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海外で出会った人々:モロッコの若者

25歳の彼は、ラバとの旧市街に住んでいる。
彼は学校を卒業した後、父の手伝いをして働いている。
「英語話せるよ」と言って、気さくに話しかけてきた。
「どうして英語を勉強したの?」
「イギリス人の女性を好きになったから」 
ラバトに来ていたイギリス人女性と恋に落ち、しゃべりたい一心で、一生懸命勉強をしたそうだ。
でも、残念ながら、彼女が国に帰ってしまい、恋は実らずに終わってしまった。
彼は、アラブ語はもちろん、フランス語もペラペラだ。
さて、その彼と喫茶店でお茶をすることになった。
たとえ首都であっても、モロッコでは若い男女がカップルでカフェにいる姿を見ることは少ない。
女が一人で歩くと、カフェにいるおじさんが、食い入るような目で見つめ、とても居心地が悪い。
もちろん、大学生たちが集まるカフェは、それほどではないが、一般的には、とても女にとって窮屈。
一緒に行った喫茶店は、日本のルノアールのような感じ。
彼は常連らしく、店の人とあいさつをかわす。
客はやっぱり男性がほとんど。
女性客といえば、夫らしき男性と来ている人ぐらいだ。
店の客たちは私たちに興味津々の視線を注ぐ。
コーヒーを飲みながら、私はこう感想をもらした。
「モロッコって、とても男社会だね。女の人がかわいそう」
「そういう考えもわかるような気がする」
もちろん、モロッコ社会も変わってきているようだが…。
「でもね、モロッコの女性の中には、男性に従うことがうれしいと思っている人もたくさんいるんだよ。これからは、どう変わっていくのかわからないけど」
男女の関係が変わると、社会のしくみがずれる。
どこかの国でも聞いたような話である。

1999年、ラバトにて
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by k_nikoniko | 2013-10-31 20:51 | ひとりごと

狭山事件の再審を求める市民集会

今日は日比谷公園野外音楽堂で「狭山事件の再審を求める市民集会」。再審開始まで、なんて時間のかかることだろう。ひどすぎる。

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by k_nikoniko | 2013-10-31 14:44 | 社会問題

海外で出会った人々:モロッコの少年

「ねえねえ、テレビゲーム持ってる?」
電話の相手は、カサブランカに住む10歳の少年。
「私は持ってないけど、君は?」
「あったりまえじゃん、プレイステーション」
「ふーん、面白い?」
「大好き!」 
モロッコでも、日本のテレビゲームは浸透しているのか。
この少年は、アラブ語とフランス語のバイリンガル。
母親との会話も、二つの言葉が入り混じる。
母親は日中働いているため、学校から帰ったナセルは、女中に面倒を見てもらっている。
寂しさを紛らわすためなのか、テレビゲームは熱中しているらしい。
「これに出てくるの、日本人だと思うんだけど、○○って知ってる?」
「それは人の名前だよ」
「じゃあ、○○は? ××は? リンリンは?」 
次から次へと名前を読み上げ、止まらない。
パリからの国際電話なので、内心ハラハラ。
「ねえ、今一人でいるの?」
少年はやっと話題を変えた。
「そうだよ」
「誰かがドアをノックしたらどうする?」
「恐いからドアを開けないよ」
「どうして?」
「恐い人が入ってきたら困るから」
「戦えばいいじゃない。チョップとかキックとか」
少年は、完全にゲームの世界に入り込んでいる。
ゲームは国境を越え、子供たちに悪影響を与えている。
しかし、国境を越えた日本文化はこれだけじゃない。
「ところで、今日は学校で何したの?」
「体育」
「体育は何するの?」
「ジュードー」 
モロッコでも柔道が人気らしい。
「ねえ、日本語を習いたい?」
「うん」
よかったよ~。テレビゲームだけが、日本の文化じゃ、あまりにも悲しすぎる。
遠い国でも、日本について、けっこう知られている。我々がその国をあまり知らなくても。

1999年、パリにて
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by k_nikoniko | 2013-10-31 09:17 | ひとりごと

秘密保護法反対デモ

記者クラブ前で、デモ隊は「報道しろよ」の連呼。しかし、昨日の集会とデモはどこも報道してないみたい。

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内閣府の建物に「北方領土を想う」の看板。知らなかった。「想う」んだ…。

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by k_nikoniko | 2013-10-30 14:41 | デモ日記

「秘密保護法」反対の集会&デモ

昨日(2013年10月29日)、日比谷公園野外音楽堂で「『秘密保護法』反対」の集会が開催されました(主催:フォーラム平和・人権・環境)。
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集会開始直前まで冷たい雨。
それでも、2800人が参加(主催者発表)し、集会の後、内閣府、国会議事堂、首相官邸に向けて、デモを行いました。
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「秘密保護法」そのものが、秘密めいていて、一般の関心は低いです。
この法律で定める「特定秘密」を決めるのは、行政機関の長で、秘密対象がはっきりせず、私たち生活者にとって重要な情報、たとえば原発事故や放射能汚染などについての情報も秘密にされてしまう可能性があります。

私たちの「知る権利」を侵害し、言論や出版・学問の表現の自由さえ奪われてしまう恐れがあります。

「秘密保護法」について、もっと真剣に考えてみましょう。
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by k_nikoniko | 2013-10-30 11:38 | 社会問題

パリの市場事情から日本の市場を考える(2/2)

昔、デパートは週1日休みだった。小売店も休みがあり、夕方には店が閉店した。いまでもそれが「普通」の国はある。
定休日なしの24時間営業は、エネルギーの無駄遣いでもある。
脱原発を実現するには、こうした経済システム、ライフスタイルを考え直す必要があるのに、そちら方面には関心が薄いですよね。

札幌の商いの発展と明治生まれの市場

ここで少し、札幌の状況をみてみたい。新しい街といわれる札幌だが、商いのはじまりは、一八六九年(明治二)ごろで、現在の南一条の両脇に町家が誕生し、創成川筋では、魚や野菜を立ち売りする行商人も現れたという。
一八八〇年(明治十三)十一月に、手宮(小樽)―札幌間に鉄道が開通し、新鮮な魚類の運搬が容易になった。その翌年には、南一条西四丁目あたりに魚類を売る市場が現れたという。また、一八八四年(明治十七)ごろには、狸小路の東側あたりに魚市場が開業し、それが分裂して、一八九七年(明治三〇)ごろに大通東一丁目あたりに市場ができたという。
現在の二条市場の基礎となる魚町市場が出現したのは、一九〇三年(明治三六)ごろのこと。南二条東一丁目にあったが、その後、東二丁目へと広がった。
第一次世界大戦後には、物価高騰の対策として、社会福祉施設的な公益市場が六軒設立された。私設の廉売市場も各所に登場し、一九二四年(大正十三)に新通市場(南一〇条西七丁目)、一九二七年(昭和二)にみゆき市場(南二条西十三丁目)と大通公益市場(大通西十七丁目)、一九二八年(昭和三)に狸小路市場(南三条西六丁目)など、一九三五年(昭和一〇)にかけて次々と開業している。
冒頭に触れた円山市場は、一八九三年(明治二六)ごろに出現したといわれている。近郊の農家がリヤカーで農作物などを運び、南一条西十一丁目あたりで市を開いたのがはじまりだった。その後、一九二二年(大正十一)に西二四丁目に落ち着いた。
ところで、札幌での大型店のさきがけは、一八八五年(明治一八)に狸小路三丁目に創設された「第一勧工場」だといわれている。デパート第一号は、一八九三年(明治二六)に建てられた赤レンガ造りの五番館で、一九一六年(大正五)に丸井今井が、一九三二年(昭和七)に三越札幌支店が開店した。
札幌にスーパーマーケットが現われたのは、一九六〇年ごろで、七〇年代には、スーパーマーケットだけでなく、ショッピングセンターや大型専門店の進出が本格化した。八〇年代はコンビニの時代となり、札幌は一人当たりのコンビニ店舗数が全国平均より多い。
大雑把ではあるが、近代的流通への移行時期は、パリと札幌でさほど開きがあるわけではない。にもかかわらず、札幌のほうが、商店街や中小小売業の被害は大きく、衰退の度合いは深刻のようだ。
札幌の市場は、いずれも苦境に立たされている。狸小路市場や新通市場など、かろうじて残っている市場も、風前の灯に近い。長屋風建築のやよい市場のように、もはや現存しない市場も多い。
円山市場は、戦後の一九四九年(昭和二四)に円山市場小売商組合が結成され、生産者が直売する今のシステムになった。その当時は、通路に何重も人が並ぶほどの盛況だったという。一九七〇年(昭和四五)に、現在の鉄骨二階建ての建物が完成。その頃は二階もにぎわっていたが、その後、店舗数は減少。現在営業しているのは、三五店舗で、三月末に閉鎖が決まった。
札幌で活気のある市場は、観光客向けの二条市場と中央卸売市場の場外市場だろうか。二条市場は、八〇年代に入ってから観光客が詰め掛けるようになり、地元の人の買い物姿は減少した。札幌中央卸売市場は、一九五八年(昭和三十四)に開設され、隣接して一八店舗で場外市場がスタートした。ここ二〇年は観光客が増え、市場前には客を運ぶタクシーが並ぶ。

町づくりを見据えた市場生き残りの試み

 大型店の拡大が中小小売業を直撃したのは、どこの国も同じだ。フランスでは、一九七三年に、大型店を制約する企図で、ロワイエ法が制定された。しかし、この法律は期待された効果を発揮することなく、その後も大型店は次々と建設されていった。
フランスの食品関連のシェアは、大型店が七割近く占めているという。ハイパーマーケットは郊外型だが、ウーデーなどハードディスカウントは都市部への進出が加速し、そのシェアは約1割を占め、現在も上昇中だという。
こうしたなか、新規出店の規制を強化する必要に迫られ、一九九六年、ラファラン法が施行されるにいたった。徹底した法律のおかげで、一応は、大型店の拡大と中小小売業の減少に歯止めがかかったといわれている。
市場の活気も維持されているようにみえる。最近の調査でも、フランス全世帯の約三割は市場で買い物をするとの結果がでている。
ここで注目したいのが、フランスの政策は流通や経済の面だけにとどまっていない点である。大型店による開発で商店街や中小小売業は斜陽し、地域社会の崩壊を引き起こした。そこでフランスでは、地域活性化や町づくりを視野に入れた、多角的な施策を打ち出したのである。
時を同じくして、環境問題への関心も高まり、交通計画や都市計画の見直しも迫られていた。二〇〇〇年には都市連帯・再生法が成立し、商業流通問題は、交通システムや都市生活の改善などをからめ、総合的な戦略として扱われることになったのである。
ちなみに、フランスで都市計画を立案する場合、市民参加型の話し合いがもたれ、地元の人々の声が反映できる仕組みになっている。
 市場で働く労働者の権利を守り、地位向上を目指す取り組みも行われている。昨今、他の中小小売業同様、市場での経営状況は厳しい。フランスでは、市場で働く非定住商業者を支援するための組合などが、労働環境の改善といった提言を積極的に行い、同時に、非定住商業者の意識改革にも力をいれているという。
消費者のライフスタイルの変化にともない、新しいタイプの市場の導入にも意欲的だ。最近の成功例としては、有機食品だけを専門にしたビオ市場がある。日曜に開かれるラスパイユのビオ市場は有名で、その他、バティニョル市場、ブランクーシ市場がある。
また、朝だけでなく、夕方にオープンする市場も登場し、忙しいパリジャンに好評だという。ベルシー、ボドイエ、サントノレ(水曜)、アンヴェール(金曜)、ビュルス(火曜・金曜)、サントスタッシュ・レアール(木曜)の市場は、午前中だけでなく、一六時から一九時ごろまで営業している。
 観光資源としても、市場は貴重な存在だ。旅の醍醐味は、そこに住む人々の日常生活を垣間見ることにもある。観光客向けの土産屋ではなく、地域に根ざした市場は、地元の人との触れ合いの場となる。市場という開かれた空間は、旅人でも気楽に立ち寄ることができ、その場の雰囲気になじみやすい。

 こうしてみてきたように、フランスでは、コミュニティが消滅の危機に瀕し、人々の交流が希薄化していくなかで、住民や商業関係者が「市場」の価値や可能性をあらためて見出し、行政との協働で、市場を盛り上げようとしているといえる。
「マルシェ」はフランスで息づいているからこそ、人を惹きつけるのである。それを単に日本に持ち込んだからといって、地域が活性化するとはかぎらない。
地元に育ぐまれてきた「市場」の真価や課題点を見直すことで、その土地にふさわしい将来像が浮かび上がってくるのではないだろうか。

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ラスパイユ市場


『専門店』 2010年2月
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by k_nikoniko | 2013-10-29 08:16 | 雑誌などに掲載された記事

パリの市場事情から日本の「市場」を考える(1/2)

地域に根ざすのは「市場」か「マルシェ」か?

「札幌の円山市場が来年三月末で閉鎖を決定」「マルシェ・ジャポン予算要求取り下げ、サッポロ・マルシェは継続の方針」
昨年十二月、相次いで二つのニュースが飛び込んできた。
明治時代からの老舗市場「円山市場」が、大型店に客を奪われ、経営者らの高齢化もあり、閉鎖を決めたという。
一方、農林水産省の「マルシェ・ジャポン」は行政刷新会議の事業仕分けで廃止と判定されたが、札幌はつづける予定とのこと。
大都市に「マルシェ」を普及させる事業は、昨年夏、札幌の大通り公園でも「サッポロ・マルシェ」として開催された。
「マルシェ」とは、なんのことはない、フランス語で「市場」を意味する。フランス語の響きから、いかにもお洒落なイメージだが、フランスの市場商人がブランド品を身につけているわけもなく。日本の朝市とさほど変わらない、活気はあるがやや雑多な、普通の「市場」である。
大都市・札幌には、「マルシェ」を普及させなくても、すでに多くの「市場」が存在している。札幌の常設型市場とフランスの市場は全く同じではないが、地元で愛されてきた市場が先細りしていくなかで、新たに「マルシェ」を推進する理由はどこにあるのか?
こうした疑問から、あらためて、フランス、特にパリの市場事情について調べてみることにした。

地元住民が集うパリの多彩な市場

私がパリで最初に住んだのはモンジュ通りで、徒歩五分以内に、二つの市場があった。うまい具合に、モベール市場は火・木・土、モンジュ市場は水・金・日に開いているため、ほぼ毎日、どちらかで新鮮な食材を手に入れることができた。
次に住んだコンヴァンシオンも、地下鉄駅の広場とそこから延びる道沿いに、火・木・日の午前中、市が立った。
現在のパリの市場の数は九五で、屋根なしの食料品市場が六九、屋内市場が十三、その他、花の市、鳥の市、工芸の市、のみの市といった専門市場が十三ほどある。
パリで一番小さな市場は、マドレーヌ寺院の近くで開かれる六二メートルのアゲソー市場、反対に、一番長いのは、一三八五メートルのドームニル市場。パリ最大の屋内市場は、東駅近くのサンカンタン市場だ。
パリの市場は多種多様で、ぶらぶら巡るだけでも楽しい。市場は、フランス語の練習にはもってこいの場所でもある。忙しく働く商人たちは、決して愛想よく応対してはくれないが、ちょっとした日常会話を学ぶには役に立つ。
地元の人たちでにぎわう市場は、外国人でありながらも、地域に溶け込んだ気持ちにさせてくれるのが魅力といえる。
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一七世紀から続くパリ最古の市場

今回初めて知ったのだが、よく足を運んだモベール市場は、五世紀にシテ島で開業したパリ初のパリュ市場を受け継いだ、伝統ある市場だった。
農林水産省のHPでは、マルシェの歴史として、「五世紀にシテ島(パリ市)で最初の市が始まり、現在のマルシェに至る」と記載されている。
間違いではないが、「現在のマルシェに至る」には、一六〇〇年以上にわたる苦難と試行錯誤の歴史も有しているのである。
フランスの「市場」は、年に数日間開かれる祭り的な大きな市「フォワール」と、朝市のような「マルシェ」がある。
マルシェのほうの市場は、中世からいくつか存在していたらしい。十二世紀には、ルイ六世がセーヌ川右岸に市場を建設し、その周辺に市場が発展していく。
現存するパリ最古の市場は、ブルターニュ通りで開かれているアンファン・ルージュ市だ。一六一五年、街の発展にともない物資供給が必要となり、ルイ十三世の通達により創設された。もともとは「マレの小さな市」だったが、すぐに「タンプルのマレ市」の名で親しまれるようになったそうだ。
この市場の隣には孤児のための病院があり、そこの子どもたちは赤い服を着ていたので、「赤い子どもたち(アンファン・ルージュ)」と呼ばれていた。病院の移転後、一八世紀末ごろから、市場は「アンファン・ルージュ市」との愛称になったという。
一九一二年に、市場はパリ市の管轄となり、牛舎が造られ、十二頭の乳牛が飼育されていた。二年間にわたり地元の人々に新鮮な牛乳を提供していたので、「アンファン・ルージュの酪農工場」としても知られていた。

管理は王権から行政へ、運営は商業者や市民

フランスの市場は、誕生当初から、王権が開設を認可する仕組みだ。ただ、実質的な運営は住民に委ねられていたといわれている。
こうしたシステムは現在でも引き継がれ、市場は行政の管理下におかれている。パリ市のHPにアクセスすれば、場所や時間など市場情報が簡単に手に入る。
市場の経営形態は、行政の直接管理方式と、行政から委任された管理会社などが運営する民間委託方式の二種類ある。
パリの場合、市の直接管理は、花市(テルム、マドレーヌ、シテ)、鳥市(シテ)など七ヶ所、大部分が民間委託方式で、五社の管理会社が運営している。
運営会社はもちろん、そこで商売する非定住商業者も行政のコントロールを受け、非定住商業者は、出店許可の申請が必要だ。二〇〇六年八月一日の調査によると、約九〇〇〇人の非定住商業者が市場で商売をしているという。
パリ市のHPによると、市場は、経済および地域の活性化に役立っているという。市場の特長として、「お金がなくても見るだけで楽しい」「品質の良さ(特に魚介類と乳製品)」「地元の人とのコミュニケーションの場」をあげている。
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大型店時代を迎え、市場事情は苦境に

とはいえ、市場もまた、時の流れに翻弄され、生き残りをかけた闘いを強いられることになる。
特に、十九世紀からの近代的な流通システムの出現で、市場の状況は激変することになった。
一八五二年、世界初のデパートであるボン・マルシェがパリに誕生し、それにつづき、プランタン(一八六五)、サマリテーヌ(一八七〇)、ギャラリー・ラファイエット(一八九三)といった百貨店が次々創業した。
これに呼応するかのように、一八七〇年から一九〇〇年の期間、多くの屋内市場が閉鎖に追い込まれたという。それにとって代わり、ジョワンヴィル(一八七三)、エドガール・キネ(一八八三)、プラス・デ・フェット(一八九三)、シャロンヌ(一八九五)、ポパンクール(一九〇三)など二五の露天市場が新設されている。
その後も二〇世紀初頭にかけて、市場は低迷がつづき、屋内市場の閉鎖がつづいた。それを補うために、一九二〇年から一九三八年の間には、ラスパイユ(一九二〇)、モンジュ(一九二一)、ポールロワイヤル(一九二一)、テレグラフ(一九二二)といった露天市場が新しく設立されたという。
さらにその時期、パリ市が多数の集合住宅を建設し、そこの住民のために、ブリュン(一九三三)、ベルティエ(一九三五)、ポルト・ブリュネ(一九三七)、クリメ(一九三八)といった市場を開設した。
第二次世界大戦後には、ダヴー(一九四八)、ヴィレット(一九四九)などが開業している。
市場にとって大打撃となったのは、大型店時代の到来である。一九四八年、パリにフランス発のセルフサービス食料品店が開店し、一九五〇年代からスーパーマーケットが定着していく。
世界有数の大型店カルフールは、一九六三年にハイパーマーケットを創出し、一九七六年にはノーブランド製品の販売を開始した。
こうした急激な大型店の発展は、地元の商店街や中小小売業を脅かすことになったのである。


『専門店』 2010年2月
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by k_nikoniko | 2013-10-28 08:09 | 雑誌などに掲載された記事

フルート奏者の工藤重典さんインタビュー(1995年)

「フルートを習い始めた小学校4年生のとき、札幌でジャン=ピエール・ランバル氏の演奏を聴き、強い印象を受けました。この人と勉強するんだという予感がありましたね。フランスへ行く決心をしたのもこのときだったような気がします。今でも、ランバル氏がファイト満々でステージに登場してきた様子を覚えています。初来日のコンサートで、あのころ彼は42歳ぐらい、今の僕と同じような年齢でした」
 クラシック好きの両親に連れられ、当時結成されたばかりの札幌交響楽団の定期演奏会へよくでかけた。フルートを始めたきっかけは、音楽の時間に習うリコーダー。クラスで一番上手だった工藤さんは、いつもお手本に拭いていたそうだ。週に2時間という音楽の時間が一番生き生きしていたという。
「フルートは子ども用がないので、10歳のときはもう大変。管楽器は息を使うので、体力がないとだめです。すぐバテてしまいます。小学生のころの練習時間は30分から1時間ぐらいが限界でした。その後、中学、高校になって上手になろうとやる気が起きてからは、毎日3~4時間は練習しました」
 高校まで札幌で暮らし、卒業後、東京の東邦学園大学に入学。しかし、どうしてもフランスへ行きたい、ランバル先生につきたいという気持ちが強く、2年で退学し、パリへ旅立った。その頃は留学が珍しい時代。一度日本を出たらいつ帰るかわからない。非常に勇気がいることだったという。
「フランスにはコネがなかったのですが、札幌でピアノを習っていた先生が留学していたため、その方のお世話になりました。1975年の4月だから、ちょうど20年前のことです。日本の音楽教育はドイツ系教師が多かったため、ドイツに行く人はいましたが、フランスに来る人は少なかったようです。出発の日は、羽田空港に友人が何十人も見送りにきましたよ」
 パリの国立音楽院を受けようと思っていたが、自分のレベルがまったくわからない。渡仏した年の夏にランバル氏の講習会を受け、才能を見いだされることに。
 「『国立音楽院を受けに来たのか』とランバル先生に直接声をかけられ、学校の試験を受けても大丈夫かなと思いました。フランス語はまったくわからなかったので、日本人学生に通訳をお願いして。日本人の数が少なかったので、パリの音楽学生はみんな知っていました。学生同士の結びつきも強かったですね。パリは、何といっても建物の美しさに感激しました。生活は大変だったけど、毎日のように音楽会に行って…。安い学食もよく利用しましたよ。毎日通うとメニューが飽きてしまうから、いろいろな学食を回ってね。当時、1フランが約80円だったのですが、定食が2フランぐらいでしたからね」

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by k_nikoniko | 2013-10-27 08:22 | 掲載記事(1991~1999)

パリの都市計画と商店街(3/3)

都市計画は基礎自治体で 分権改革により実現

フランスの地方分権改革についても触れておきたい。というのも、パリはもちろん、都市計画の全権を託されているのは基礎自治体で、その権限委譲は地方分権と深く結びついているからだ。
フランスが地方分権を導入したのは、一九八二年から八三年にかけてである。分権改革にともない、多くの権限が地方自治体に移譲された。都市計画の権限は、基礎自治体であるコミューン(市町村)が引き継いだ。
 コミューンとはフランスの基礎自治体で、三万六〇〇〇以上あり、フランス革命時代から、その数はほとんど変わっていない。フランスのコミューンの特徴は、規模が小さく、半数が人口四〇〇人未満、人口三五〇〇人以上は全体の七%で、人口一〇万人以上は〇.一%にすぎない。
フランスではコミューンへの愛着が強く、日本のような市町村合併は取り入れていない。その代わり、小規模コミューンが集まって広域行政組織を形成し、行政サービスの提供などにあたっている。現在、約八割のコミューンが広域行政組織に参加しているという。
また、フランスには一〇〇の県(デパルトマン)と、二六の州(レジオン)がある。州や県の責任者「地方長官(プレフェ)」は大統領が任命し、分権改革以前には、「官選知事」と呼ばれていた。ちなみに、パリ市に対する国の行政監督権が部分的に撤廃されたのは、一九七五年末のことだ。それまでパリ市は官選知事に統治されてきたが、市長の設置が可能になり、第一代市長として、一九七七年三月にシラク市長が就任した。
都市計画に関しては基礎自治体が権限を持ち、土地占用計画は、コミューンが策定する。その他、基本計画の策定、協議整備地区および地区整備計画の指定も、コミューンが行う。コミューンだけでは対応しきれない場合、広域行政組織で行われることもある。
都市計画における国の役割は、国土整備指令の策定など、国土の土地利用に関する指針を示すことにある。
フランスには、日本のような権限配分のヒエラルキーはないといっていい。日本では、国―県―市町村といった力関係が存在しているが、フランスは、国―コミューン、国―県、国―州とそれぞれが並列関係にある。
フランスの分権改革は完璧ではないにしても、国と地方自治体の関係は、「平等」を原則にしている。

街づくりも住民参加で 公聴会と協議が義務化

もうひとつつけ加えておきたいのが、「地域の都市計画を地域住民で作る」基本を守るための住民参加である。フランスの特徴として、コンサルタシオンと公開意見聴取があげられる。
都市計画の手続きに際しては、初期の段階から、徹底した情報開示や広報活動が行われ、住民に十分周知させなければならない。
事業主体、地元住民、職業団体などによる協議(コンサルタシオン)は、一九八五年に法的義務として制定された。コンサルタシオンの結果は、説明会や展示会、印刷物といった手段で、住民に情報が開示される。ときには、住民投票で賛否を問う。
公開意見聴取は、議会の最終審議の前に行われる。審査委員が住民の意見を吸い上げ、報告書としてまとめて議会に提出するのだ。公開意見聴取実施にあたっては、地元で愛読者の多い日刊紙二紙以上に記事掲載するなど、徹底した広報が規定されている。意見の収集は、役所の窓口での回収に加え、期間中に数回の直接意見聴取が開かれる。

きめ細やかな土地規制で 界隈の弱点を補う

話を「界隈計画」に戻そう。パリでは、一九九一年からの一〇年間で、七つの「界隈計画」が市議会で承認され、実施された。
モントルグイユ/サン・ドゥニ(二区)、ビュットー・カイユ(十三区)、シャンゼリゼ周辺(八区)、ムフタール/アレーヌ・ド・リュテス(五区)、フォブール・サンタントワンヌ(十一・十二区)、グラン・ブルヴァール(一~三・八~一〇区)、モンマルトル(一八区)である。
モントルグイユ/サン・ドゥニの界隈計画は、一九九一年にパリ市議会で承認された。この地域では、自動車の交通過多と居住者の減少が深刻化していた。ここ一帯の狭い通りは、大通りの渋滞を避ける抜け道となっており、交通公害が懸念されていたのである。環境の悪化が原因で、居住者の数は減るいっぽうだった。
そこで、界隈計画では、居住者の流出を防ぐために、二階以上にオフィスや事業所などの新規開業を禁じた。また、駐車場の新設を認めず、上下可動式の車止めを設置。配達用の車両の一時駐車は許可するシステムを導入した。さらに、道路を白大理石で舗装して美観を整え、一二〇ほどの建物を保全対象として認定した。
現在、モントルグイユ通りの一階部分のほぼ全てで、何らかのショップが営業活動を行っている。一階の店舗と二階に掲げてある看板が一致しないところもあり、昔の外観を残したまま建物を保存している様子がうかがわれる。
ムフタール/アレーヌ・ド・リュテスの界隈計画は、一九九四年に市議会で承認され、工事がはじまった。この地区の課題は、観光産業の拡大を防ぐことにあった。そこで、二階以上にオフィスや事業所の新設を認めず、一階を住居やオフィスに使用するのを禁じた。また、大規模ホテルやスーパーマーケットの出店を抑えるために、いくつかの通りには進出禁止を定めた。さらに、外観の規制を厳格化して派手な看板を出しにくくし、観光産業の出店を退ける戦略を打ち出した。この界隈の約二五〇の建物が、文化財として保護対象となった。

界隈の土地占用計画も万全とはいえず、修正を加えながら、進化している状況である。今後、その効果や影響などが検証され、手直しされていくかもしれない。
しかし、先にも述べたように、二〇年前に比べて、この界隈は明らかに活気を取り戻し、魅力あふれる地区に変化していた。
二〇年といえば、日本では「失われた」と表現される歳月である。その間も、日本では、スクラップ・アンド・ビルド型の開発が繰り返された。
壊したと思ったら、あっという間に新しいビルを建設し、景観をめぐるしく変化させることで経済成長を目論む日本。それに反して、社会科学的な視点と分析を汲み入れ、長期的なスタンスで町づくりに取り組み、経済の活性化を目指すフランス。両国の手法は大きく異なる。
どちらが人を幸せにするか。モントルグイユ通りやムフタール通り界隈のにぎわいは、最新の技術と近代的なデザインに勝る輝きを放ち、正直、まぶしかった。

『専門店』 2010年9月
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by k_nikoniko | 2013-10-26 08:16 | 雑誌などに掲載された記事

パリの都市計画と商店街(2/3)

乱開発から伝統重視へ 都市計画の迷走と反省

フランス初の都市計画法は、一九一九年に成立した「整備・美化・拡張計画」(コルニュデ法)である。ただ、当時の都市整備は、オスマン期の景観の継続にすぎなかった。
この流れを劇的に変化させたのは、第二次世界大戦から一〇年ほど経て、一九五八年に制定された二つの規制だった。戦後の復興と経済高度成長への対応を目的とした、パリ地方圏整備・組織化計画(PADOG)と指導都市計画(PUD)である。
指導都市計画は、伝統的な町並みを無視した計画として悪名高い。その概念の根底を流れているのは、一九三三年に若手建築家が集まって提唱したアテネ憲章の精神である。「住む、働く、憩う、移動する」という四機能を備えた、巨大空間に垂直的な建物を配置する機械的な都市を理想としている。
この指導都市計画により、一九五〇年代後半~七〇年代のパリは建設ラッシュに沸いた。多くの古い建物が破壊され、グラン・ザンサンブルと呼ばれる大団地に取って代わられたのだ。まさに日本の団地ブームと時期が重なる。
無味乾燥なベッドタウンが、地域の特徴やコミュニティ、歴史性に配慮することなく、相次いで造られていった。暴力的な開発は、景観を崩壊させただけでなく、治安の悪化といった社会的問題を引き起こし、市民の不満や拒否を強めた。
六〇年代に入り、こうした現象に憂慮した専門家たちが、都市計画の再考をはじめる。そして、一九六七年十二月三〇日、ラディカルな都市計画法を廃止すべく、土地基本法(LOF)が公布された。オスマン期の街区を模範とし、伝統的価値を尊重する概念に立ち戻ったのである。
土地基本法を構成するのは、土地利用を規制する土地占用計画(POS、現PLU)、都市計画マスタープランの基本計画(SDAU、現SCOT)、容積率制度(COS)、整備協議地区(ZAC)などである。
土地占用計画は最も重要な制度で、都市的地区(Uゾーン)と自然的地区(Nゾーン)に土地をゾーニングし、それぞれをさらに、UA、UB、UC…、NA、NB…と区分して、土地の活用を規制する。
基本計画は、国家レベルの国土整備に関する指針と基礎自治体の土地占用計画の間に位置づけられ、基礎自治体が土地占用計画を策定するときの根拠となる。
土地基本法から一〇年の一九七七年、パリでは、パリ基本計画とパリ土地占用計画が市議会で承認されるにいたった。
パリ土地占用計画は、指導都市計画による乱開発の反省から、既存の都市構造や形態、組織を尊重し、日常的な景観を保全するための計画だ。一九世紀および二〇世紀初頭の建築物や街区の価値に注目し、保護の必要を提示したのである。

単一目的のエリアから 複合要素を備えた街へ

ここで特筆すべきは、居住・商業および産業・オフィスのバランスを調整する戦術として、容積率制度を活用していることだ。指導都市計画での容積率制度では、第三次産業の経済成長促進を目的に、業務系容積率が優遇されていた。しかし、一九七七年のパリ土地専用計画では、業務系容積率を大幅に減らし、逆に、居住系はほとんどの地区で三〇〇%台を確保している。夜間は砂漠化するオフィス街を減らし、都心での居住を可能にするための措置だ。
第三次産業の高度成長期は一九七〇年半ばにピークを迎え、一九七七年の土地占用計画は、オフィス街化の抑制にある程度の効果を発揮した。中心市街地において、オフィス建設のための建物取り壊しや新築に歯止めをかけ、居住と産業を保護したのである。
しかし、一九八〇年代後半になると、ミッテラン大統領本人に代表されるように、開発志向が強まっていった。国家的には、ルーヴル美術館のピラミッド、バスティーユのオペラ座、デファンスの新凱旋門など、大規模はプロジェクトが次々と進められた。
パリ土地占用計画も、業務系の地区の拡充や容積率の緩和へと向かった。八〇年代はまた、失業者の増加と第三次産業成長の減速が顕著になり、パリの経済活動促進の必要性に迫られる。こうした状況から、一九八九年の見直しで、近代化と開発に対応すべく、業務系の容積率は拡大していった。
ただ、それは長く続かず、一九九四年に見直しが実施され、業務系の拡大は再び制限された。
第三次産業以外の産業に関して、一九七七年のパリ土地占用計画では、建物の一階に小売店などの店舗を割り当てるという容積率制度戦略で、居住者と第三次産業以外の産業の共存を促進し、発達させていった。
こうした過程を経て、一九九〇年代に登場したのが、「界隈計画」と称されるパリの都市計画である。界隈計画は、存続が危ぶまれる商店街を含む界隈で、商業活動の継続と発達に有効な都市計画といえる。


『専門店』 2010年9月
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by k_nikoniko | 2013-10-25 09:49 | 雑誌などに掲載された記事