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原子力の誕生は民主主義の概念と両立していない

ブルーノ・シャレロン(原子力物理技術者、クリラッドの研究部門長)(注1)

6月22日、東京の日仏会館で、シンポジウム「3.11後の原子力社会における政治・知・民主主義」が開催された。最後のラウンドテーブル「原子力と民主主義は両立しうるのか?」では、日仏のパネリストがそれぞれの立場から意見を述べた。放射能汚染を明るみにし、防護策の改善を訴えつづけている独立研究所クリラッドのシャレロン氏が、原子力大国フランスの“非民主的な”問題点を語った。

まず忘れてはいけないのが、原子力は最初、軍事目的でスタートしたという重要な点だ。アメリカ、ロシア、そしてもちろんフランスもそうだった。原子力の誕生は、民主主義の概念と両立していない。原子力の平和利用でさえ、フランスもおそらく日本も、市民が現実に批判的に分析するのは不可能だ。原子力に関する情報すべてにアクセスできるわけではないからである。情報を隠すのは、テロリストへの機密漏えいを防ぐとの理屈からだ。フランスでは2006年に「原子力に関する透明性及び安全性に関する法律(原子力安全・情報開示法)」(注2)が制定された。この法律により、放射性物質、たとえばプルトニウムの加工に関する情報を配信した市民は、罰則を受ける可能がある。平和利用も含め、実際には民主的にならないよう、多くのからくりが作られている。フランスでは、原子力の平和利用計画の決定において、民主的な手続きがとられていない。

改善すべき点をいくつか紹介したい。まず、国家機関の役割である。フランスで原子力の安全を監視する専門機関はASN(原子力安全局)(注3)だ。クリラッドは、この機関が不十分であると指摘している。理由のひとつは、ASNが国防省と産業省を含む5省庁の管理下に置かれているからだ。5省庁に依存している限り、監視するのは難しいと考える。2つ目の要因は、ANSの文書のなかに、「研究者の流動性を促進するのが望ましい」と記されている点だ。つまり、あるときはIRSN(フランス放射線防護・原子力安全研究所)(注4)の研究者、あるときは原子力の監視検察官としてANSの研究者、といった流動性を意味し、ひとりの研究者が、ときには監視する側に、ときには監視される側になるのである。
3つ目は、ASNが、商工業の特色をともなう公社である点だ。原子力推進派の権力機関に面と向かう専門家の役割、つまり市民を守る役割と同時に、EDF(フランス電力公社)やアレバといった原子力事業者側のために専門的な監査も行っている。
このように、ANSには改善すべき面が数多くある。できるだけ根本から独立性のある国家機関の設立の必要があると思う。

市民の管理という役割の重要性も無視できない。たとえば、ウラン鉱山の分野。フランスには200もの古いウラン鉱山があり、これらは現在すべて閉山している。クリラッドは地元市民団体とともに、ウラン汚染に適応した規制の改正を促した。多くの汚染問題が存在していたからだ。ウラン鉱山からの使用済み放射能物質で、学校、レストラン、農場を流れる水が汚染されていた(注5)。
フランスで状況の改善や公正な判断をするのは、国家権力の直接的な行動ではなく、クリラッドのような団体の活動だと思う。測定からはじまり、メディアを使って汚染問題を国民に訴えていく。ウラン鉱山の汚染に対し、我々はドキュメンタリー制作(注6)に加わった。その番組は2009年に国営テレビ(France 3)で放送され、フランスのウラン鉱山の問題を国民に伝えた。その数ヵ月後、政府、原子力当局はウラン鉱山の管理に関する規制を少し修正した。(注7)
放射能防護の方策をさらに向上させるのは、独立した市民団体の役割である。そうした団体は市民に奉仕し、市民の手により市民を管理する。
フランスの国や企業はここ数年、言葉づかいを変える手段を使い、原子力エネルギー分野をわかりやすく理解させようとしている。以前は「汚染(contamination)」と言っていたが、現在は「マーク・印(marquage)」と表現する。こうした言葉を通し、人々の放射能に対する恐怖を減らすことができる。
情報の透明化に関しては、実際にはさほど変わっていない。例を挙げると、地域情報委員会(注8)のケースがある。ほとんどの場合、地域情報委員会が入手する情報は、原子力事業者から与えられている。そのため、独立した管理の遂行は非常に難しい。管理するには原発施設内に入る必要があると考え、クリラッドはその許可を求めた。4ヶ所で要求したが、原子力事業者はいずれも拒否した。真に独立した専門家が分析と監査を実施するには、あらゆる面において自律性を強化しなければならない。フランスは残念ながら、原発運営会社が結果を提示するシステムになっており、いまのところ権力と向き合う監査ではなく、効果的とはいえない。

そのほか改善しなければならないのは、影響調査である。フランス、たぶん日本も同じだと思うが、原子力施設の建設時や施設からの放射能排出許可の修正時に、住民がこうむる影響を調査する。問題は、多くの場合、こうした影響調査がされる前に、施設建設が決まってしまう点にある。2つ目の問題は、原子力事業者自体がこうした影響調査を準備する点だ。国家機関の職員は、あらゆる影響について、事業者を監視する役割を果たしていない。影響調査のしくみがうまくいっているか、項目の原則が規則どおりかを単に調べるだけだ。
影響調査の分析を独立した立場で行う際、我々はしばしば数多くの限界に直面する。まず、お金がかかること。たとえば、ANDRA(フランス放射性廃棄物管理機関)(注9)では、影響調査の資料コピー代が有料だ。さらに、その資料は非常に分厚く、調べるのに通常1ヶ月かかり、最初から最後まで分析するには、数ヶ月かかる。あまりにも技術的で高度なため、市民、地方自治体、独立専門家が徹底的に分析するには、そのぐらいの平均時間がかかる。

民主主義という意味で検討すべき別のポイントは、司法の問題である。フランスの場合、原発事業者、つまり原子力産業を司法の面から制裁するのは非常に難しい。アレバがからむ多くの事例が存在する。ウラン鉱山、たとえば、リムーザンの訴訟(注10)がそのひとつだ。ウラン鉱山からの放射能排出による環境汚染が発覚し、放射能廃棄物の投棄が原因なのは明らかだったが、裁判でアレバは無罪になった。なぜなら、規制がないからだ。汚染は違反ではなく、汚染が明白でも有罪にする手段が公式化されていない。規制を改善させていかなければならない。

国際的に民主化するには、国際原子力機関IAEAと世界保健機構WHOの何十年もつづく関係を断ち切らなければならない。この2機関の専門家は依存しあっている。福島第一原発事故に関して最近調査結果を発表したが、この調査はIAEAとWHOの協働で実施された。市民の健康を最優先に考え、国際的な組織においても、独立性と透明性が求められる。国際放射能防護委員会(ICRP)についても同様だ。日本で議論になった20ミリシーベルトは、ICRPの基準を採用している。この数値を推薦したICRPのメンバーのなかにはフランス人のロシャール氏がいる。彼は、CEPN(放射線影響研究所)(注11)という名の組織の理事長だ。この団体の主なメンバーは、IRSN、CEA(原子力エネルギー庁)、EDF(フランス電力公社)、アレバである。国際放射能防護委員会のメンバーの任命方法、専門家にも、透明性と市民権をさらに高め、市民の利益を守る代表者が任命されるべきだ。公衆衛生管理の規制を改訂するには、市民のより活発な行動が必要になる。
学校での教育や、市民に向けたあらゆる教育も関係している。間違った教育をさせようとしているからだ。フランスも日本も、原子力企業は非常に強力で、広告代理店を大いに利用する。アレバの場合、数年前から「原子力はきれいで、完璧」と説明するコマーシャルを頻繁にテレビで流している。市民は、原子力の巨大グループの資本力だけでなく、メディアの威力にも立ち向かわなければならない。
最後に、最も重要なカギを握るのは、市民である。市民が積極的に学び、適確な教育を受ける。そして、放射能防護のための規制や法律の制定といったあらゆるレベルのプロセスに、市民がかかわっていく。これが、防護レベルを上げていく本質的な方法である。

(1) 1986年、チェルノブイリ事故後に創設されたNGO。放射線に関するモニタリング調査、分析、情報提供を行う独立研究所。会員は7000人。
(2) Loi n°2006-686 du 13 juin 2006 relative à la transparence et à la sécurité en matière nucléaire
(3) 2006年に「原子力安全・情報開示法」の制定をうけて設置された独立行政機関。産業省、環境省、国防省、労働省、教育研究技術省の管理下にある。その使命は、原子力の安全性および放射線防護に関する管理・監督、公衆への情報提供。原子力分野の有識者5人からなり、3人は大統領から任命され、そのうち1人が局長になる。残り2人は、下院および元老院の議長からそれぞれ任命される。任期は6年。政府資金は年間7500万ユーロ。http://www.asn.fr/
(4) 2002年、原子力に関する研究、放射線防護教育、放射線モニタリング、原子力情報の公開、原子力と放射線利用に関する技術支援、非常時支援などの目的で創設。5省(産業省、環境省、教育研究技術省、厚生省、国防省)の管理下にある。原子力の安全、放射線防護、核物質管理、医学、農学、獣医学などの専門家、技術者、研究者が約1700人雇用されている。http://www.irsn.fr/FR/Pages/Home.aspx
(5) ロワール県ボワ・ノワール鉱山のサン=プリエスト=ラ=プリューニュ、オート=ヴィエンヌ県ラ・クルジーユ、ソーヌ=エ=ロワール県グーニョン、カンタル県サン=ピエールダンなどのウラン鉱山周辺地区を調査したところ、水、土地、空気の放射能汚染が発覚。鉱山事業者による放射性廃棄物の管理の杜撰さが明るみに出た。http://www.criirad.org/actualites/dossier_09/communique.pdf
(6) 「ウラン、汚染されたフランスのスキャンダル」”Uranium, le Scandale de la France Contaminé” 
(7) 持続可能開発省: http://www.developpement-durable.gouv.fr/IMG/pdf/2009-132_circulaire_gestion_des_anciennes_mines_d_U.pdf
(8) 1981年に、原子力施設立地地域に設置された。公衆への情報周知、施設の監視、事業者と自治体および政府との情報共有をはかるのが目的。2006年にその機能が強化された。委員会のメンバーは、県議会議員、市町村議会議員、県選出の国会議員のほか、環境保護団体、経済団体、労働組合、医師や専門家の代表者など。
(9) 放射性廃棄物を管理する機関として、1979年にCEA(原子力エネルギー庁)の傘下の独立組織として設立。1991年12月の放射性廃棄物法制定時に、産業省、環境省、教育研究技術省の監督下の公営企業として改組された。
(10) 1999年、市民団体「リムーザンの水源と河川」が、「水の汚染、放射性物質の投棄、生活を危険にさらした」として、コジェマ(現アレバ)を提訴した。2006年の判決でアレバは無罪に。原告の敗訴ではあったが、ウラン鉱山の汚染を訴えた初の裁判は、フランス国内でこの問題を議論するきっかけとなった。
(11) 1976年、放射能の危険から防護するための評価を行う目的で創設された、非営利団体。http://www.cepn.asso.fr/

『アジア記者クラブ通信』2012年7月5日号


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by k_nikoniko | 2015-07-17 07:42 | 掲載記事(2011~)

学校の門をくぐったことのない人がいる(『希望』)

「学校の門をくぐったことのない人がいるんです」 工藤慶一 北海道 62歳

--父が勤める貯金局は、北海道旭川市の旧第七師団司令部跡にあった。終戦後、工藤さん一家は、その周辺に点在する旧日本軍建物で暮らしていた。中学3年生の卒業間近、「デン助」というあだ名の同級生から、「世の中を良くしてくれ」と亡くなった兄の高校の数学の参考書を手渡される。「デン助」は両親に死なれ、進学できなかった。

一番記憶に残っているのが、樺太からの引き揚げの人がどんどん来たこと。兵舎というのは二階建ての三角屋根の建物で、何十棟も並んでいるんですよね。そこに大量に入って。当然、生活はすごく貧しくて。みんな一緒の小学校なんですよ。非常に貧しかったなぁ。当時のいろんな細かい出来事は、小さい(子どもの)目で見ても、戦争という時代の刻印というのは、明らかで、非常に大きくて。骨にしみついてますよね。
大学には行きたいという気持ちがすごくありましたよ。数学をやりたかったんです。一浪して、(北大に)入って、まあそこまではまだ半分ね、うれしかったですよ。でも、あとの半分は、入学したとたんに、「あれオレ卒業できないかもしれない」って考えがあったんだよ。おそらく、デン助からの流れだと思う。その通りになっちゃったけど。
「『学びたいんだけど学べない』というのを無視して建っているのが大学」っていう形に思えたので。なんていったらいいのかなぁ、要するに、「人のためにならんぞ」という感じがしたんです、大学そのものが。
みんな、いいとこ就職するわけでしょ。官庁行ったり。当時は理工系全盛の時代だからさ。大学一年の終わりごろには、企業の分厚い冊子が届くんですよ、IBMとか、NECとか。そんな時代ですから。文系も、道庁や市役所に入ったりするわけでしょ。
それが、「デン助の思いを何とかしよう」という僕の気持ちと全く合わないんですよ、合わない。
浪人しているとき、ベトナム戦争というのが大きかったの。大なり小なり、当時の若い人たちが重い課題というか、「なんとかしなきゃ」という気持ちにみんななっているわけ。だから僕は、大学でベ平連に入ったわけですよ。
そこから、日大と東大闘争が起こってきて。無党派の人たちが、僕の一年上の先輩たちが、教養の一学年四〇クラスごとに、クラス反戦というのを作ったの。あるとき、デモで「クラス反戦」という旗をにゅーっと掲げたときにね、「これだ!」と思ったんですよ。「自分たちで作るんだ」って。
僕らが二年生になったときには、教養クラス反戦連合というのを作ったの。そのメンバーで(一九六九年四月一〇日、北大入学式の会場だった体育館を封鎖)、入学式の粉砕闘争をやったんですね。それから、北大闘争の流れができた。

--1969年6月28日、工藤さんを含む多くの学生が、教養部などの建物を封鎖し、約4ヶ月間立てこもった。11月8日、機動隊3000人が投入され、解除されたが、工藤さんは、北大本部屋上にて数名の学生とともに逮捕される。

捕まったときに、「ああ、こういう方法でもダメなんだ」とわかったんです。僕らは、「何をどう抵抗していいのか」「何をどうするのが世の中を変えることなのか」わからなくって。
本部にこもって、最終的に機動隊と衝突して、そして捕まった。それから裁判が何年かあって、そして、入るとこ入って、出てきて。
そのときに感じたことは、「何をどうやっていったらいいんだろうか」なんですね、今後ね。それを見つけ出すのに、15年以上の年月がかかりました。遠友塾を見つけるまでに、かなり苦労しましたねぇ。おいそれと見つかるものではないからね。自分が「こうだ」と本気で賭ける対象というのはね。
刑務所を出て、いろんな負い目の中で生きていかなければならないわけでしょ。僕の中にできたのはね、「あそこまでやったんだから、やるべきことを見つけときは絶対に引かないぞ」という覚悟なんですね。
しかし、「これだけではダメだ」と思ったんですよ。
刑務所を出てから、お袋の幼馴染の紹介で、稚内のガソリンスタンドに就職したんです。スタンドの現場に10何年いて、本社の販売課長を何年かして、そして、経理的な仕事をするようになって。いまだに職種としては石油製品の販売という仕事をやってる。
この仕事で得られたことは、意外に大きかったですね。いろんな人とのめぐり合い。辛いこと悲しいこと、うれしかったこと。この過程がね、僕にとってはやはり必要だったな。あのー、何ていうんだろう。動機があって、覚悟があっても、世の中を知ってないんですよ。まだまだ子どもなんですよ、精神的には。それを上司の人が見抜くわけですよ。「おまえ所長にしようと思うんだけど、まだ線が細い」とかね。でも、いろんな人事で、所長になるときがきますよね。そうすると、「スタンドの所長」という仕事が自分を創るんですね。

--工藤さんは1987年、地元新聞に掲載された「遠友塾読書会」の小さな新聞記事を見つけた。牧野金太郎氏(故人)が主催し、札幌で自主夜間中学の設立を目指していた。そして自主夜間中学「遠友塾」は1990年4月に開講した。

記事はかみさんが見つけました。かみさんはね、僕が学生運動をやっていたとき大学の図書館に勤めてたんですけど、北海道救援センター(学生運動のデモのケガ人救護や、逮捕者への差し入れ、裁判までの段取りなどをするボランティア)というところにいて。かみさんも大したものだと思いますよ。そうですね、生き方が同じほうを向いている。今、遠友塾でも、重要なスタッフですね。
刑務所出て、そして、稚内に行った頃に、どういうわけか、やけぼっくいに火がついちゃったんだよね。あのときはね、自分が女の人を好きになる力が残ってるなんて、思えなかった。なんていうのかね。「あしたのジョー」が死ぬ場面があるじゃない? やりつくして真っ白になる。わずか25歳の若造が、そういう感覚を持ったんですよ。だから、自分で不思議だった。かみさんを好きになった自分を、自分がびっくりしたの。
「遠友塾読書会」の記事を見て、「これは行こう」と思ったんです。まもなく「(1944年まで50年続いた)遠友夜学校のようなものがあればいいね」という話が出て。「これだ! これがオレのライフワークだ」と直感的に感じた。僕が長いこと探してきた、僕のやりたいことがようやく見つかった。後はもう、まっしぐらです。
動機からも言えるし、覚悟があるから。おまけに、仕事から得られた経験で、いろんな人と交わる術をある程度わかるわけだから。ちょうど良かったな。仕事を通じて得られる経験というのは貴重でねー、仕事そのものもあるし、人との付き合いからくる、いろんなことだねぇー。遠友塾の授業がはじまったちょうど40歳のときに、それがわかったね。
正直、恐ろしかったんですよ。年配の人は、若い人を見ると、瞬時に本物か偽者か判断しますから。特に辛い思いしてきた人は。
開校式に司会をやっていて、ホッとしたんですよ。100人ぐらい、いろんな世代の人が来たんだけど、通じたんですよ、気持ちが。それまで辛かったことも、やっぱり肥やしになってたんだな、僕にとっては必要なことだったんだな、とわかったんですよね。
(1989年の)秋から遠友塾の設立準備委員会を作ってます。毎月の会合を重ねていって、授業を誰がやるかを決めていった。次にお金を集めたの、賛助会員募って。目標は50万円。実際は70万円ぐらい集まったんです。
どういう授業をするかまではわかんないんですよ、やったことがないから。小学校の内容をやったって、ダメなんですよ。学校の先生もいるんだけど、受講生と気持ちが通じないでやったって、ダメなんだよ、難しいことやりすぎてさぁ。
教材の作り方もわからない。失敗しながら作っていきましたから。授業が始まったら始まったで、授業の悩みがものすごく出てきて。今から考えるとね、1期生には迷惑をかけたと思いますよ。知らないからできたんだよ。わけのわからんことやるわけですから。
「わけがわからんこと」は、私に向いているんですよ。そういうのは突破できるの。決まりきったことは、全然向いてないんですが。


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by k_nikoniko | 2015-07-14 08:00 | 掲載記事(2011~)

朝鮮人労働者の未払金一部をGHQが保管(週刊金曜日)

GHQ文書の公開により明らかになった給与の行方
朝鮮人労働者への未払い金は2億円?

戦時中に北海道・室蘭市の日本製鉄輪西製鉄所で就労させられていた朝鮮人労働者三人の遺骨が五年前、祖国へ返還された。室蘭の寺に納められていた骨箱に入っていた遺品は、空っぽの給料袋と給料明細のみ。遺族の依頼で給料を追跡したところ、意外にも米国・連合国最高司令官総司令部(GHQ)の文書からその行方は明らかになった。北海道内で働いた朝鮮人の未払金の一部は、いったんGHQが保管していたのだ。

アジア太平洋戦争時、日本政府や軍の命令で労務や軍務などに動員された朝鮮人は一〇〇万人以上にのぼる。暴力や甘言で連行されたケースが多く、劣悪な環境の中、重労働を強いられた。彼らが手にする現金収入はわずかで、大半は貯金に回され、通帳は雇用主が保持していた。
戦時中に死亡したり、受け取りを待たずに帰国した人もいたため、企業の手元には賃金や貯金、積立金、給付金などの未払金が残った。その総額は、軍人・軍属も含め約二億円と見積もられている。
これに対し日本政府は一九四六年、未払金の供託を義務づけた。以来、現金は東京法務局に、通帳はゆうちょ銀行福岡貯金事務センターに保管され、現在もそのままだ。
ただ、北海道は他府県と少し違う。未払金の一部は別の経緯をたどり、GHQが日本銀行内の連合軍預託金口座で管理したのだ。
GHQが北海道の未払金に関与したのは、北海道に炭鉱が集中し、その労働力として動員された朝鮮人が多かったという特殊な事情による。
四五年八月一五日以降、日本はGHQに間接統治された。植民地だった朝鮮にも三八度線以南に米軍政庁が置かれ、日本国内の朝鮮人の処遇もGHQの政策をあおぐ形となった。

GHQの妙案

戦後すぐ、日本国内の朝鮮人労働者は怒りを一挙に爆発させ、労働運動が全国規模で広がった。北海道のストや賃金闘争は特に激しく、四五年九月中旬から一一月ごろまで各地で頻発した。
GHQや日本政府は事態の悪化を憂慮した。というのも、石炭の生産増強は日本復興の柱だったからだ。経済科学局長のクレーマー大佐は同年一〇月二九日付の覚書で、「送金不可の措置による朝鮮人の不満が、北海道の石炭生産量の減少を引き起こした」と説明している。
このため、九月二二日付の覚書で海外への送金を禁じたGHQは、朝鮮人の「故国の家族への送金」を可能にする解決策をひねり出す。
その妙案とは、日本政府から朝鮮米軍政庁に石炭を輸送する際、朝鮮側が日本側に支払うべき石炭代金から「送金」分を差し引き、朝鮮人労働者の代わりに朝鮮に住む彼らの家族に現金を支払う方法だ。
その手順としてまず、北海道の該当企業に、朝鮮人労働者の賃金や貯金のなかから送金分を日本銀行内の連合軍預託金口座に預けさせる。そして、朝鮮で天引きされた石炭の代金を、この口座への入金額で相殺する仕組みだ。
早速、GHQは日本政府にこれを命じ、「労働者名と住所、朝鮮の家族の氏名と住所、金額を記した名簿を企業に提出させ、それをGHQ本部に毎月送る」指示も出した。
この要請を受け、北海道企業は日本銀行札幌支店への入金を開始する。四六年五月五日付覚書「北海道から帰国した朝鮮人労働者の未払金」には、入金記録が詳細に記されている。この覚書は、米軍第七四師団(札幌)から第九軍団(北海道を管轄する組織で仙台が本部)経由、第八軍団(連合軍最高司令部の下部組織で横浜が本部)に宛てたものだ。
例えば、「三井美唄炭鉱、一九四六年二月二八日に小切手一〇万一九三四円四三銭を北海道拓殖銀行札幌支店から振り出す。これは同社で就労していて帰国した朝鮮人の賃金と賞与で、名簿も添付」「赤平炭鉱、一九四五年一二月一八日に小切手三万一五〇〇円を北海道拓殖銀行札幌支店から振り出す。(以下同)」など、二〇以上の入金が確認できる。
東京の日本銀行内連合軍預託金口座へは、第七四師団のピッケル中尉が四六年三月十一日に入金した旨の文書が残っている。
一方、マクダーミド大佐は五月二七日にソウルで朝鮮軍政庁と面談し、送金の手筈を整える。
五月三一日、GHQは、朝鮮の仁川に駐屯する米軍第二四軍団司令官宛に、「夕張炭鉱の労働者の貯金および賃金分一九万一二一四円八八銭に相当する額を石炭代から差し引き、その分を労働者の家族に渡す」指令を出した。「受取人の住所、居住地の詳細を明記した日本語と朝鮮語の名簿は、現地から直接郵送される予定」ともある。連合軍預託金口座からこの額が差し引かれたのは、七月二九日付の民間財産管理局から会計監査官宛の覚書で確かにわかる。
北海道では企業からの入金が続き、七月二七日、室蘭進駐軍のアレン中佐が、日本製鉄輪西製鉄所の小切手を日本銀行札幌支店に入金した。北海道地区軍政のヒルデブランド中隊長は八月五日、第八軍司令官宛に、「室蘭の日本製鉄輪西製鉄所で雇用されて帰国した朝鮮人の所持金を含む合計一七万三七九八円四七銭の小切手が一九四六年七月二七日付で安田銀行室蘭支店から振り出された」「氏名、住所、内訳を記した名簿原本は、軍最高司令部からの指示が出るまで、当軍政部で保管」との文書を送っている。冒頭で触れた給料袋の中身も、この金額に入っているとみられる。

宙に浮いた未払い金

ところが、送金がスタートしたばかりの六月、この計画をめぐってGHQ内で意見の食い違いが生じ、七月にこの事業が頓挫してしまう。
連合軍預託金口座に預けられた未払金は、宙に浮く状態となった。この時期、つまり四六年夏ごろから、日本政府は「未払金の供託」を画策し始める。そして、同年一〇月一二日、厚生省労務局長が正式に供託の通達「朝鮮人労務者等に対する未払金その他に関する件」を出す。結果、雇用主は朝鮮人の賃金や貯金などを供託し、手続きが完了したら地方長官へ報告しなければならなくなった。
四九年に入り、韓国政府からの要求で、GHQは日本政府に未払金返還を働きかける。GHQの命で、大蔵省は未払金の調査を始めた。しかしその矢先、五〇年に朝鮮戦争が勃発。サンフランシスコ講和条約の調印でGHQは方針を転換し、未払金問題は日韓間での解決へと移行した。
連合軍預託金口座の北海道の朝鮮人労働者の未払金残高は、五一年五月一〇日で二六三万一四四八円七〇銭。この年、この口座は閉鎖となり、一二月一九日の覚書により未払金は賠償庁へ移管される。そして、五二年四月二八日の賠償庁の廃止にともない、大蔵省へと引き継がれるが、五九年九月八日付で、東京法務局に供託され、現在にいたっている。
東京法務局庶務課に問い合わせたところ、「この供託金が朝鮮人労働者の未払金であるとは認識しているが、日韓協定により請求権は放棄されており、返還の予定はない」と回答。法務省民事局商事課供託係は、「こちらでは供託金として預かっているだけ。北朝鮮とは協定もなく、今後どうするかは外交次第」と言う。
朝鮮人の未払金は、本人や家族らに何も通知されなかったばかりか、半世紀以上たったいまもなお、遺族にその存在すら明かされていない。

『週刊金曜日』2013年11月15日


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by k_nikoniko | 2015-07-11 08:43 | 掲載記事(2011~)

実録!over40オンナの後始末(週刊女性)

「母が09年、父が11年に亡くなったんですよ。短期間に2人分のお葬式やその後の手続きをしたら、死がリアルになるじゃないですか。それからいろいろ調べ始めているんです」
Kさん(47歳・主婦)は終活を開始したきっかけをそう語る。両親のお葬式を出すまでは、まったく意識になかったという。
夫はひと回り上の60歳。子どもはいない。普通に考えて、おひとりさま予備軍だ。母は66歳で他界、父は60歳のとき脳梗塞で倒れた。最期が「すごく先ではないかも」との自覚もある。
両親の葬儀は、実家の福島県で互助会に頼んだ。祖母の時代からの知り合いで、違和感はなかった。親の後始末をきょうだいで引き受けながら“いま、私がやっている役は誰がやるの?”と、はたと危機感を抱いた。
「子どもがいれば片付けてくれるのでしょうが“ホント、どうするの?”って」
妹や弟は健在だが、このご時世、先のことはわからない。その意味では、子どもがいても状況はさほど変わらないのかもしれない。
たまたまテレビで“介護難民”の番組を観て、ひとり暮らしの低所得者の後始末は行政がすると知った。福祉課の職員が火葬に立ち会い、無縁仏に葬られるのを目にし「これしかないの?」と茫然……。
「番組で見たようになりたくないと強く感じました。何も考えないで死を迎えたら、自分がいいと思わない、よりイヤなほうの終末になってしまいそう。楽しく自分らしくできるなら絶対そっちにしたい。いま始めれば可能かもしれないので」
だが、書類の提出や葬式、納骨などを誰に頼むかといった、最も気がかりな〝おひとりさまの終活情報〟がなかなか見つからない。ネットで探すにも、キーワードが思い浮かばないのだ。
あちこちにアンテナを張っていたところ、冠婚葬祭のサポートをするウェルライフ主催の『これから楽交』を友だちに紹介され、5月から講座や入棺体験などに参加しだした。入棺した感想は「狭いんだな。目を開けても暗いと聞いてたけど、あーホントだ」とまだ現実味がない。参加者の意見はさまざま。自分と違う感想を聞くのがおもしろかった。
「終活は、果てるときを把握して、いまをよりよく生きる。そんな感覚なのかな」
そう語るKさんは最近、最期から逆算して、老後の費用を計算してみた。
「年金の足りない分を貯金しなければならない、と言われて。会社勤めが長かったのですが、金額を出したら“わー、大変!”って。厳しい世の中だなぁ、と」
ひと口に終活といっても介護、お葬式、お墓など、その範囲は驚くほど広い。Kさんがまず取り組もうとしているのは、お墓。結婚直後に夫から建てるつもりと聞いたが、いまだにそのままだ。
「骨が土に還って木の栄養になり、次の世代が木や花を見て“きれい”と思ってくれたらうれしいかな」と、目下のところ、樹木葬に注目しているという。

Sさん(57歳・NPO職員)は23年前、34歳のときに散骨を決めた。NPO法人『葬送の自由をすすめる会』(東京)を仕事で知り、すぐに登録したそうだ。
「もう子どもは作らないと決断したときに“私にはお墓がない、じゃあ散骨しよう”と思ったんですよね」
子どもがほしくて、33歳で「めちゃくちゃお見合いをした」。高齢出産のリスクも考慮したら、35歳までに出産するのが理想。しかし、仕事が充実していた時期で結局、結婚に踏み切ることができなかった。
「父の墓は弟が継ぐわけでしょ。家族はそういうもの、と育ってきたんです。こういう家族意識を持っているから、枠からはずれた状況にどう対応するか、いつも考えなければならない。長男に嫁いでいたら、終活は考えなかったと思います」
今までの日本人は終活など必要なかった。結婚して、子どもができて……と社会が定めるレールに沿って生きていれば、行く末が決まっていたからだ。しかし、そのシステムが崩れ、人の生き方は多様になった。
「ひとりだけ放り出されたら、すごく不安。だから“どうしよう、何かしておかなくちゃ”と思ったんです」
50代になり「その前に老後があるんだ」と気づいた。
父親が死去し、15年前に母親が脳梗塞で倒れたときにマンションを購入。母を抱え、実家の一軒家に住むのは困難だったからだ。
「当時は自分の介護や老後はまったく頭になく、マンションが終の棲家と思ったの。コミュニティーがあって、お祭りも多い下町で、楽しく生きるのが私の老後だと信じてたのね」
ところが、母親の介護を通して「ここで死ぬのは無理だ」とわかった。
「最初は私がご飯を作っておけば、母は自分で出して食べたの。でも、どんどんダメになるんですよ」
初期のうちは、配膳などの介護サービスを利用してひとりでできるかもしれない。でも、認知症は進行する。それを目の当たりにし、「マンションでひとり暮らしの老後はありえない」と考えるようになった。
「マンションを処分して、貯金を使えば、どこか施設に入ることができるかもしれない。だから自分で判断できる間に後見人を頼むとか、“こうやって片づけてね”とエンディングノートに書いておこう、と」
終活歴の長いSさんは、「その時点でいいと思っても、あとになって役立たないケースがたくさんある」と学んだ。施設に入所している母親のお葬式も、「陽気な母親だから、ワイワイにぎやかに行うつもりだったのですが、母の友人が次々と亡くなって……」と予定通りになりそうにない。Sさんは言う。
「終活は常に更新していかないと」

記者も40なかばで終活をスタートした。そのころ、30代と40代の身内が相次いでガンを告知され、〝死〟が身近だったからだ。
自分の最期が急に心配になった。そして、余命を告げられてから冷静に準備する自信はないと悟った。
「元気なうちにある程度、用意しておこう」と、NPO法人『葬送を考える市民の会』(札幌)の講習を受け、母の着物で死装束を仕立て骨壺を焼いた。
エンディングノートを埋めるには、遺体安置や火葬などの場面を想像しなければならず、かなり覚悟がいった。自分史や連絡先を書きながら、懐かしい人々を思い出し、ウルッときたり。
終活はこれまでの自分を見直す機会になり、「残りの人生を愉快に!」と気持ちを切り替えてくれる。
40代はターニングポイント。終活デビューに早すぎる年齢ではないのだ。

『週刊女性』2014年7月22日号

40代からの終活


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by k_nikoniko | 2015-07-09 07:56 | 掲載記事(2011~)

東日本大震災後の地域医療の現状(月刊自治研)

東日本大震災後の地域医療の現状将来を予測して
手探りで進める地域医療の復活

東日本大震災から三年以上が経過した。しかし、津波の被害が大きかった石巻市や気仙沼市などの沿岸部を中心に、宮城県ではいっこうに復興が進んでいない。県の資料によると、二〇一四年二月現在の全医療機関の再開割合は、旧石巻医療圏で八九.四%、旧気仙沼医療圏で七二.三%にとどまっている。
これまで目指してきた地域医療とは程遠い、まっさらな状態からのスタートを余儀なくされた宮城県。「自分たちの生活でいっぱいいっぱい」のなか、現場では、手探りで地域医療の復活を進めている。
多くの課題を抱えている一方で、宮城県は昨年度から二次医療圏を再編し、今年度は医学部新設に名乗りを上げた。この方策は地域医療の充実につながるのだろうか。
宮城県の地域医療のゆくえについて、自治労宮城県本部衛生医療評議会二〇一四年度第三回幹事会でお話をうかがった。

震災の爪痕が残るなかでの医療圏再編
統廃合で懸念される地域医療の弊害

宮城県は二〇一三年四月に、二次医療圏をこれまでの七カ所から四カ所に再編した。二次医療圏の再編は国の方針でもあるが、厚生労働省は東日本大震災の影響を考慮し、「岩手、宮城、福島の被災三県は見直しの対象外」としていた。しかし、宮城県はあえて医療圏の再編を断行した。
宮城県の二次医療圏はそれまで、仙南、仙台、大崎、栗原、登米、石巻、気仙沼の七か所だったが、仙南と仙台以外の五か所を、「大崎・栗原」「登米・石巻・気仙沼」の組み合わせで二か所に合併した。
これら新しくなった医療圏には、東日本大震災で莫大な被害を受けた沿岸部が含まれる。公共交通機関などのインフラ整備が遅れるなかでの再編だけに、各地で混乱がみられる。
「大崎・栗原」と「登米・石巻・気仙沼」では、再編後の基幹病院はそれぞれ大崎市民病院と石巻赤十字病院に位置づけられた。どちらも仙台からは高速道路で三〇分の範囲だ。しかし、医療圏の発端にある栗原市や気仙沼市から基幹病院までは、車を飛ばしても一時間以上かかる。再編が患者の利便性を後退させ、医療過疎を進行させるのではないか――関係者の不安は根強い。
「仙台に居を構える医師への配慮があったのかもしれません。とはいえ、ずいぶん乱暴な線引だ」と、仙台市立病院・労組委員長の瀬戸弘さんは憤る。二次医療圏を見直しにあたっては、「基幹病院までのアクセス時間等も考慮する」旨が国から示されたにもかかわらず、状況は明らかに矛盾している。
宮城県の主な公共交通機関は県を縦断する東北本線で、在来線はきわめて少なく、仙石線などの路線は復旧していない。
たとえば、登米市の住民が石巻市の病院に行こうとすると、通院には、自家用車か一日数本運行のバス、もしくはタクシーを利用せざるをえない。車を運転できない人もいるが、大都会とは違って交通機関が網の目のようにはりめぐらされているわけでもない。「車で三〇分」はタクシー代なら片道六〇〇〇円、往復一二〇〇〇円はかかり、それを年金から払うことになる。
地方独立行政法人宮城県立病院機構宮城県立循環器・呼吸器病センターの小野清美さん(評議会副議長)は、帰宅を気にする患者家族についてこう話す。「奥さんの心配はバスの時間だけ。入院する旦那さんの病状の説明より、自分は『帰らなくっちゃ』と。何回もバス停まで行って、時間を確認するんです」
「震災で地域医療が崩壊したにもかかわらず、医療費抑制という施策をここでも全面的に適用している」 そう批判するのは、大崎市民病院の津田志朗巳さん(評議会議長)だ。住民の生活環境や公共交通機関の状況などは軽視し、合理的にはじきだされた数字と地図だけで線を引く。「健康保険をおさめているのに、いざ使おうとしたときに、近くに病院がない。採算性議論だけでは、本当に役に立つ地域医療など不可能ではないか」と津田さん。

医学部新設に揺れる栗原市
地域医療に還元されるのかに疑問の声

再編された二次医療圏は、栗原市や登米市など県北の切り捨てともみてとれる。医療圏再編を主導したのは、県内に唯一医学部をもつ東北大学。「栗原市の医学部新設」にいたった背景には、医療圏再編への不満があるのではないか。こうした声も聞こえてくる。
医学部新設は約四〇年間抑制されてきたが、震災からの復興、超高齢化と東北地方における医師不足、原子力事故からの再生を踏まえ、東北地方に一校だけ許可されることになった。
文部科学省は二〇一三年十一月、「東北地方における医学部設置許可に関する基本方針について」を発表。同年一二月に「東北地方における復興のための医学部新設の特例措置」が閣議決定された。
宮城県知事は、復興のシンボル的な意味もあり、医学部新設にはもろ手を上げて協力していく意向を示し、県は二〇一四年四月に医学部設置推進室を設置した。
医学部設置応募は五月三〇日に締め切られ、三件の応募があった。ひとつは福島県郡山市からで、宮城県からは東北薬科大学と宮城県。
県は栗原市に県立医学部を設置する構想を提示した。「県立による医学部新設について」によると、二〇一六年四月に入学数六〇人(定員三六〇人)での開校を予定。大学附属病院は、市立栗原中央病院を中核施設として活用し、必要とされる六〇〇病床数を確保。新校舎は、市立栗原中央病院の近接地に整備するという。
栗原市は核廃棄物最終処分場施設の候補地にもあがっている。福島第一原発事故後の二〇一一年七月、栗原市や登米市の稲わらが放射能で汚染されているのが発覚。これら汚染稲わらは、市内に保管されたままだ。それに輪をかけて、栗原市の深山嶽のふもとを最終処分場施設する計画が持ち上がった。
「医学部設置には栗原市も財政負担しなければならないだろう。最終処分場施設をここに造れば、交付金を回すことができる。医療過疎地域が一転した、というモデルケースにしようとしているのでは…」との憶測も飛ぶ。
新設される医学部が地域に還元されるのであれば、大歓迎である。しかし、医学部は教育機関にすぎない。医者不足で困窮している地域に医学部を設置しても、医者をすぐ補うことはできず、何の解決にもならない。「医学部が新設されれば、医者は豊富にそろうし、患者をどんどん診てもらえる。自治体はそう勘違いしているのではないか」 現場では懸念が広がっている。
栗原中央病院は救急体制をとっているが、大崎や仙台ほど整っていない。そうした病院が大学病院になって、何を提供するのか? 栗原市で今求められているのは、紹介状なしで診てくれる病院だ。栗原市の開業医のほとんどが病床を持っていない。風邪ひいたときに気軽に開業医に診てもらえる環境こそ、高齢者は必要としている。
また、県立循環器・呼吸器病センターが廃止となれば、県内唯一の結核病棟の存続が危ぶまれる。瀬戸さんは、「結核患者が少ないから結核病棟はいらない、という話にはならない。火事が起きないから消防署はいらない、犯罪が少ないから警察はいらない、というのと同じこと。株式会社の病院が存在しないのは、対価ベースとは別の要素が病院にはあるから。そこを認識してもらわなければならない。消防や警察ではそういう議論をしないのに、矛盾している」と憤る。

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by k_nikoniko | 2015-07-07 08:05 | 掲載記事(2011~)

地域に根を張る島根県の保健所(月刊自治研)

人と人とをつなぎ合わせて
地域の健康を支える

地域に根を張る島根の保健所――保健師の数は全国トップ

地域住民の健康や公衆衛生を支える保健所は、都道府県などが設置する公的機関。近年は、市町村の保健課と混合されがちで、その業務内容は地域の人になかなかわかりにくい。
そうした現状のなか、島根県の保健所は、市町村と連携し、地域に根差した活動で知られる。島根県の保健所は、長年、七か所すべての保健所で、公衆衛生の専門医が保健所長を務め、地域特性を生かしながら脈々と活動してきた。
もうひとつの大きな特徴としては、市町村の事業である健康診断を受託し、保健所の専門職種が公民館や集会所に出向き、行政担当者と一緒に健診してきたこともあげられる。市町村の保健事業にかかわりながら、「どのような病気が多いか」「生活の状況はどうなのか」といった地域性や健康課題を把握し、市町村とともに対策を検討してきた背景がある。
今回、全国的にも注目されている益田保健所を訪問した。県庁から最も遠い圏域に存在し、益田市、津和野町、吉賀町をかかえる益田保健所は、「益田圏域健康長寿しまね推進会議」の事務局として、「第二次益田圏域健康長寿しまね推進計画」を進めている。第一次計画は、一九九九年に県が打ち出した「健康長寿しまね推進計画」を受けて、二〇〇一年度にはじまった。
これを基盤に、益田市、津和野町、吉賀町の三市町も健康増進計画を策定。市町の健康づくり会議と、公民館単位の健康づくりの会が、健康長寿日本一を目指し、「健康づくり」「生きがい活動」「要介護状態の予防」という同じ目標を掲げて活動を展開している。

途切れかけていた関係を再びつないで
――市町村と保健所、互いの活動を重ね合わせる

保健所のモデルケースとして取り上げられることが多い益田保健所だが、村下伯所長は、「保健所と市町村の関係がギクシャクした時期もありました」と苦笑いする。
保健所の活動を歴史は大きく三期に分けられるという。まず、保健所が地域に出かけて健康診断を行っていた時期。次に、一九九四年の地域保健法により市町村との関わりを模索していた過渡期。そして、「益田圏域健康長寿しまね推進協議会」の活動がはじまって以降。
市町村との関係がこじれたのは、地域保健法の制定が原因だった。「身近な保健サービスは市町村、専門的な取り組みは保健所」と仕分けされ、厚生労働省からは「市町村と都道府県の役割分担」をかなり強く指摘されたのだ。
これにより、難病や結核といった専門分野が保健所固有の事業として残り、健康診断や母子保健、三歳児健診の実施主体は市町村に移行した。これまでのように保健所の保健師が健康診断に出向く機会が減り、市町村とのつながりが遠のいてしまったのだ。
「国のほうからのこうした議論のなか、現場では保健所も市町村も、『これまで築いてきた関係を大切にしていこう』との意見がありました。役割を分担するのではなく、市町村と保健所の活動を重ね合わせ、最終的には地域の健康に責任持って取り組んでいく。そうした新しい協働関係が構築されてきています」
市町村は、子どもから高齢者まで、あらゆる年代、さまざまな職種の人が生活する地域に束ねる。一方、保健所はより広域的視野を持ち、医師会、歯科医師会、薬剤師会、栄養士会、労働基準監督署、教育委員会、JAといった関係機関と連携していく。こうした役割分担のもと、保健所は圏域全体を見つめ、各市町村の課題も提起していく。市町村のほうも、圏域の課題を承知したうえで、具体的どう取り組んだらいいのかを考える。保健所と市町村が地域の問題をしっかり把握し、地域の解決すべき課題を共有することで、効果的な対策を進めるのが理想だ。
それを実現するべく、益田圏域健康長寿しまね推進会議を母体とし、圏域内の保健、医療、福祉、教育、企業などが連携するネットワークが構築された。推進会議の構成員は、当初の二八関係機関・団体から、二〇一二年度には三八に拡大。保健所は、構成団体の会員や職員への研修や啓発など、健康を支援する環境づくりをてがける。市町のかかわり方としては、市町の健康づくり会議がこの推進協議会とともに、「食と歯」「運動とこころ」「高齢者の健康づくり」「たばこ」のワーキング部会を設置し、具体的な健康づくり計画を進めていく。
それぞれの部会は、約一〇の機関の代表者と各市町担当者で構成され、年二回の会議で、それぞれに特化した健康づくりを検討する。六月頃の会議でその年度の活動方針を決め、二月頃に結果を報告し、次年度の計画に生かしていく。また、それぞれの部会の活動内容は「まめなかね通信」に掲載し、それを配布して情報発信もする。


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by k_nikoniko | 2015-06-29 08:17 | 掲載記事(2011~)

原発震災離婚(週刊金曜日)

『週刊金曜日』(2011年10月21日)に書いた記事です。

原発事故が引き裂いた男女の絆

当山 原発事故が起きた時、最初は夫も一緒に避難してきました。でも、事故があまりにもダラダラと続くし、政府は「大丈夫だ、大丈夫だ」としか言わないし。そうしたら、夫が「一旦帰る。福島には仕事あるから」って言い出したんです。避難生活では180万円があっという間に消えてしまいましたから。それでみんなで帰ろう、って決めたんです。でも、ちょうどその時に2回目の大地震が起きて……。それで私は、やっぱりまだ様子を見たいと思い、子どもと残りました。それからは福島との二重生活。夫は「オレが福島で働いて、仕送りするから」って。

藍田 私は、地震後すぐに娘と一緒に東京へ避難しました。夫とは電話も通じなかったし、仕事の邪魔もできないと思ったから、告げずに避難したんです。東京にいる1カ月間、夫は一度も来てくれなかったし、「そこ(東京)から危ないと言われても困る」って、話しを全然聞いてくれなかった。でも、私も仕事を中途半端にしたままにしてきたこともあって福島に帰りたくなったんです。それで、4月の終わりに「避難生活やめる」と言ったら、夫は結局それを待っていたみたいですごくうれしそうでした。
当山 やっぱり、別居生活が2カ月、3カ月と続くと精神的に追い詰められていくんですよね。これまで家族で暮らしていた家にポツンと一人。仕事して家に帰っても料理作って待っててくれる人もいないし、子どもの賑やかな声もない。友だちはみんな福島で普通に生活し始めたので、「どうしてうちだけこんな生活しなきゃいけないの。寂しいよ」と夫からは言われました。
藍田 私も一度は福島に戻ったんです。でも、五月下旬に娘が鼻血を出して、それで心配になって、夫に「鼻血出したんだよ、おかしいよ」と言ったら、「医者に行けばいいだろ」って真剣に聞いてくれなかった。外に出たら被ばくしちゃうのにって、涙がボロボロ出てきて……。それで、翌日、また娘と一緒に逃げてきました。夫には、ひじきの煮物作って置いてきたまま……。
立花遥香 私は、被ばくが心配だったから、夫に「仕事やめて」と言いました。「(福島では)子どもも絶対に産まない。耐えられない。安心して子どもを育てられるところに移ったほうがいいんじゃない」って。
立花光男 妻と私は、お互い二男・二女で、アパート暮らしだったから、身軽だったというのはあります。ただ、できれば避難はしたくなかった。地元に愛着や想い出がたくさんありますから。でも、福島でいろいろと気にしながら生活するよりは、違う土地で健康な生活を送れればいいのかな、と。
当山 放射能って見えないからわからないんですよね。夫からは「自分が生まれ育った町が汚れているとは思えない。俺は残りたい」と言われました。でも、客観的に福島を見ると、私にはもう無理なんです。生活していい場所だとは全然思えない。福島のアパートの部屋は、空気清浄機をつけてやっと0.2マイクロシーベルトまで下がるんですよ。夫には「健康が保証されないところに子どもを連れて帰れない」という話をして「仕事も見つけておいたから、こっちへおいでよ。私も働くから」って言ったんですが、彼の踏ん切りがつかなかった。それで夫から「もう耐えられない」と離婚を切り出してきました。

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by k_nikoniko | 2015-06-25 07:46 | 掲載記事(2011~)

イタリア国民投票後の脱原発の課題(週刊金曜日)

フクシマの事故が脱原発へ イタリア国民投票後の課題

フィレンツェ大学物理学部のアンジェロ・バラッカ教授は、一九七〇年末から一貫して反原発運動をつづけている。
「国民選挙(二〇一一年六月)で廃炉が決まったのは、フクシマの影響が大きい。次は私たちが、日本に協力する番です。国際的な連帯を強め、世界の脱原発を実現しなくてはなりません」
あまり知られていないが、イタリアは、一九六四~六五年に三基の原子炉が稼動させており、アメリカ、イギリスに次いで世界三番目の原発先進国だった。その後、原発建設は一時停滞し、第一次石油ショックで計画が再開する。
この頃から、イタリアでは科学者や一般市民の原子力への不信感が高まっていった。バラッカ教授もまた、イタリアの脈略のない原発政策に疑問を抱き、原子力に関する研究に傾倒していく。
一九七七年、イタリア政府は、原子炉二〇基を建設する大プロジェクトを提案。この計画に、大規模な反対運動を巻き起こり、国内各地で抗議デモが繰り広げられた。
「イタリアの原発政策はつねにビジネス優先で、国民の利益は二の次」 バラッカ教授もこれを機に、反原発運動に深く関りはじめた。
チェルノブイリ事故の翌年(一九八七年)の国民投票でイタリアは「全原発の停止」の決断を下す。それ以降、原子力問題が取りざたされない時代がしばらくつづいたが、二〇〇八年、ベルルスコーニ政権が原発再稼動に動き出した。
バラッカ教授は、「原発問題に鈍感になり、反原発運動が存在しない」イタリアの状況を危惧し、『L’Italia Torna al Nucleare?』(イタリアは原子力に戻るのか?)を出版するなど、活動を開始。二〇一〇年に原発再稼働の是非を問う国民投票の実施が決定してからは、公開討論や講演会などを活発に繰り広げた。
政府はマスコミを利用し、国民投票阻止のプロパガンダを展開していた。そんな中での「草の根」の運動だった。
街頭活動などもないわけではなかったが、全国規模での抗議デモにはいたらず、焦りも感じたという。七〇~八〇年代の反原発運動の勢いを目にしているバラッカ教授によれば、今回のイタリア人の態度は、実に冷めたものだったそうだ。
「フクシマの事故がなければ……」とバラッカ教授は漏らす。
実際、福島第一原発の事故が決定打となった。三月十一日以降、世論が脱原発へと大きく傾いた。ただ、バラッカ教授は、「すさまじい事故を見て、拒絶反応を示しただけ」と分析する。現に、イタリアでは、国民投票で決着がついたかのごとく、原発への関心が急速に薄れている。経済危機をはじめ、国内には優先されるべき問題が山積みだからだ。
「国内での原発建設は違法ですが、イタリアは間接的に原発稼動に関与しています。イタリアの電力会社ENELは、スロバキア、スペイン、ブルガリアの原発運営企業の株主です。国営であれば国民投票に従う義務がありますが、民間企業には何も言えません」
イタリアでもまだ闘いは終わっていない。国を超えた脱原発に向けて、何をすべきか。
「政策を変えていく挑戦はできます。そのひとつが、再生可能エネルギーに有利な法律の整備です。やるしかないですね。まだまだがんばっています」

Angelo Baracca
ミラノ大学物理学部卒業後、フィレンツェ大学で博士号を取得。1968年よりフィレンツェ大学で統計力学や高エネルギー物理学などを教える。2009年の退職後も同大学で教鞭をとりつづけるかたわら、執筆や講演会、キューバの大学との協働研究など、国内外で活躍中。

『週刊金曜日』(2012年1月13日)「『金曜日』に逢いましょう」に掲載


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by k_nikoniko | 2015-06-23 13:59 | 掲載記事(2011~)

産科・小児科の過酷労働の解決策は?(月刊自治研)

閉鎖や医師不足に悩む
産科・小児科から見た地域医療

過酷労働による負のスパイラルを断ち切る解決策とは?

周産期医療と小児救急の現場から

産科・小児科の閉鎖や医師不足がいわれて久しい。しかし、実のところ、産科・小児科を希望する医学生や研修医が減っているわけではない。それどころか、女性が医学生の半分を占める昨今、この分野に興味を持つ研修医は相当数いるという。
にもかかわらず、状況が改善しないのには、過酷な勤務体制が影響している。厚生労働省は、診察報酬の改定や産科医療補償制度などの施策を打ち出したが、産科医・小児科医の減少に歯止めはかかっていない。
産科・小児科が直面している課題とは何か? 今回、名古屋市立西部医療センターを訪ね、三〇年以上にわたり小児科として、特に周産期の新生児を担当している鈴木悟副院長にお話をうかがった。
名古屋市立西部医療センターは、市立の城北病院と城西病院が統廃合し、三年前にオープンした。病床数は五〇〇床で、名古屋市北部と西部、隣接する清須市、北名古屋市、春日井市をカバーする。地域の開業医と連携を図り、病診連帯システムを構築。患者がアクセスしやすい医療機関を目指し、医師を集めた勉強会や、市民向けの公開講座も開催している。
ここは愛知県の地域周産期母子医療センターに指定されており、小児医療センター、周産期医療センターを中心に救急や高度専門医療を行う。
名古屋市には一〇〇〇床以上の病院があるなか、当医療センターは産科の年間出産数一四〇〇を誇る。産科病棟は四五床で、看護師は全員助産師の資格所有者。一〇人程度の産科医では手が回らないため、ローリスクのお産は助産師だけで対応し、二四時間いつでも出産できる体制を整える。WHO・ユニセフの「赤ちゃんにやさしい病院」の認定も受けている。
「妊娠、分娩、新生児の成長と、周産期は母子が劇的な変化をする時期であり、生命の誕生にたずさわる仕事という意味で、産科・小児科は医学生や研修医に人気があります。でも、実際に産科・小児科になかなか入ってきませんね」 鈴木副院長はそう切り出した。
現在の臨床研修システムでは、大学医学部を卒業後、二年間の初期研修で、内科、外科、小児科、産科などを回る。産科や小児科を希望していた研修医は、厳しい現場を目の当たりにし、二の足を踏むのだという。そして、三年目のシニアで自分の専攻を決めるときに、別の科を選んでしまうのだ。

当直が多くてオンオフの区別がない仕事

鈴木副院長も「他の科に比べるときつい労働」と認める産科・小児科の勤務。その実態はどうなっているのか?
当医療センターの小児科医はたとえば、次のような日課をこなしている。朝八時半ごろまでに出勤し、入院患者のチェックや採血を行い、九時から外来がはじまる。病棟の回診を昼ごろまでに終えたら食事休憩だが、とれない日もある。昼からは午後診で自分の専門外来をこなし、その間、午前中にでてきた検査結果をチェックするなどして、夕方までにその日やるべき業務をすべてやり終える。
このルーティーンワークに産科・小児科ならではの特殊性が加わる。そのひとつは「オンとオフがはっきりしていない」こと。
赤ちゃんはいつ生まれるかわからない。夕方定時まで仕事をし、帰宅しようとしたときに、早産で未熟児が生まれることもある。そうすると、そこからまた仕事がはじまり、夜中までかかりきりになってしまう。
産科・小児科が敬遠されるもうひとつの理由は、夜間勤務が多い点。「不思議なのですが、子どもは夜に熱を出します。昼間元気に遊んでいたのに、夕ご飯を全然食べないから熱を測ったら三九度あり、お母さんがびっくりして病院に駆け込む。そのパターンが多いのです」
小児救急の場合、内科や外科に比べて夜間の受診患者数が多い。内訳をみると、内科や外科の夜間外来の七~八割が入院するのにひきかえ、小児科の重症患者は二割に満たない。「熱を出しただけで、心配でやって来る。軽症なのですが、数だけは多いですね」
それにともない当然、当直の回数が増える。毎月の当直日数は、小児科医で五回ほど、産科医は月に七、八回。一方、内科は二、三回程度だ。
「病院の当直というのは、みなさんなかなか理解してもらえないのですが、寝ていて何かあったら起きるのではなく、むしろほとんど働きづくめで、患者さんが途切れたら仮眠できる、というのが現状なんですよ。夜間業務というか」
しかも、一回の当直料はどの科も同じ。「比較的ゆっくり寝ていられる科と、ずっと働きつづけなければならない科があっても、金額に差をつけられないのです。本来なら、労働力に見合った当直料が出てもいいのですが…」 こうした賃金体系もまた、医師の現場離れを引き起こす要因になっているという。
当直では、病棟業務と並行して、外来の救急患者を診る。さらに、一〇〇〇gの赤ちゃんが生まれる事態になると、それにつきっきりになり、朝まで休めない。


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by k_nikoniko | 2015-06-18 08:27 | 掲載記事(2011~)

伊那小学校 生きる力をはぐくむ総合学習

朝9時を少し回った伊那小学校。授業中のはずなのに、廊下には子どもたちの元気な声が響いている。
「子どもたちは大騒ぎしてますけど…」と本多俊夫校長は苦笑し、こう続けた。「ここでは『静かにしろ』など一切言いません」
伊那市立伊那小学校には、チャイムがなく、通信簿がなく、固定化された時間割もない。公立でありながら、30年以上も総合学習・総合活動に多くの時間を割いてきた小学校だ。
本多校長が昨年4月に赴任したときの第一印象は、「『はじめに子どもありき』を地で行っている学校。口だけでなく、本当に実践している」だった。では、この学校が大切にしている「内から育つ」とは、どういう授業なのだろう?
この日、3年夏組の子どもたちは、妊娠したブタ“さなちゃん”のエコー写真を見ていた。「子ブタさんがどこにいるか、赤ペンで丸をつけてみよう」と中村琢磨教諭。子どもたちは「耳みたいのがあった」「ブタさんっぽい形になってる~」と思い思いの言葉を発し、周囲の子と見せ合いながら、エコー写真に丸をつけていく。
さなちゃんは、夏組の子どもたちが1年生のときに飼育をはじめたブタだ。昨年9月に出産し、子どもたちは9頭の子ブタを育てたが、話し合いの末、今年5月に子ブタを出荷。その後、さなちゃんにもう一度子ブタを産んでもらおうということになった。文字通り、生命の誕生から、動物を育てる大変さ、自分たちが普段食べている物まで、総合的に学んでいく。出荷の前には、子どもたち同士で何度も議論を重ね、地元の養豚場の方の話を聞いた。
「子どもたち自身が問題を解決していけるように授業を進めますが、反省することもあります」と中村教諭。「自分の中で『出荷の理由』を決めつけてしまい、そこにつなげようとしたんです。でも、子どもたちが思ってもないことを学習させようとしても、生き生きとかかわってこないんですよね。最終的に子どもたちが『出荷の理由はいろいろあっていいんだよ』と言いだし、『あ、そうか』と逆に教えられました」
中村教諭は新任教師として、4年前に伊那小にやってきた。授業の組み立ては先輩の教員に相談したり、教えてもらったりする。「授業は大変ですが、子どもたちと一緒に私も学び、それがすごく楽しいからがんばることができる、という気がしますね。私自身は小学校の思い出がほとんどないんですが、ここの子どもたちは、1年や2年のときの話してくれます。それだけ充実した学校生活が送れているんでしょうね」

風力発電所を見学、風車づくりは専門家のアドバイス

6年勇組は、風力発電に挑戦していた。授業を行う場所は、教室ではなく、渡り廊下。教室で机に向かい、静かに授業を受けるイメージとはまったくかけはなれた風景がそこにあった。「学ぶ材料は外に山積みされているから、雨が降っていないときは屋外に出なさい」。これがこの学校のモットーでもある。
渡り廊下の“アトリエ”では、子どもたちが4~5人のグループに分かれ、それぞれ形も大きさも違う風車作りに取り組んでいた。
糸のこぎりで羽の部分を切ったり、設計図とにらめっこしたり、隣のグループの様子をうかがったり。とにかく、子どもたちは動き回り、しゃべりつづけている。小学校6年生といえどもあなどるなかれ。専門用語が飛び交い、風車を見つめるまなざしはプロっぽい。
「ベアリングや風受けの面積がどうとか、そういう話が通じる小学生はいない、と言われました」と星野忠祐教諭は笑う。
このクラスは4年の5月にかざぐるまを作り、9月ごろから「風車」をめざしはじめた。伊那市近辺には風力発電所がない。そこで、臨海学習で渥美半島の風力発電所を見学。修学旅行では三菱重工横浜製作所を訪ねた。伊那小の修学旅行の2日目は、それぞれが総合学習に結びつく見学場所に行くのが恒例。子どもたちは自分たちの風車を持参し、専門家のアドバイスを受けた。
「全部で8チームあるけど、競争はしてません。競争目的でやるとあれなんで……。ゴールはイルミネーションとおでん!」と男子児童。
星野教諭は「3.11が起こり、原発事故がニュースになり、風力発電が注目を浴びてきました。子どもたちも、『すごいことやってる』という気持ちが自然に出てきましたね」
電圧を測っていた子どもたちは、「針が動かない」と困り顔。「理科の教科書に載ってただろう」と星野教諭に言われ、ひとりがものすごい勢いで走って教科書を取りにいった。
「教科学習も意識します。文科省が定めた学習内容に取り組まず、卒業させるわけにはいかないので。でも、総合学習の発展として扱うことにより、子どもの意識も違ってくる。今は算数の『拡大・縮小』を取り入れて、子どもたちは風車の1/5や1/10の縮図を描いてます」

禁止された網漁、漁業協同組合と交渉、許可をとる

このように、伊那小学校では30年以上もの間、牛や羊、ニワトリといった動物の飼育から、森や川などの自然とかかわる学習、クッキー作り、織物や焼き物まで、多様な総合学習を行ってきた。
たとえば、市内を流れる天竜川に親しんでいる子どもたちは、「魚をとりたい」と活動を開始。郷土資料館で「四つ手網」という方法を発見するが、天竜川では網漁が禁止されている。教師の心配をよそに、子どもたち自ら「天竜川漁業協同組合にお願いしよう」と提案し、交渉して許可をもらう。
また、平均寿命を越す学校の桜を守るために、桜守の活動をはじめた学年もあった。桜の病気をインターネットや本で調べ、桜で有名な高遠町の桜守の方に相談し、治療をはじめ、健康状態を観察した。桜の木に釘が打たれているのを知り、「痛いと思う」と釘を抜く作業もつづけた。こうした専門性の高い活動が評価され、伊那市長谷の美和ダムの「美和ダム桜守」として、ダムを管理する国土交通省からも任命された。
しかし、伊那小学校を卒業すると、中学では教科学習が待っている。子どもたちに戸惑いはないのだろうか?
卒業生へのアンケート調査では、「進学には直接役立たなかったが、やりとげる力は身についたと思う」「大学のときは小学校時代の知識に偏りがあるかな、と振り返ることもあったが、社会人になり、課題解決する能力がついているのは総合学習のおかげだと感じている」といった感想が述べられている。また伊那小の教師たちは、30年以上にわたって総合学習を続けてこられた理由は、授業を通した地域とのつながり、そこから生まれる地元の人々の理解や評価があったからだと話す。
福田弘彦教頭は次のように語った。
「保護者から心配の声がないわけではないのですが、本校では困難に遭遇したときにどうするかなど、人として生きていくうえで大切なものを学んでほしいと思っています。進学や転校をしても、ここで学んだことを生かすことができる。なぜなら子どもたちは『生きる力』を身につけているからです」
風車づくりの手を休めずに、子どもは答えた。「忙しいです。でも、学校は楽しいです!」

『ビッグイシュー日本版』(2012年10月15日)掲載


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by k_nikoniko | 2015-06-12 08:23 | 掲載記事(2011~)