。
寒空の下で椅子に腰掛けている姿は、“堅物”に見えなくもないが、パリのど真ん中で、常に通行人の目にさらされる仕事なのだから、ブキニストが「人嫌い」なわけがない。
ブキニストは、ともすれば閉鎖的になりがちな書物を“野外”に持ち出すことで、通りすがりの人と文化とを媒介しているともいえる。誰もが容易にアクセスできてこそ、文化は本来の意味をなすのである。
音楽もしかり。フランスは、革新的な試みで、近寄りがたい音楽の“殻”破っていった。たとえばジャズ。フェスティバルという形で、フランスはジャズを大衆に広めたのである。
一九四八年二月に南仏のニースで開催されたのが、世界初のジャズ・フェスティバルだといわれている。翌年の五月には、パリで国際的なジャズ・フェスティバルが催された。当時、ジャズに限らず、こうした音楽祭は画期的なイベントだった。各国の演奏家が集まったジャズの祭典は成功をおさめ、その後、各地でも行われるようになったという。
フランスにジャズの愛好家が現れたのは、三〇年代ごろからである。一部の熱狂的ファンに支持されていたジャズは、フェスティバルをひとつのきっかけにして、一般市民の手の届く音楽となった。
五〇年代と六〇年代に、パリではジャズの隆盛期を迎える。サン・ジェルマン・デ・プレやサン・ミッシェル界隈のジャズ・クラブに、多くの若者が詰めかけた。この頃の様子は、映画「ラウンド・ミッドナイト」に描かれている。また、「勝手にしやがれ」「死刑台のエレベーター」といった、この年代を代表するフランス映画は、ジャズが用いられていることでも話題になった。
“流行遅れ”といった観念が希薄なフランスでは、現在でも、ジャズが広く親しまれている。老若男女に問わず、ジャズは自然体で聴かれているのだ。本場フランスのジャズに触れたければ、インターネット・ラジオで視聴可能だ。
フランスにおけるジャズのイメージは、日本のそれとは違うかもしれない。五月から数ヶ月、ピクニック気分でジャズが楽しめるからだろうか。夜一〇時ごろまで太陽が沈まない夏、ジャズ・フェスティバルは、まさに季節の風物詩となっている。
ちなみに、今年五〇回目を迎えるニースのジャズ・フェスティバルは、七月一八日から二五日。パリは、ヴァンセンヌの森にある植物園で六月と七月の土日にコンサートが開かれる。
文化は、生産・普及・受容を脈々と繰り返し、暮らしを豊かにしていく。その主体は、特権階級の人間ではなく、一般の人々だ。エリート主義と難解さからの変容。書物であれ、音楽であれ、こうして、フランスの文化は日常生活と密接に結びつき、浸み込んでいくのだ。

『カイ』2009年夏号


[PR]
by k_nikoniko | 2015-07-25 08:19 | 掲載記事(2000~2010)

「フランス語講座」ビューティ編(VoCE)






[PR]
by k_nikoniko | 2015-07-24 10:26 | 掲載記事(2000~2010)

30年後の日本をみすえて訪問医療を実践(月刊自治研)

「三〇年後の日本」を見すえた地域医療
過疎の町の訪問診療の実践

二〇二五年には六五歳以上の高齢者が三〇%を超すと予測され、国は高齢化社会に向けて在宅医療の方針に転換した。厚生労働省は数年前から「地域包括ケアシステム」という言葉を頻繁に使いはじめたが、地域医療体制は整備されておらず、医療関係者や利用者の不安は尽きない。
自治体の多くが地域医療のあり方を模索しているなか、三〇年以上も前から、過疎の町で地域医療の実践に挑んできた病院がある。鳥取県日南町の国保日南病院だ。
日南町は中国山地のほぼ中央に位置する、島根、岡山、広島の三県に接した山陰の町だ。一九六〇年の人口は一五〇〇〇人を越えていたが、年々減少し、一九七五年には一万人を切った。
一九八〇年ごろ、町内唯一の公立病院である日南病院は、常勤医師の確保が困難になり、診療所への降格の危機にあった。そこへ梶井英治医師が自治医科大学から派遣され、病院職員と住民が一丸となって病院存続の運動を繰り広げ、診療所になるのは免れた。
一九八二年には安東良博元院長が日南病院に赴任。地域包括医療を提唱する山口昇国診協名誉顧問と親交があった安東院長は、ここで訪問診療と訪問看護をスタートさせた。訪問看護には診療報酬がなく、実施している医療機関も非常に少なかった頃のことだ。
高見徹医師は、一九八五年、三六歳のときに鳥取大学の医局から日南病院に派遣された。そのときの率直な感想は、「過疎の町でも高齢化で医療がこれほど大変になるなら、都市はいったいどうなるのだろう?」だった。
都市の高齢化は避けられない。であれば、日南町のような「三〇年先に高齢化した町」で地域医療を学ぶしかない。高見医師は一年間の任期中にそう心に決め、「大学病院を辞めたら、日南病院でお世話になります」と安東院長に言い残していったん大学病院に帰る。そして、一九九三年、約束どおり日南町に戻って来た。
日南町の現状を目にしたとき、高見医師が「都市の高齢化」に考えがおよんだのには根拠がある。医師になる前は東京大学保健学科に在籍しており、厚生省(当時)所轄の人口問題研究所での実習の際に、自分たちが六〇歳になるころの人口推移などを頭の中にたたきこまれていたからだ。
しかし、高見医師が日南町に移った八〇年代中ごろは、「都市に地域医療など必要なのか」という認識だった。周囲には「どうして高齢者ばかりのところに行くんだ」と不思議がられたという。
右肩上がりに経済成長してきた日本は、「医療費が上がったらいつでも補填する」と大見栄をきり、「在宅が無理なら病院に入院させておけばいい」とタカをくくっていた。
「賭けみたいなものでしたけど」と高見医師は振り返るが、高齢化はまさに推測通り進み、地域医療を顧みなかった日本は現在、深刻な問題をつきつけられている。

「老々介護」が悲惨なのは地域医療が存在しないから

日南町の人口は五四三五人で、六五歳以上の高齢化率は約四六%(二〇一三年四月現在)。通院できないで往診を待つ人は約一四〇人いる。
高見医師は院長になった一九九七年以降ずっと、午前中は外来、午後は訪問診療という日課をつづけている。平日の四日は地域に出かけ、一日七~八軒、年間にすると二〇〇〇軒ほど訪問する。日南町は面積が広く、五軒回るだけで走行距離が一〇〇キロを超えるときも。
「『大変でしょう』と言われますが、楽しいですね。病院の中にいるほうが、体調が悪くなる感じがしますよ」と高見医師は笑う。
十数年前、在宅での看取りがまだ珍しかったころ、日南町では在宅死が三割ほどになった。その発表を聞いた医療関係者は、「お前たちはちゃんと医療しているのか」と非難の言葉を投げかけたという。その後、どの病院も在宅での看取りが増え、その大変さがわかってくると、「日南病院がんばってますね」との反応に変わった。
高見医師自身、在宅での看取りのとらえ方が変化したという。「入院して一週間以内に亡くなるのは、立派な在宅死ではないかな、と。九九%在宅で看ていて、一%だけ病院というのも、在宅死とみなしたほうがいい。昔は介護者に『あと一週間だからがんばれ』と言っていましたが、それも変な話。そういう反省もあり、介護者が望めば、最後は病院で看取ってあげてもいいと考えるようになりました」
昨今、高齢者が高齢者を介護する「老々介護」や、認知症の人が認知症の人を看る「認々介護」がよく話題にのぼる。日南町でも、「老々介護」のケースが多い。しかし、高見医師はきっぱりと言う。「マスコミは『老々介護』や『認々介護』が悲惨なもののように報道しますが、悲惨なのはそこにいい地域医療がないだけのことです。日南町にいて、老々介護を悲惨だと思ったことはありません」
老夫婦だけに介護を放り投げられたら窮地に陥るのは当然だ。だが、たとえば、寝たきりの夫の介護で疲れているおばあさんに、「ショートスティで二週間ぐらい預かりますから、休んでください」と手を差し伸べるなど、介護者含めて目が行き届く地域医療が存在すれば、乗り越えていけるのだ。

More
[PR]
by k_nikoniko | 2015-07-23 07:55 | 掲載記事(2011~)

夕張の過酷すぎる現実(週刊女性)

「先に明かりが見えないトンネルにいるようなものですよ。自分が生きているうちに再建できるのか、と思うときもありますね」
夕張市で地方紙『夕張タイムス』を発行する森剛史編集長は、ため息交じりにそう語る。
2007年、北海道夕張市は総務大臣の同意を得て財政再生団体となった。自治体が財政破綻! 日本中に激震が走った。
北海道のほぼ中央、札幌市や新千歳空港から約60キロ圏内に位置する夕張市は、明治時代に炭鉱が操業開始して以来、日本の主要な産炭地として繁栄してきた。しかし、国のエネルギー転換で1965年ごろから炭鉱は次々と閉山。経済不振に陥った夕張市は、「炭鉱から観光へ」をキャッチフレーズに、観光振興に力を入れはじめる。
「観光で財政を立て直そうという、志はよかったのかもしれませんが、結果がついてこなかった。夕張市の観光開発は突拍子もないものではなく、九州の筑豊でも同じように遊園地を造り、同じように失敗しています」と地方自治総合研究所の菅原敏夫さんは言う。
夕張市が出資した第3セクターは、1983年にテーマパーク「石炭の歴史村」をオープンさせた。その後、ホテルの開業など、湯水のごとく資金をつぎ込み事業を拡大。観光客は一気に増加し、石炭村の観光売り上げは20億円を超えたときもあった。松下興産を誘致し、スキー場のリゾート開発に乗り出した。こうした華々しい観光事業で、夕張市は「活力あるまちづくり優良地方公共団体」として評価された。
しかし、内情は累積赤字を抱え、厳しい状況だった。観光への投資、人口減少による市税や地方交付税の大幅減少、不適切な会計処理などが原因で膨大な赤字となり、ついに破産した。
夕張市が最終的に解消すべき赤字は353億円だ。
「北海道が約360億円を年利5%で融資し、夕張市は金融機関に借入金を返済しました。現在は、北海道に借金を返済しています」(菅原さん、以下同)
財政再建計画の終了予定は2027年3月。それまでに返済すべき借金は約288億円で、市民一人あたりに換算すると、295万円以上になる。
「破綻以降、夕張市の住民は”日本で一番高い税金、一番低いサービス”を強制されています」
住民税は3000円から4000円に、軽自動車税は1.5倍に引き上げられた。下水道料金は10立方メートル当たり1470円が2440円に値上がりし、ゴミを出すにも、処理手数料が新設され、1リットル当たり2円かかる。
家計の負担が増えたばかりではない。
「市役所の近くにも、トイレットペーパーやティッシュを買える店はないですよ。15軒ほどあった食堂も、いまでは2~3軒しか営業していません」と言うのは前出・森さん。
65歳以上の高齢化率は46.5%だが、歩いて行ける範囲に商店はほとんどない。
「隣町の温泉施設が無料送迎バスを出していて、温泉の帰りに大型スーパーに寄るので、お年寄りはそれを利用していますね」
病院や消防職員を含む市の職員は399人から144人に削減。市職員の給料も日本最低だ。優秀な人材が流出し、公共サービスの劣化も著しい。市立総合病院は診療所に格下げされ、171あった病床は19に減少。民間の医療機関は4軒あるが、婦人科が存在するのは夕張市立診療センターのみで、週1回の婦人科検診だけ行っている。救急体制も万全とはいえない。再建団体になった直後は救急患者を市内で受け入れず、近隣の市や、往復3時間もかけて札幌市へ搬送していた。現在は、一次救急のみ市内医療機関が交代で対応している。
教育機関への影響も大きい。市内7校あった小学校と4校あった中学校をそれぞれ1校に統合。通学にはスクールバスと路線バスを使い、なかには長時間かけて学校に通う児童・生徒もいる。夕張市の15歳未満の人口比率は6.2%でしかない。図書館と美術館は廃止となり、4か所あった屋外プールも閉鎖した。
「運営されていた屋内プールは、雪の重みで屋根が壊れ、修理できないままです」
菅原さんはその事情をこう解説する。
「財政再建団体は”箸の上げ下げまで”といえるほど、どんな些細なことでも総務省におうかがいをかけ、許可を得なければなりません。修繕費などは予算に組まれていませんから……」
長年〝文化の殿堂〟として市民に愛されてきた、夕張市民会館(現・アディーレ会館ゆうばり)は、耐震補強工事が認められず、来年3月いっぱいで閉館が決まった。25回目を迎える『ゆうばりファンタスティック国際映画祭』のメイン会場でもある。
「生活には楽しみも必要なのに、文化や娯楽がまず削られる。夕張市はその昔〝勤労文化都市〟を宣言し、市民の芸術への関心が高いんですよ。希望を失い、転居する人もいますね」
森さんは口惜しさをにじませる。
一時は10万人以上を数えた人口は、9700人強に減少した(2014年3月現在)。破たん後の7年間の人口減少率は約26%だ。
「引っ越しできる人は恵まれていて、年金生活者や地元でほそぼそと仕事をしている人が、残ってがまんせざるをえない。借金は市民の税金から返済されます。自治体が破綻すれば、ツケは全て住民にまわってくるわけです」
日本中に炭鉱はあり、どこの自治体も苦しんではいるが、破綻にいたっていない。夕張市の破たんの背景は何だったのか。
「夕張だけが野放図な財政だったとの批判には賛成しがたいですね。夕張で石炭を掘っていた北炭夕張が撤退するときに、自社が所有していた病院や住宅などすべて夕張市に押しつけ買い取らせて、逃げてしまったのです。リゾート開発を手がけた松下興産も、ホテルを夕張市に買い取らせて撤退しました。儲かっているときには一枚加わり、景気が悪くなると無責任に逃げるのは、大企業にはあるまじき行為です」(菅原さん、以下同)
自治体は破算できない。そう制度で決められている。「石にかじりついても、自治体は借金を返済しなければならないのです」
アメリカのデトロイト市が破綻したときには、金融機関が約7割の債務放棄に応じたが、夕張市は借り入れしていた10を超える金融機関に利息ともども一括返済した。金融機関は貸し手責任を問われず、一銭も損をすることなく、資金を回収したのである。
「第3セクターを設立したのは自治体ですが、会社に貸した資金に対して一切の責任をとらず、全額返済してもらえるのですから、金融機関にとってこれほどおいしい話はないですよ。金融機関を助けたうえで、住民だけに理不尽な負担がのしかかる。ここまで過酷か、というほどに」
借金を抱えている限り、合併もしてもらえない。住民は人質のようなもの。みな出ていったら、自治体が成り立たなくなってしまう。
「夕張市は日本で唯一の財政再建団体であり、破綻したらこうなるぞという〝見せしめ〟でもあります」
〝見せしめ〟は功を奏し、夕張市以降、財政再建団体になった自治体はいまのところない。というのも、夕張市破たんは、再建法も大きく見直す契機にもなったのだ。
「夕張が破たんにより、総務省は大急ぎで新しい法律を検討し、2008年に財政健全法を施行しました。4つの指標で赤字だけでなく借金もあぶり出すようにしたのです。自治体にとって非常に大きな変化です」
先ごろ政府が打ち出した『地方創生』において、夕張市は『まち・ひと・しごと創生』施策のモデルケースになるとの声も聞こえる。
10月15日に財政制度等審議会の分科会で行った、夕張市の鈴木道直市長のプレゼンでは、夕張市が進めているコンパクトシティについて説明があった。住居や病院、学校などの機能の集約化を図る施策だ。
「鈴木市長は元東京都の職員で、若くて熱意もあるのですが」と一定の評価をしたうえで、菅原さんはつぎのような苦言を呈した。
「小学校一つにすることが、コンパクトシティでしょうか? カタカナにすると新しいコンセプトのようでも、”中心地に集まりなさい。それ以外の地域は不便にするぞ”と言っているのと同じです。お年寄りを住み慣れた場所から移住させる権限が誰にあるのか。各地でコンパクトシティが検討されていますが、多くはこの言い換えでしかありません」
無謀なバラマキは夕張市の二の舞になる。『地方創生』を絵に描いた餅にしないために、何をすべきか。
「『自治体は冒険したり、つぶれたりしてはいけない』という教訓は、夕張市から得られましたよね」
自治体が破綻すれば、住民はとてつもない犠牲を強いられる。それだけは肝に銘じておきたい。

『週刊女性』2014年12月2日号


[PR]
by k_nikoniko | 2015-07-21 08:05 | 掲載記事(2011~)

精神障がい者を地域で支えるために(月刊自治研)

精神障がい者を地域で支えるために 質の高い訪問看護システムの構築を
治療とリハビリを提供する訪問看護ステーション

うつ病や認知症などの精神疾患で医療機関にかかっている患者数は年々増加し、二〇〇八年の厚生労働省の調査では、三二三万人にのぼる。精神疾患にはいまだ差別偏見があり、受診しないケースも相当数いると考えられ、実際の患者数はもっと多いと推測できる。
二〇一一年には精神疾患が国民に広くかかわる疾患として、がん、脳卒中、心臓病、糖尿病の「四大疾病」に加わり、「五大疾病」となった。
精神疾患患者が増えている一方、日本の精神科医療体制は不十分で、多くの問題が存在している。
そのひとつが、長期入院の実態だ。日本の平均在日数は約三〇〇日で、一年以上入院している精神障がい者は約二〇万人。他の先進国に比べて群を抜き、「地域で支援」に向かう諸外国の流れに逆行している。
日本の精神科医療の歴史は、一九〇〇年(明治三三年)の私宅監置を中心にした立法制定にはじまり、「精神障がい者は収容する」のが主流だった。戦後、欧米の精神衛生の導入や人権尊重の観点から、精神障がい者のための法律は改正されるが、一九六〇年代に精神科の病床を増やす政策をとり、「入院ありき」の傾向はつづいている。
精神科医療が改善されないのには、入院費の診療報酬が一般病院よりも安く、精神科特例で精神病床の人員配置基準が一般病床より低く設定されているからでもある。少ない人数で精神状態の悪い患者を看るのであれば、隔離拘束は避けられない。
劣悪な精神科医療への批判は高まり、医療費削減に待ったなしの状況も相まって、近年、国は精神障がい者を地域へ戻す方策へと転換した。地域移行に向けた具体的方策を議論してきた厚労省の検討会は、二〇一四年五月二九日に、全国に約三四万床ある精神科病床を大幅に削減する方針を打ち出した。現在入院中の約三二万人の精神疾患患者を地域に帰す計画だ。
しかし、地域の受け皿づくりはまったく追いついておらず、精神障がい者が住み慣れた地域で医療支援を受ける体制を整えるには、数々の難題をクリアしていかなければならない。

精神障がい者を住み慣れた地域で支援

この四月、株式会社八豊会を起業し、訪問看護ステーション「タウンサークル」を立ち上げた八杉基史さんはこう言う。
「日本の医療体系では、健康保険の多くが入院や外来という病院医療に回され、訪問看護や往診・訪問診療などの地域医療の予算は非常に少ない。精神障がい者を地域に帰すのであれば、入院中と変わらない資源を地域医療に投入しなければ……」
作業療法士の八杉さんがこの会社を設立したきっかけは、岡山県唯一の公的精神科病院、岡山県精神科医療センターに勤務していたときに、「退院した患者が、地域で適切な支援を受けているのか」と疑問を持ったからだという。
作業療法士とは、作業を通し、障がい者の残された能力を引き出していくのが仕事。入院中であれば、作業療法士、看護師、ケースワーカー、臨床心理士らがそれぞれの特性を生かしながら、患者の良さを引き出すリハビリができる。しかし、地域に帰った後にこうしたリハビリは継続できない。病院がフォローアップするといっても、患者の生活を全部把握するのは難しい。
「退院後に備えて、食事や掃除、日中の活動などをある程度練習しますが、実際に行われているのだろうか、と。入院中の作業療法が、地域ではたして役に立っているのか。それを検証したかったんです」
医療センターではデイケアを担当し、患者が「どのような日常生活を送り、地域でどのような人間関係を作っているのか」を知るために在宅訪問をしていた。
病院の周辺に約三〇〇人の患者たちがアパートを借りて住んでいる。患者の話を聞いて、「以前暮らしていたところは病院から遠く、通院が大変で交通費がかかる」「田舎に帰っても、いざ対応してくれる人がいない」といった理由から、病院の近くに住みついたというのがわかった。病院側にも、再発防止のためには近くにいてほしいという事情がある。
「はたしてそれでいいのか、と正直思いまして。その人が住んでいた地域に帰るのが普通じゃないかな、と。退院後に患者のところに医療を持っていくことができたら、そこに住めるのではないか。そういう気持ちが強くなったんです」
しかし、精神科訪問作業療法という診療報酬はなく、地域に帰った人に作業療法をする手段はない。可能なのは、訪問看護ステーションを設立し、看護師とともに作業療法士が訪問する方法だった。


More
[PR]
by k_nikoniko | 2015-07-20 07:55 | 掲載記事(2011~)

世界の人々が身近に(2002年W杯 決勝戦)

波乱といわれた大会は、王者ブラジルの優勝で幕を閉じました。ブラジルの個人技に勝るものなし。カフー、ロナウド、リバウドらブラジル選手の笑顔はおちゃめですね。一方、気丈なドイツ選手は負けても泣きません。ゲルマン魂は、最後まで不変でした。
選手やサポーターの泣き笑いには国民性が表れることを、W杯を通して知ることができましたね。世界の人々が、実態のある身近な存在になったと思いませんか?
札幌ドームで、私は初めてエクアドル人に触れました。以前は位置さえ定かではなかったこの国ですが、サポーターを直接目にしたことで、親近感を覚えるようになりました。対戦相手のイタリア選手を撮影してはしゃぐ姿は、とても無邪気。応援の言葉の意味を知りたくて声をかけたら、かなり無愛想。どちらも素顔のエクアドル人です。
この大会で見た世界の人々は、想像の人物ではなく、いい面も悪い面もある等身大の人間です。少し大げさかもしれませんが、勝利の喜びや敗北の悲しみが万国共通ならば、日常生活の楽しさや憂いも、みんなで共有できそうな気さえしてきます。
W杯の魅力は、試合のスリルはもちろんですが、世界の人々と同じ視線で世の中を見つめ、分かち合う喜びを教えてくれるところにあります。そして、感動的なエピソードが生まれることも忘れてはいけません。決勝戦で途中出場したアルモアは、ドイツの人種差別の壁を崩した初の黒人選手です。また、3位決定戦では、心温まる光景を目にしました。涙する韓国選手の手を取り、健闘を称えたトルコ選手。その立派な精神に拍手を贈りたい。
すばらしいシーンだけでなく、ささやかな美談もしっかり心に残しておきましょう。
万歳(ビバ)、日韓共催ワールドカップ! そして、ありがとう。

『北海道新聞』夕刊 「ビバ!サッカー」2002年7月1日


[PR]
by k_nikoniko | 2015-07-19 07:48 | 掲載記事(2000~2010)