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フランス脱原発めざし6万人の「人間の鎖」(ビッグイシュー)

福島第一原発事故から1年の3月11日の午後、フランス南部で大規模な「人間の鎖」が実施され、約6万人が参加した。フランス各地から貸し切りバスが運行し、ドイツ、スイス、ベルギーからも多くの人が集まった。
手と手で、もしくは「人間の鎖」と書かれたオリジナルのリボンでつないだ距離は、リヨンとアヴィニョンを走る国道7号線の230キロメートル。ここは原子力施設集中地帯で、子の地域を流れるローヌ川沿いには、14基の原子炉が存在する。MOX燃料製造工場を有するマルクール原子力施設から30キロ圏内のアヴィニョンでは、南仏特有のミストラルが吹くなか、11時半から「人間の鎖」の準備が始まった。
「アヴィニョンでは福島事故の直後から、月1回、『人間の鎖』を行ってきました。150人だった参加者がやるごとに増え、1000人に。そこで、アヴィニョンからリヨンまでつなげてみよう、と考えたのです」とジャン=ピエール・セルヴァンテスさん。この日、アヴィニョン地区の参加者は主催者発表で5600人。脱原発の世論がなかなか高まらないフランスだが、史上最大の脱原発デモとなり、その様子は各メディアで報道された。

『ビッグイシュー日本版』(2012年4月15日)「世界短信」に掲載

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by k_nikoniko | 2015-05-31 08:06 | 掲載記事(2011~)

映画『笑う警官』(週刊金曜日)

『週刊金曜日』(2009年11月13日)「金曜アンテナ」に掲載された記事です。
映画『笑う警官』公開  北海道で記念集会

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by k_nikoniko | 2015-05-30 08:41 | 掲載記事(2000~2010)

アイヌ文様で未来を描く 貝澤珠美さん

カラフルな色彩、異色の素材使い。落ち着いた色調のアイヌ刺繍の伝統を覆し、斬新なデザインに挑戦しつづけるアイヌ文様デザイナーの貝澤珠美さん。
インテリアを学び、20代でデザイナーとして独立という華やかな経歴を持つが、生まれ育った二風谷の話になると、“おてんば娘”の意外な一面を見せる。
「倉庫でかくれんぼしたり、裏山を登ったり、凍った川をソリで滑ったり。家の周りはかっこうの遊び場でした」 
撮影で訪れたご実家は、すぐ横をシケレペ川が流れ、敷地は山の奥へとつづき、自然に恵まれたうらやましいほどの環境。貝澤さんの創造力の源となるのは、この二風谷の風景なのだろう。
新境地を切り拓こうと突き進む貝澤さんだが、その生き方もまたおおらかで自然体そのものだ。彼女の言葉を借りると、“たまたま”この道に入ったといえる。

嫌悪感から愛着へ
アイヌへの気持ちが変化

二風谷で暮らしていた頃は、アイヌ文化に嫌悪感さえ抱いていたそうだ。自分のアイデンティティに目覚めたのは、札幌に出て1年ほどたってからのことだった。
30年ほど前の二風谷はアイヌ伝統の保存にそれほど熱心ではなかった。萱野茂さんがアイヌ語教室を開いたのは、小学校1年生のとき。その第1期生だったが、他の子たちがそうであったように、小学校高学年ごろから次第に、アイヌ文化から遠ざかっていく。
高校卒業を控え、“特に夢もなかった”貝澤さんは、進路に迷った末、デザイン学校のインテリア学科に入学。油絵を描く母親の影響と「カッコいい」というやや安易な理由からだった。しかし、ここで周りの学生たちに刺激され、デザイナーとしての自覚が生まれる。
そして、自分のオリジナリティを追求していくなかで、「独創的で個性的な」アイヌ文様を思い出したという。
それまでは、アイヌ刺繍や彫り物は土産物のひとつにすぎず、批判的に見ていた。古いモノという位置づけだったが、「テーブルやカーテンなど日常のインテリアに、カッコよくデザインしてみたい」とのアイデアが湧いてきたのだ。
卒業制作ではじめてアイヌ文化を取り入れ、「体験型アイヌ村」の図面と模型を作成した。それをきっかけに、地元の人に直接話を聞いたり、文献を読んだり、関心が高まっていった。ただ、この時点では、アイヌ文様デザイナーになるつもりは全くなかったそうだ。
転機が訪れたのは、就職した内装会社を辞め、アルバイト生活をしているときだった。「アイヌ刺繍でも習ってみたら?」との勧めもあり、二風谷の訓練校で3ヶ月間、アイヌ刺繍を学ぶことに。
「それまでやったことがなかったのですが、どうやら手先は器用だったらしく……」と屈託なく笑う。「お裁縫と違い、アイヌ刺繍はもの作りの感覚。『私、嫌いじゃないな』と思ったんです」
その後、札幌ですぐに刺繍教室を開いた。「一度だけ大学の非常勤講師を体験し、教える面白しろさに味をしめ、軽い気持で。1年続くか自信はなかったのですが」 心もとないスタートだったが、刺繍教室は今年で12年目を迎える。

独学で基本や規則を学び
自由にアレンジを楽しむ

二風谷は自然だけでなく、人の宝庫でもある。貝澤さんにとって、アイヌ文化の教科書は、地元のおじいちゃんやおばあちゃんたち。そして、「何をするにも、私の先生」という母親・美和子さんの存在も大きい。二人でさまざまな作品を見ながら、「ああしたほうがいいんじゃないか、こうしようか」と研究を重ねているという。
アイヌ文様はまだ解明されていない点が多い。刺繍の刺し方は古い着物などを参考にできるが、アート性の高い文様の描き方に関する文献はなく、謎に包まれている。
それゆえ、アイヌ文様を自らデザインする人はさほど多くない。
「アート面での伝承者はいないので、手で覚えましたね。図録を見ながら、百点以上の着物の文様を書き写しました。とにかく描いたんです、何も考えずに。そうすると、基本や規則のようなものがだんだんわかってきました。『こういうことか、ここは絶対守らなくちゃいけない部分だな』と」
基本は大切と心得てはいるが、デザイナーである限り、先駆性や自己表現が重要な課題になる。貝澤さんは、「古い文様を忠実に再現しすぎるのもどうかな?」との疑問も抱いているそうだ。
「昔の人は、基本の範囲内で、自由にアレンジしていて、個性的な表現をしていたと思うんですね。今もそうであっていいし、自分もそうしたいですね」
素材に関しても、アイヌ刺繍本来の「木綿」にこだわっていない。「今生きている世界、環境の中で、使いたいものを使えばいいのではないか」と考えているからだ。
アイヌ文化や伝統において、「絶対に乱してはいけない」といった制約が多くなりがちなのは、「アイヌが蒙った歴史による影響が大きい」と指摘する。
「そのように育ってしまったんです。もちろん、守るべき箇所は守らなければならない。でも、若い人が継承しなければ、伝統は失われてしまいます」
デザイナーを志したのは、「単にカッコいいから」と言い切るが、実はもうひとつ訳があった。
「自分はアイヌであり、それを変えることはできない。私たちは恥じてきましたが、アイヌ文様をお洒落にしたら、次の世代にとって、良いことではないか。アイヌのことは、アイヌ自身がやらなければ」との思いだ。
人を惹きつけるには、魅力やあこがれが必要である。「後世に残し、世界に広めていくためにも、昔のままのやり方ではダメ。基本を大事にしながらも、どこまで自由に自分を表現できるか。それをいつも試行錯誤しています」
独立したころは、「新しくすればいいわけではない」といった反発もあった。今でこそ若いアイヌが活躍してきているが、当時は珍しく、周囲も驚いたという。

デザインを通して
自分を好きになりたい

デザイナーとして10年。キャリアが持ちながらも、初対面の人に職業を聞かれると、いまでも「アイヌ文様デザイナー」と素直に言えない自分がいる。
「『アイヌのことを言って大丈夫かな、この人どんな顔するのかな』と少し思っちゃう」
この職を貫いているのは、小さい頃から植えつけられた感情を克服するためでもあり、「デザインを通して、アイヌである自分を好きになりたい」とも語る。
アイヌ民族は着物を着て、村に住んでいる。現在でもこうしたイメージの域を脱していない。
「“カッコいい”デザインでイメージを変えていく。それが私のやり方です。私の作品を見た人からは、『これまでのアイヌの印象と全く違う』とよく言われます。デザインで衝撃を受けてもらいたいですね」
昨今の環境ブームの影響もあってか、日本でも先住民が注目されはじめ、若者たちの間で、アイヌ文化が語られる機会も増している。
それはそれで喜ばしいことだが、問題もないわけではない。たとえば、文様をロゴなどに“無断借用”するケースなどだ。
「歴史をきちんと知ったうえで、使って欲しいです。過去の文化ではなく、私を含め、受け継ぐ人たちがいるのだから」と釘をさしながらも、アイヌ文様の意匠特許の重要性を訴える。

アイヌ文様を日常生活に
内装デザインが今の目標

貝澤さんが手がけるデザインの範囲は広い。「とにかく、自分で何でも作りたい」タイプなのだという。好きな照明からはじまり、刺繍を覚え、洋服やアクセサリー、食器の制作にも取り組んだ。
「そもそも生活空間にあるすべてをデザインしたいんです」
これらの作品はほとんどがオーダーメード。「やっと、ここ最近、デザイナーとして食べていけるようになりました」と苦笑い。
これまで、ホテルの浴衣、札幌駅構内「どさんこプラザ」のパッケージ、新千歳空港ターミナル「千鳥屋」の包装紙を担当し、ロゴやポスターなどもデザインしている。
最大の目標は内装デザイン。「インテリアが好きなんです。現場の雰囲気も職人さんの仕事も。店舗やホテルが一番アピールしやすい。ホテルの部屋であれば、ベッドカバーやバスローブ、照明のデザイン。カフェも、やりたいですね」と大きな目を輝かせた。
「おじいちゃん子」を自認する貝澤さんの祖父は、二風谷ダム訴訟の原告であり、アイヌ民族の権利復活に尽力した故貝澤正さんだ。
「祖父は、階段の一段になればいい、とよく言っていました。私もその一段を築くことができたら、と思っています」
自然との共鳴にも似たその姿勢は、幼いころから身についたものだろう。その貝澤さんが創る“アイヌ文様”は、昔そうであったように、暮らしを彩り、人と人とをつないでいくに違いない。

貝澤珠美(かいざわ たまみ)
1974年、平取町二風谷生まれ。
1997年、シケレペ・アート「TAMAMI」ブランド設立。

『カイ』(2010年春号)


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by k_nikoniko | 2015-05-29 10:51 | 掲載記事(2000~2010)

使用済み燃料処分は再処理から乾式貯蔵へ(ビッグイシュー)

『ビッグイシュー』(2013年7月15日)掲載

再処理継続は”ルーズ・ルーズ”(負け)の戦略

高木仁三郎市民科学基金が4月15日に原子力市民委員会を立ち上げた。
市民グループや幅広い分野にわたる科学者、技術者、弁護士などとともに、脱原発社会を構築するための課題を把握・分析し、政策をつくる場として、その公開研究会を取材。

再処理費用は年間2800億円、貯蔵なら200億円

5月20日、原子力市民委員会の核廃棄物部会・公開研究会が開催され、フランク・フォンヒッペルさん(プリンストン大学教授)とマイケル・シュナイダーさん(エネルギー・原子力政策国際コンサルタント)が、「再処理と核不拡散」について講演した。
「日本は再処理の“くびき”にはまってしまっています」。フォンヒッペルさんはまず、こう切り出す。「『使用済み核燃料は六ヶ所再処理工場へ搬出するので、別の方法はない』という考えが、まさに“くびき”なのです。そこから抜け出す方法として、再処理から貯蔵への変換が必要です」
そして、政策を変更すべき理由として、「再処理にかかる費用は年間約2800億円だが、貯蔵は約200億円。再処理は労働者の汚染をもたらし、そこから得られるものはほとんどない。プルトニウム保有量の増加、テロの危険性を増大させるだけ」などを挙げた。さらに、世界的視野からも「いまだに再処理政策を続行しようとしているのは、フランス、インド、ロシア、中国、日本の5カ国のみ。ほとんどの国は貯蔵を決めている」と説明した。
フォンヒッペルさんが提案するのは、使用済み燃料を敷地内で保存する「敷地内乾式中間貯蔵」。使用済み燃料は数年間は水で冷却しなければならないが、5年経てば、空気で冷やすだけで十分となる。そこで、使用済み燃料を5年後にプールから取り出し、専用のキャスク(容器)に入れ、原発敷地内に貯蔵するのが乾式貯蔵だ。ドイツのネッカーベストハイム原発では、事務棟の下に作られたトンネルにキャスクを貯蔵しているという。
日本ではほとんどの自治体が敷地内の貯蔵に合意しておらず、使用済み燃料の半分は13年以上もプールの稠密(ちゅうみつ)貯蔵ラックで保管されたままだ。「こうした状態で長期間プールに入れておくと、水がなくなった際、燃料発火の可能性もある」と警告。そして、「敷地内乾式貯蔵は低コストで安全な代替措置。多くの国が採用している」と助言した。

どうする!? 英仏に預けた日本の余剰プルトニウム35トン

フォンヒッペルさんは、「国際核分裂性物質パネル(IPFM)の共同議長でもあり、核不拡散の観点からも、余剰プルトニウム処理政策の提言をしている。プルトニウム処分法としてのMOX燃料使用については、「米国でもMOX燃料工場が建設中だが、見積もり額が10倍近くも高騰したため、オバマ大統領は軍事用余剰プルトニウム処分戦略を再検討している」と言う。
同じくIPFMのメンバーでもあるマイケル・シュナイダーさんは、唯一MOX燃料を使用しているフランスの余剰プルトニウム問題について解説。
昨年5月に就任したオランド大統領は、原発依存度を75%から50%に低減し、老朽化した原子炉を閉鎖すると決定した。しかしその一方、「再処理で取り出されたプルトニウムは、MOX燃料の形で再使用する」方針で、シュナイダーさんは「政策に一貫性がない」とその矛盾点を指摘した。
各国が再処理から貯蔵に転換するなか、フランスのラ・アーグ再処理工場では、海外の使用済み核燃料の再処理を引き受けている。フランスが保管するプルトニウムの総量は約80トンとここ10年横ばいだが、海外のものは減少しつつも、フランス保有のプルトニウムは増加の傾向にある。蓄積されたプルトニウムの処分はまったく追いついていない状況で、その解決策として、MOX燃料の加工・使用を継続するという。シュナイダーさんはこれを、「プルトニウム蓄積とリスクの両方の増加をもたらす、ルーズ・ルーズ(負け)の戦略」と批判。安全性や経済性、核不拡散の面から、再処理政策の転換の必要性を強調した。
また、「フランスの政策は日本にも大きな影響を与える」とも示唆。2011年末現在、フランスに保管されている日本のプルトニウム量は18トン。英国には17トンあり、合わせると35トンにおよぶ。「フランスの法律では、海外の核廃棄物を国内で処理できない。英国は自国での処理も可能と言っているが、フランスにある日本のプルトニウムは送り返すことになるだろう」。今後、大量のプルトニウムが日本に戻される事態も否定できないようだ。しかも、国内にはすでに9.3トンのプルトニウムがある。
二人は日本滞在中、政治家や原子力関係者と核廃棄物処理の方法などについて意見交換し、それに基づき、外務大臣と経済産業省宛に文書で提案した。


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by k_nikoniko | 2015-05-28 07:37 | 掲載記事(2011~)

ロンドン・パリ・札幌の「大不況」暮らし

以下はそれについて2009年に書いたもの。

昨年秋の経済危機以来、日本では「未曾有の大不況」と大騒ぎしているが、私自身、こうした不景気ははじめてのことではない。
“疫病神”のようで、申し訳ないのだが、私の住むところはいつも景気が悪い。
1991年に滞在したイギリスは、サッチャー政権における経済政策のあおりで国内が疲弊し、「未曾有の大不況」の真っ只中だった。
その後暮らしたフランスも景気が停滞し、いまだ回復していない。そして、いうまでもなく日本、特に北海道。振り返ると、かれこれ20年近く「大不況」社会で暮らしてきたことになる。
経済危機に関するニュースは毎日見聞きするが、正直なところ、表層的には、日本が深刻な危機に直面しているようには感じない。イギリスやフランスで目にした貧困は、日本とは比べものにならないほどだった。
日本社会の荒み具合は、これら大国のそれとは異質である。イギリスとフランスの両国に大きな差異は見出せないが、日本とは明らかに違うのだ。
それをひとことで言えば、「豊かさ」の概念や定義の違いと表現できるのかもしれない。私は政治経済の専門家ではないため、正確な分析に基づいた議論はできない。生活者として暮らした体験から、日本、そしてイギリスとフランスの“豊かさ”について少し意見を述べてみたいと思う。

私がロンドン暮らしをはじめたのは、1991年11月のことだ。バブルで浮き足立っていた東京から移り住んだため、イギリスの衰退ぶりは衝撃的だった。繁華街には空き家が目立ち、あちこちがシャッター街化していた。
なにより驚いたのは、失業者と路上生活者の数だった。当時のイギリスの失業率は10%前後。どんより沈んだ街の道端のいたるところに、暗い表情の若者たちが座り込んで物乞いをしていた。
サッチャー政権が実施した民営化や公務員削減といった構造改革で、失業者は急増。しかも、「就労意欲の乏しさ」を理由に、福祉手当の受給条件は厳格化された。その結果もたらされた状況は、現在の日本によく似ている。
こうしたなか、ロンドンで路上生活者を支援する雑誌「ビッグイシュー」が、1991年9月11日に創刊された。販売員はホームレスの人々で、売り場は路上だ。売り上げの一部が本人の収入になり、自立の資金となる。
この雑誌の出現は強く印象に残っている。「ビッグイシュー、ビッグイシュー」と独特の口調で、ホームレスの若者たちが売っていた。エンターテイメント情報も満載の「ビッグイシュー」は瞬く間にカリスマ雑誌となり、抱えて歩くのがステイタスとされたほどだ。



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by k_nikoniko | 2015-05-27 07:40 | 掲載記事(2000~2010)

北海道で死刑と裁判員制度を問う講演会(週刊金曜日)

『週刊金曜日』(2010年12月10日)「金曜アンテナ」に掲載された記事です。
北海道で死刑と裁判員制度を問う講演会

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by k_nikoniko | 2015-05-26 07:41 | 掲載記事(2000~2010)

市民3000人が支えた映画製作「レオニー」(朝日新聞 道内版)

20世紀初頭、日本人との間に生まれた子をひとりで育て、異国・日本で暮らした米国人女性がいた。その名はレオニー・ギルモア。世界的彫刻家イサム・ノグチの母親である。
彼女の波乱の生涯を描いた日米合作映画「レオニー」が、今年11月、全国で封切られる。7月末には札幌で、映画のサポーターや製作関係者へのお披露目の試写会が行われた。
松井久子監督が、7年の歳月をかけて完成させた力作だ。
ドウス昌代著「イサム・ノグチ~宿命の越境者」をたまたま手にし、レオニーの“潔さ”に感銘したのがはじまりだった。主演に国際的俳優を起用し、米国と日本それぞれスタッフを分け、「サムライ・ゲイシャ」ではないハリウッド映画を。松井監督は、日本映画界の常識をくつがえす壮大な構想を練る。
製作費のめどはまったくついていなかった。これまで手がけた2作も自ら資金を集めて成し遂げた。地道に上映会を重ねることで、ファンを増やした。介護を主題にした「ユキエ」「折り梅」は、夫婦愛や家族の絆を掘り下げている。重いテーマではあるが、人々の心を動かし、観客は200万人を越えた。

「松井監督は、私たちの観たい映画を製作してくれる」
女性数人が、映画化の実現に向けて動き出す。2005年に応援団「マイレオニー」を発足。翌年から、賛同金を募るサポーターの受け付けを開始した。高松、愛知など支援の輪は各地に広がった。北海道では、1999年の女性映画祭から監督と親交のあった女性たちが「マイレオニー札幌」を立ち上げた。サポーターになった動機は人それぞれだが、7月現在までに全国で3000人以上を数える。
昨年4月のクランクインの際、ロケ地の米国にサポーターが駆けつけた。国内でも、炊き出しやエキストラ役などボランティアで応援。前例がないだけに、スタッフや俳優を驚かせた。市民の観たい映画を市民の力でかなえる。こうした製作スタイルは、「市民メディア」「パブリック・メディア」に通じ、画期的な試みといえる。市民とメディアの乖離が叫ばれるなか、映画に限らず、メディアの新しいモデルとして興味深い。
地域との連携もこの映画の特徴だ。札幌モエレ沼公園はイサム・ノグチの最後の作品。「公園シーンがラストを飾る」という松井監督の設定に、地元の期待が膨らんだ。札幌市が後援し、道内企業の出資による北海道レオニーファンドが設立された。昨年7月の札幌ロケでは、マイレオニー札幌が約130人の子どもエキストラ募集に奔走し、当日も奮闘した。また、モエレ・ファン・クラブが昼食のまかないをし、北大映画サークルの学生ボランティアなど地元住民がロケ現場を盛り上げた。

映画は、詩人ヨネ・ノグチ(中村獅童)に裏切られ、挫折を繰り返しつつも運命を受け入れ、逞しく生きるレオニーを追う。英国出身のエミリー・モーティマは、つつましやかな演技で葛藤するレオニーに迫り、ハリウッド俳優としての貫禄を示す。吉行和子、竹下景子、中村雅俊、大地康雄ら、脇を固める日本人俳優も存在感を見せつける。なによりも映像が美しい。一場面、一場面が詩趣豊かに描写されており、〝和の境地〟に引き込まれる。
物語は粛々と流れ、感動の瞬間は、観る人ごとに違う。男に翻弄されるレオニーに自らを重ね、または息子を思う母の姿に涙する。文化摩擦、男女差別、戦争などの社会の不条理に憤りを覚える人もいるだろう。メッセージは静かに奥深く、心身に刻まれていく。
鑑賞後は、誰かと語り合わずにいられない。そこで交わされる感想は実に多様だ。人生も世界も「画一」ではなく、だから素晴らしい。視界が広がり、背中をそっと押される感じがする。

2010年8月19日『朝日新聞』道内版「北の文化」


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by k_nikoniko | 2015-05-25 07:46 | 掲載記事(2000~2010)

パリのシャンゼリゼ大通りが突如「農場」に!

『ビッグイシュー日本版』(2010年8月1日)に掲載された記事です。

5月23日・24日、パリのシャンゼリゼ大通りで大規模な農業祭が行われ、パリジャン・パリジェンヌたちが「農」に親しむ2日間となった。

排気ガスではなく、草木の香りが漂うシャンゼリゼ通り

5月23日と24日の2日間、パリのシャンゼリゼ大通りが突如「農場」に一変した。「ナチュール・キャピタル(首都の自然)」と題されたイベントで、車道は全面通行止めになり、凱旋門からの1.2キロメートルが、一夜にして緑の風景に様変わり。
石畳には赤い木屑を敷いて地面の雰囲気を出し、植物を植えた1.20四方のコンテナ8千個をパッチワーク状に配置。杉や松の森林、トマトやジャガイモなどの野菜畑、菜の花やラベンダー畑、そして、牛や羊の酪農場、牡蠣などの漁場がずらりと並び、フランス各地の農産物約150種がここに集結した。
「暑くて混雑していたけど、排気ガスではなく、草木の香りが漂うシャンゼリゼ通りを歩くのは悪くなかったわ。子どもたちは、動物と遊ぶのに夢中で動こうとしないの」。参加したエヴリン・パプリエさんは、その様子をカメラで撮影しながら、愉快そうに笑う。
山の幸、海の幸といった各地の特産品を販売する市場も大盛況。24日(月)は祝日ということもあり、見学者の数は通算で190万人に上ったという。
さながら物産展や田舎体験のようではあるが、このイベントの最大の狙いは、都会人にフランス農業に親しんでもらうとともに、農家の窮状を訴えることだった。主催したのは、35歳以下の若手農業事業者で作る青年農業者組合(JA)だ。
フランス農業は、ここ数十年、農作物の価格下落や補助金削減などで深刻な危機に陥っている。特に、若者の将来への不安は大きい。今年に入り、国内の農水産業近代化法の制定やEUの共通農業政策2013年改革に向けた議論がはじまった。そこで、人々の農業への関心を高めようと、社会ムーブメント的な大掛かりなイベントに踏み切ったのだ。

独特の“エスプリ”を効かせ、社会的メッセージを訴える

農業国フランスといえども、消費者と生産者が顔の見える関係にあるわけではない。青年農業者組合代表のウィリアム・ヴィルヌーヴさんは、「フランス農業の歴史が変わろうとしている今、農業従業者は都市生活者や消費者との相互理解が求められています」と述べる。
イベントでは、若手農業従業者たちが、日ごろ会う機会の少ない消費者に向けて、農業の魅力や生産物について直接説明。また、講演会などで意見交換なども行われた。ブルーノ・ルメール食糧・農業・漁業大臣やパリ市長が開会式に出席し、サルコジ大統領夫妻が見学に訪れるなど、政治家を巻き込む目的も果たしたといえる。
社会的メッセージを訴える際も、独特の〝エスプリ〝を効かせるのがフランス流。「美しい農園」を演出したのは、ストリート・デザイナーのガッド・ヴェイユ氏だ。
「自然を神聖化して崇めるのではなく、人間と関わらせながら芸術的に表現したかったんです。600人もの若い農業従業者の手で作り上げたこと、そこに意味があると思います。そして、ここでの散歩を体感することによって、緑あふれる世界こそ望ましいと人々は五感で気づくでしょう」。ヴェイユ氏はレクスプレス誌の取材でこう語っている。
イベントの費用は420ユーロ(約5億円)で、3分の2は農業金融機関や企業が負担し、残りは展示した植物や農作物の売り上げで補うという。
ただ、派手な活動だけに、批判もないわけではない。国連の生物多様性年にちなみ、環境と農業の重要性を強調する主催者側に対し、環境系のサイトでは、「化学肥料を使用して生態系を壊しているのが農業者だ」との書き込みも多数みられる。
とはいえ、「農業こそ将来の中心(キャピタル)」のスローガンを掲げ、都市および新自由主義の象徴ともいえるシャンゼリゼ通りを舞台に「農」をアピールした意義は大きい。第一次産業の衰退を嘆くのではなく、大胆かつ奇抜な仕掛けを打ち出す勇気はあっぱれだ。


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by k_nikoniko | 2015-05-24 08:47 | 掲載記事(2000~2010)

フランスのイスラム文化メディアSalamnews

サラムニューズ(Salamnews)の発行人モハメド・コランのインタビュー(2010年11月)。

サラムニューズは、フランスに住むイスラム教徒向けのフリーペーパー。2008年9月創刊の月刊誌で、15万部発行。食料品店や劇場などで配布している。

友人たちとイスラム教徒のためのメディア集団を立ち上げ、非営利団体(アソシアシオン)を創設しました。なぜなら、イスラム教徒はフランスで人口の10%を占めているにもかかわらず、その現状やひとりひとりの声を伝えるメディアがなかったからです。
 フランスには、親の出身地がマグレブ、つまり北アフリカやサハラ砂漠のモータリアやマリ、トルコ、パキスタンなど、フランスで生まれ育った2世、3世の若者が存在しています。私は、父親が白人でカトリック、母親がアルジェリア人でイスラム教徒の家庭に育ちました。祖父がフランスに移民し、私はここで生まれ、育ちました。
 マスメディアはここ10年、特に9.11以降、イスラムを政治思想との関係、もしくは安全保障の問題としてのみ伝えています。イスラムを扱う方法はこの2つだけです。
 フランスのほとんどすべてのマスメディアは、社会的、文化的、経済的な側面を忘れてしまっています。そこで、私たちは、メディア、特に大衆向けのメディアで発信し、自分たちの存在を証明しはじめたのです。影響力のあるメディアを利用して、ダイナミックに、ポジティブに、フランス社会におけるイスラム教徒の情報を伝えようと考えたわけです。
 フランスでのイスラムの歴史は、宗教を含め、少し特殊です。これは現在のフランスの大きな問題につながっています。ですから、議論の場、さまざまな意見で議論する民主主義の場を作っていきたいと考えました。
 これが創刊の主な2つの理由です。
 2002年にまず、ネットで情報発信をはじめました。フランス語によるイスラム情報ネットマガジンSaphirnewsです。学生のボランティアスタッフとともに、共同作業の実験場のようなものをはじめました。学生がジャーナリズムや出版についてここで実践し経験を積み、少しずつ専門性を高めていきました。ウェブサイトは現在、3人の編集者と編集長で運営しています。
 ネットメディアを運営するうえでの困難は、経済的なバランスにあります。ネットメディアでは十分な広告収入が期待できません。そこで、最終的に印刷物を発行することにしました。紙媒体のほうが、広告主を説得するのにより確かだとわかったのです。これが、サラムニューズの発行にいたった理由です。
 サラムニューズはフリーペーパーで、配布場所は、誰もが気軽に立ち寄るところ、巨大な販売網をもつ食料品店やパン屋、さらに劇場などです。
 制作費は広告収入でまかなわれています。エスニック文化市場が狙い目だと、突如気づいたのです。エスニック市場と呼ばれるものが存在し、その市場は持続可能です。フランスでは年間50億ユーロは見込めるといわれ、十分成熟しています。
 2つめのチャンスとして、大量消費商品の広告主の説得を試みました。誰もが知っているブランド、たとえば、コカコーラの広告です。4号目でコカコーラの広告をとりました。
 最初はパリ近郊で発行していましたが、マルセイユ版の発行にも踏み切りました。マルセイユで独自の編集をしています。
 ジャーナリストには原稿料を支払っています。ネットマガジンをはじめたときは、ボランティアに頼っていましたが、今のスタッフは、有給スタッフとボランティアの混合です。サラムニューズに関しては、常勤スタッフ5人は全員有給で、その他、フリーランスが数名です。編集長はプロのジャーナリストで、親(祖父母)の世代がベトナム出身。その他のスタッフの親(祖父母)の出身地はさまざまで、平均年齢は30代です。
 サラムニューズの考え方としては、フランスに住むイスラム教徒の情報をポジティブな視点で提供することにあります。それをうまく機能させるために、新しいスタイルを目指しています。たとえば、最新号の表紙には、フランスで人気のミュージシャンAbd al Malikを使いました。彼はボンリュー(郊外)出身で、イスラム文化を代表するひとりです。このように、現代の話題の人たちを取り上げ、サラムニューズをシンボル化させるというか、イスラムを解読させています。フランスのイスラム教徒はあまりにも軽蔑的でネガティブな姿でとらえられているので、この汚名を覆したいのです。
 フランスの場合、パラドックス的で、イスラム教徒に対するネガティブなイメージは、無知からではなく、認識不足から生じています。私の考えでは、無知はポジティブだといえます。なぜなら、情報を与えることができからです。しかし、知っていると信じていることをひっくり返すのはとても難しい。フランス人は知っていると思い込んでいるのです。
 フランス人もサラムニューズにとても関心が高いです。サラムニューズの配布先としてはイスラム教徒を優先していますが、シックで富裕層の多い16区での配布も行っています。16区では、サラムニューズが、スポーツ雑誌より早くなくなるということがわかりました。これは、イスラム教徒ではない人々がサラムニューズにとても興味を持っていて、こうした情報を求めていることを証明しています。つまり、障害になっているのは、現実の人たちではないのです。
 1998年のワールドカップ・フランス大会のときには、多国籍国家だとか、それが誇りだとかいわれたのですが、10年経った今、特にサルコジ政権になって以降、フランスは老朽化してしまったというか、おじいちゃんブームという現象におちいり、現在の姿を直視したり、将来を予測できなくなっています。
 2005年にフランスで起きた移民たちの暴動などもそうですが、世界に発信されているイスラムのネガティブなイメージから、「宗教の闘い」と多くの人は信じています。しかし、それは完全に間違っています。あの暴動は、社会問題を問うために起きたのです。
 ネットメディアの成功モデルとして、韓国のオーマイニュースは参加型メディアが有名です。しかし、私たちは参加型とは違います。オルタナティブメディアの定義はそれぞれありますが、私たちは、双方向的に民主的に議論するのが、オルタナティブメディアだと考えています。
 現在のフランスにおいて明らかなのは、民族的もしくは文化的なマイノリティが、マスメディアで自分たちを十分に表現できていないことです。深刻な格差が生じている現状です。現在のマスメディアは、マーケティングに左右され、白人のヘテロセクシュアルが主流です。黒人の意見は紹介されず、マグレブ出身のフランス人は表現されません。女性はメディアにおいて難しい状況を強いられています。
 フランスでは、人口の10%の存在が知られていません。その人たちの実際の姿が紹介されていないのは、実に嘆かわしいことです。本当に民主主義が欠如しています。
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フランス雑誌ジャーナリズム(週刊金曜日)


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by k_nikoniko | 2015-05-23 08:06 | メディア

フランスの非営利団体系メディアAltermondes

アルテルモンド(Altermondes)のダヴィッド・エロワ編集長のインタビュー(2010年11月)

アルテルモンドは、2005年3月創刊の季刊誌。基本的には4,000部発行で定期購読者数は2,200人。

 今年の12月号が24号目で、その他特別編集で10号分発行しています。特集号は部数を増やし、たとえば、リベラシオンとのコラボで発行した「ミレニアム開発目標」の特集号は、例外的ですが、12万部発行しました。
 この手のメディアとしては発行部数も購読者数も悪くはないと思います。もちろん、安定した経営には、定期購読者を増やす必要があります。ただ、一般紙のリベラシオンでも、10万部以上の発行に対し、定期購読者数は22,000人とさほど多くはありません。リベラシオンはキヨスクでも販売していますが、定期的に読むのは2万人にすぎないのです。桁は違いますが、割合的からすると、この雑誌は悪くはありません。
 既存メディアの現状は厳しく、最も深刻なのは、リベラシオンやルモンドなど、情報全般を扱う一般紙です。新聞の情報は質が低下し、読者が減っています。
 そうしたなか、新しいタイプのメディアが出現しています。専門を絞った、しっかり地に足のついたメディアです。なぜなら、人々はより正確な情報、自分の興味のある情報を求めているからです。
 こうした状況がいつごろはじまったのか、正確にはわかりませんが、フランスのマスメディアの危機は、80年代の末ごろからだったと思います。インターネットの普及で、ますます悪化していきました。人はネットで情報を入手するようになったからです。マスコミのスキャンダルがあったりしたため、メディアへの信用も落ちました。
 新しいタイプのメディアが増えたのは、インターネットが出現した1990年代ごろだと記憶しています。1980年代にコミュニティラジオが発達し、1981年にラジオ・リーブルの設立が可能になり、オルタナティブラジオのブームが起きました。ネットメディアの発達とともに、2000年ごろから既存メディアとは違う雑誌や新聞が次々に創刊されました。
 「マスメディアの情報は正しくない」と人々は思いはじめ、本来あるべきメディアへの回帰しだしたのが、2000年代の初期の現象です。紙媒体は消える、といわれた時期です。オルタナティブメディアが発達したのは、既存メディアの信頼度の低下を反映した結果といえます。オルタナティブメディアには質のいいもと悪いものがありますが、正確な情報を提供しているものの信頼は高まっています。
 もちろん、オルタナティブメディアを信用してもらうのも容易ではありません。メディアそのものが信用されていないからです。私たちの雑誌はNGOや労働組合とかかわりがあるため、疑わしいとみなされることもあります。私たちは、ルモンドやリベラシオンでは見つけられない情報を提供しています。他の雑誌とは完全に違う情報です。
オルタナティブメディアを立ち上げるのは、普通の媒体に比べて、さほどお金がかかりません。ただ、部数や読者数を増やす難しさがあります。なかなか方法が見出せません。我々も、定期購読者を増やすのに苦労しています。
 アルテールモンドの収入の50%は購読料です。2つめの収入源は助成金で、予算のうち30%を占めます。特集によって助成先は変わります。国連やEU、自治体、県や市などから助成を受けます。残りの5%ほどは、市民団体からのわずかな広告料、それから、会費です。収入モデルはバランスがとれています。広告に依存しているわけではなく、定期購読者が増えたら、助成金を減らすことができます。
2010年の財政は悪くはなく、2011年はさらに少し良くなる予定です。いずれにせよ、定期購読者を増やすことがカギになります。経済的にはまあ大丈夫の状態ですが、快適とまではいきません。特に、このところ金融危機が響いています。
 行政からの助成金を受けられるのは、非営利団体だからです。私たちは出版社ではなく、営利企業でもありません。私たちが非営利団体にしたのは、助成金を受けることができるという理由からです。ただ、フランスの非営利団体はどこも資金繰りに苦労しています。財政難で自治体は助成金を削る傾向にあり、助成を受けるのが難しくなっています。
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by k_nikoniko | 2015-05-22 07:40 | メディア