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カテゴリ:掲載記事(2011~)( 84 )

夕張の過酷すぎる現実(週刊女性)

「先に明かりが見えないトンネルにいるようなものですよ。自分が生きているうちに再建できるのか、と思うときもありますね」
夕張市で地方紙『夕張タイムス』を発行する森剛史編集長は、ため息交じりにそう語る。
2007年、北海道夕張市は総務大臣の同意を得て財政再生団体となった。自治体が財政破綻! 日本中に激震が走った。
北海道のほぼ中央、札幌市や新千歳空港から約60キロ圏内に位置する夕張市は、明治時代に炭鉱が操業開始して以来、日本の主要な産炭地として繁栄してきた。しかし、国のエネルギー転換で1965年ごろから炭鉱は次々と閉山。経済不振に陥った夕張市は、「炭鉱から観光へ」をキャッチフレーズに、観光振興に力を入れはじめる。
「観光で財政を立て直そうという、志はよかったのかもしれませんが、結果がついてこなかった。夕張市の観光開発は突拍子もないものではなく、九州の筑豊でも同じように遊園地を造り、同じように失敗しています」と地方自治総合研究所の菅原敏夫さんは言う。
夕張市が出資した第3セクターは、1983年にテーマパーク「石炭の歴史村」をオープンさせた。その後、ホテルの開業など、湯水のごとく資金をつぎ込み事業を拡大。観光客は一気に増加し、石炭村の観光売り上げは20億円を超えたときもあった。松下興産を誘致し、スキー場のリゾート開発に乗り出した。こうした華々しい観光事業で、夕張市は「活力あるまちづくり優良地方公共団体」として評価された。
しかし、内情は累積赤字を抱え、厳しい状況だった。観光への投資、人口減少による市税や地方交付税の大幅減少、不適切な会計処理などが原因で膨大な赤字となり、ついに破産した。
夕張市が最終的に解消すべき赤字は353億円だ。
「北海道が約360億円を年利5%で融資し、夕張市は金融機関に借入金を返済しました。現在は、北海道に借金を返済しています」(菅原さん、以下同)
財政再建計画の終了予定は2027年3月。それまでに返済すべき借金は約288億円で、市民一人あたりに換算すると、295万円以上になる。
「破綻以降、夕張市の住民は”日本で一番高い税金、一番低いサービス”を強制されています」
住民税は3000円から4000円に、軽自動車税は1.5倍に引き上げられた。下水道料金は10立方メートル当たり1470円が2440円に値上がりし、ゴミを出すにも、処理手数料が新設され、1リットル当たり2円かかる。
家計の負担が増えたばかりではない。
「市役所の近くにも、トイレットペーパーやティッシュを買える店はないですよ。15軒ほどあった食堂も、いまでは2~3軒しか営業していません」と言うのは前出・森さん。
65歳以上の高齢化率は46.5%だが、歩いて行ける範囲に商店はほとんどない。
「隣町の温泉施設が無料送迎バスを出していて、温泉の帰りに大型スーパーに寄るので、お年寄りはそれを利用していますね」
病院や消防職員を含む市の職員は399人から144人に削減。市職員の給料も日本最低だ。優秀な人材が流出し、公共サービスの劣化も著しい。市立総合病院は診療所に格下げされ、171あった病床は19に減少。民間の医療機関は4軒あるが、婦人科が存在するのは夕張市立診療センターのみで、週1回の婦人科検診だけ行っている。救急体制も万全とはいえない。再建団体になった直後は救急患者を市内で受け入れず、近隣の市や、往復3時間もかけて札幌市へ搬送していた。現在は、一次救急のみ市内医療機関が交代で対応している。
教育機関への影響も大きい。市内7校あった小学校と4校あった中学校をそれぞれ1校に統合。通学にはスクールバスと路線バスを使い、なかには長時間かけて学校に通う児童・生徒もいる。夕張市の15歳未満の人口比率は6.2%でしかない。図書館と美術館は廃止となり、4か所あった屋外プールも閉鎖した。
「運営されていた屋内プールは、雪の重みで屋根が壊れ、修理できないままです」
菅原さんはその事情をこう解説する。
「財政再建団体は”箸の上げ下げまで”といえるほど、どんな些細なことでも総務省におうかがいをかけ、許可を得なければなりません。修繕費などは予算に組まれていませんから……」
長年〝文化の殿堂〟として市民に愛されてきた、夕張市民会館(現・アディーレ会館ゆうばり)は、耐震補強工事が認められず、来年3月いっぱいで閉館が決まった。25回目を迎える『ゆうばりファンタスティック国際映画祭』のメイン会場でもある。
「生活には楽しみも必要なのに、文化や娯楽がまず削られる。夕張市はその昔〝勤労文化都市〟を宣言し、市民の芸術への関心が高いんですよ。希望を失い、転居する人もいますね」
森さんは口惜しさをにじませる。
一時は10万人以上を数えた人口は、9700人強に減少した(2014年3月現在)。破たん後の7年間の人口減少率は約26%だ。
「引っ越しできる人は恵まれていて、年金生活者や地元でほそぼそと仕事をしている人が、残ってがまんせざるをえない。借金は市民の税金から返済されます。自治体が破綻すれば、ツケは全て住民にまわってくるわけです」
日本中に炭鉱はあり、どこの自治体も苦しんではいるが、破綻にいたっていない。夕張市の破たんの背景は何だったのか。
「夕張だけが野放図な財政だったとの批判には賛成しがたいですね。夕張で石炭を掘っていた北炭夕張が撤退するときに、自社が所有していた病院や住宅などすべて夕張市に押しつけ買い取らせて、逃げてしまったのです。リゾート開発を手がけた松下興産も、ホテルを夕張市に買い取らせて撤退しました。儲かっているときには一枚加わり、景気が悪くなると無責任に逃げるのは、大企業にはあるまじき行為です」(菅原さん、以下同)
自治体は破算できない。そう制度で決められている。「石にかじりついても、自治体は借金を返済しなければならないのです」
アメリカのデトロイト市が破綻したときには、金融機関が約7割の債務放棄に応じたが、夕張市は借り入れしていた10を超える金融機関に利息ともども一括返済した。金融機関は貸し手責任を問われず、一銭も損をすることなく、資金を回収したのである。
「第3セクターを設立したのは自治体ですが、会社に貸した資金に対して一切の責任をとらず、全額返済してもらえるのですから、金融機関にとってこれほどおいしい話はないですよ。金融機関を助けたうえで、住民だけに理不尽な負担がのしかかる。ここまで過酷か、というほどに」
借金を抱えている限り、合併もしてもらえない。住民は人質のようなもの。みな出ていったら、自治体が成り立たなくなってしまう。
「夕張市は日本で唯一の財政再建団体であり、破綻したらこうなるぞという〝見せしめ〟でもあります」
〝見せしめ〟は功を奏し、夕張市以降、財政再建団体になった自治体はいまのところない。というのも、夕張市破たんは、再建法も大きく見直す契機にもなったのだ。
「夕張が破たんにより、総務省は大急ぎで新しい法律を検討し、2008年に財政健全法を施行しました。4つの指標で赤字だけでなく借金もあぶり出すようにしたのです。自治体にとって非常に大きな変化です」
先ごろ政府が打ち出した『地方創生』において、夕張市は『まち・ひと・しごと創生』施策のモデルケースになるとの声も聞こえる。
10月15日に財政制度等審議会の分科会で行った、夕張市の鈴木道直市長のプレゼンでは、夕張市が進めているコンパクトシティについて説明があった。住居や病院、学校などの機能の集約化を図る施策だ。
「鈴木市長は元東京都の職員で、若くて熱意もあるのですが」と一定の評価をしたうえで、菅原さんはつぎのような苦言を呈した。
「小学校一つにすることが、コンパクトシティでしょうか? カタカナにすると新しいコンセプトのようでも、”中心地に集まりなさい。それ以外の地域は不便にするぞ”と言っているのと同じです。お年寄りを住み慣れた場所から移住させる権限が誰にあるのか。各地でコンパクトシティが検討されていますが、多くはこの言い換えでしかありません」
無謀なバラマキは夕張市の二の舞になる。『地方創生』を絵に描いた餅にしないために、何をすべきか。
「『自治体は冒険したり、つぶれたりしてはいけない』という教訓は、夕張市から得られましたよね」
自治体が破綻すれば、住民はとてつもない犠牲を強いられる。それだけは肝に銘じておきたい。

『週刊女性』2014年12月2日号


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by k_nikoniko | 2015-07-21 08:05 | 掲載記事(2011~)

精神障がい者を地域で支えるために(月刊自治研)

精神障がい者を地域で支えるために 質の高い訪問看護システムの構築を
治療とリハビリを提供する訪問看護ステーション

うつ病や認知症などの精神疾患で医療機関にかかっている患者数は年々増加し、二〇〇八年の厚生労働省の調査では、三二三万人にのぼる。精神疾患にはいまだ差別偏見があり、受診しないケースも相当数いると考えられ、実際の患者数はもっと多いと推測できる。
二〇一一年には精神疾患が国民に広くかかわる疾患として、がん、脳卒中、心臓病、糖尿病の「四大疾病」に加わり、「五大疾病」となった。
精神疾患患者が増えている一方、日本の精神科医療体制は不十分で、多くの問題が存在している。
そのひとつが、長期入院の実態だ。日本の平均在日数は約三〇〇日で、一年以上入院している精神障がい者は約二〇万人。他の先進国に比べて群を抜き、「地域で支援」に向かう諸外国の流れに逆行している。
日本の精神科医療の歴史は、一九〇〇年(明治三三年)の私宅監置を中心にした立法制定にはじまり、「精神障がい者は収容する」のが主流だった。戦後、欧米の精神衛生の導入や人権尊重の観点から、精神障がい者のための法律は改正されるが、一九六〇年代に精神科の病床を増やす政策をとり、「入院ありき」の傾向はつづいている。
精神科医療が改善されないのには、入院費の診療報酬が一般病院よりも安く、精神科特例で精神病床の人員配置基準が一般病床より低く設定されているからでもある。少ない人数で精神状態の悪い患者を看るのであれば、隔離拘束は避けられない。
劣悪な精神科医療への批判は高まり、医療費削減に待ったなしの状況も相まって、近年、国は精神障がい者を地域へ戻す方策へと転換した。地域移行に向けた具体的方策を議論してきた厚労省の検討会は、二〇一四年五月二九日に、全国に約三四万床ある精神科病床を大幅に削減する方針を打ち出した。現在入院中の約三二万人の精神疾患患者を地域に帰す計画だ。
しかし、地域の受け皿づくりはまったく追いついておらず、精神障がい者が住み慣れた地域で医療支援を受ける体制を整えるには、数々の難題をクリアしていかなければならない。

精神障がい者を住み慣れた地域で支援

この四月、株式会社八豊会を起業し、訪問看護ステーション「タウンサークル」を立ち上げた八杉基史さんはこう言う。
「日本の医療体系では、健康保険の多くが入院や外来という病院医療に回され、訪問看護や往診・訪問診療などの地域医療の予算は非常に少ない。精神障がい者を地域に帰すのであれば、入院中と変わらない資源を地域医療に投入しなければ……」
作業療法士の八杉さんがこの会社を設立したきっかけは、岡山県唯一の公的精神科病院、岡山県精神科医療センターに勤務していたときに、「退院した患者が、地域で適切な支援を受けているのか」と疑問を持ったからだという。
作業療法士とは、作業を通し、障がい者の残された能力を引き出していくのが仕事。入院中であれば、作業療法士、看護師、ケースワーカー、臨床心理士らがそれぞれの特性を生かしながら、患者の良さを引き出すリハビリができる。しかし、地域に帰った後にこうしたリハビリは継続できない。病院がフォローアップするといっても、患者の生活を全部把握するのは難しい。
「退院後に備えて、食事や掃除、日中の活動などをある程度練習しますが、実際に行われているのだろうか、と。入院中の作業療法が、地域ではたして役に立っているのか。それを検証したかったんです」
医療センターではデイケアを担当し、患者が「どのような日常生活を送り、地域でどのような人間関係を作っているのか」を知るために在宅訪問をしていた。
病院の周辺に約三〇〇人の患者たちがアパートを借りて住んでいる。患者の話を聞いて、「以前暮らしていたところは病院から遠く、通院が大変で交通費がかかる」「田舎に帰っても、いざ対応してくれる人がいない」といった理由から、病院の近くに住みついたというのがわかった。病院側にも、再発防止のためには近くにいてほしいという事情がある。
「はたしてそれでいいのか、と正直思いまして。その人が住んでいた地域に帰るのが普通じゃないかな、と。退院後に患者のところに医療を持っていくことができたら、そこに住めるのではないか。そういう気持ちが強くなったんです」
しかし、精神科訪問作業療法という診療報酬はなく、地域に帰った人に作業療法をする手段はない。可能なのは、訪問看護ステーションを設立し、看護師とともに作業療法士が訪問する方法だった。


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by k_nikoniko | 2015-07-20 07:55 | 掲載記事(2011~)

朝鮮学校サッカー部の監督に(『希望』)

「生徒はヤンチャでしたけど、なついてくれました」 藤代隆介 北海道 37歳

--サッカーの選手と指導者を育成する石川県金沢市の専門学校・ルネス学園で北海道出身の在日朝鮮人チョウ・ホリョルさんに出会った。彼の誘いで1997年12月、縁もゆかりもない北海道へ。そして札幌の北海道朝鮮学校サッカー部の外部コーチに就任した。

小学校1年生からサッカーをやってました。推薦で帝京高校に入って。部員が1年生だけで130人って言ってたかな。それが結局、20何人までに絞られるんです、夏が終わるまでに。サッカーマシーンが集まるようなとこです。
怪我して挫折しましたけどね、高校3年の春。チームはその後、全国制覇するのですが。左足のひざの外側靭帯切って、右のアキレス腱の炎症を起こし、まともに歩けない状態が3ヶ月続いて。「もうサッカーやめたほうがいいよ。人生長いんだから」と主治医に言われて、もう「がーん」。
大学はサッカー推薦で入れると思ってたんです。プロになることを諦めてなかったし。そんなレベルじゃないんですけど、サッカーしかなかったから。
それが、ガラガラガラって崩れちゃった。それから必死で勉強しても…。サッカーやるために、大学にもう一度チャレンジしようと、予備校通いました。親には迷惑をかけたくなくて、住み込みの新聞配達しながら。
浪人中、サッカー以外の道も探ってはみたんですけど、何か想像するだけでも怖くて。普通に働いて、普通にサラリーマンやって、楽しいのかなって。
だんだん足が元通りになって、「もう一回チャレンジ!」と思ったときに、「うちでサッカーやらないか」と声がかかったんです。サッカーをもう一度やれる喜びがすごくあって。人生のすべてが(サッカーに)詰まってますから。
それで、金沢の学校(専門学校・ルネス学園)に入り、チョウに会いました。「オレは在日だ」って。人間的に素敵な人でしたね、はじめて同級生で尊敬できるような。いろんなイデオロギーの話をしてくれたり。
だいたい日本の高校生や大学生は、喫茶店行ったら、テレビ番組やお笑いがどうのこうのって話をするじゃないですか。僕もその類だったしね。
でも、そいつは政治の話しとかしましたね。衝撃的でしたよ。「オレは違う、こう思うよ」というタイプだったので、それがすごく新鮮で。「在日朝鮮人って何なんだ。面白いなぁ」って。
卒業するときに、チョウが「オレは北海道に帰ってサッカーの仕事をする。それぞれ違う道に行くけど、最終的におまえを呼ぶから。それまで勉強していてくれ」って。で、「わかった」って、別れたんですね。
金沢でコーチとして1年半、広島県で監督を1年半やって、こっちに来たんです。3年契約で。その後の仕事先は決まってて、3年で辞めるつもりでした。それが、ハッと気づいたら13年(笑)。

--小学校のときに住んでいた埼玉で、地元の朝鮮学校初級部のチームと対戦し、そのときはじめて、「日本にいる朝鮮人なんだよ、国技がサッカーで」という話を聞いた。

うちもけっこう強かったし、「簡単に負けないよ」って。真夏のすごい暑いときに試合したんですけど、(相手は)強烈に強かったんですよ。すげぇ走るし、体の作りから違う。「なんだこれ~」って。
帝京高校のすぐ隣に東京朝鮮があり、1年生のときから、週1回ぐらい東京朝鮮の3年生と試合してたんですね。ものすごくうまいし、「東京にこんなに強いチームあったんだ」って。
「ここに勝たなくちゃ全国に出れない。厳しいな」と思ってたんですけど、関東大会とか、インターハイ予選とかに、全然出てこないんですよ。「地区大会で負けるのはちょっとおかしい」と。聞いてみたら、出られないんだって。そのときはすごい理不尽に感じたんですよね。
試合は普通にしてましたが、交流は一切ないですね。目を合わせるな、とか。相手はハングルですし、こっちはこっちでプライドあるから。
今は東京朝鮮の同期とはすごい仲がいいですけど。ここ(北海道朝鮮学校)で働らかなかったら、彼らとは会わなかったと思います。向こうも指導者やってますから、「あれ!」って。向こうも覚えてて、「出てたよな?」と。
偏見はありました。報道がすでにそうでしたからね。北朝鮮バッシングとかね。100%報道は正しいと思ってましたから。うちの親もそうでしたし。
韓国に対しても、そんなにいい印象はなかったですね。特に何がどうっていうのはないんですけど。
(札幌に行くとき、)一番反対したのは母親でした。「なんで今のサッカーの仕事ではダメなの?」って。負のイメージしかなかったから。
でも、最終的に一番応援してくれたのは母親でした。父親が亡くなって、(母親を)北海道に連れてきたんです。在日の人がよくうちに来てくれたりして、母はすごい勉強して。本当に一番の理解者でした。三年間ぐらい一緒に暮らしたのですが、亡くなりました。
家族の支えは大きいですね。理解がないとやっていけないです。サッカーの指導者自体、家族の理解がないと100%できませんから。

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by k_nikoniko | 2015-07-18 07:45 | 掲載記事(2011~)

原子力の誕生は民主主義の概念と両立していない

ブルーノ・シャレロン(原子力物理技術者、クリラッドの研究部門長)(注1)

6月22日、東京の日仏会館で、シンポジウム「3.11後の原子力社会における政治・知・民主主義」が開催された。最後のラウンドテーブル「原子力と民主主義は両立しうるのか?」では、日仏のパネリストがそれぞれの立場から意見を述べた。放射能汚染を明るみにし、防護策の改善を訴えつづけている独立研究所クリラッドのシャレロン氏が、原子力大国フランスの“非民主的な”問題点を語った。

まず忘れてはいけないのが、原子力は最初、軍事目的でスタートしたという重要な点だ。アメリカ、ロシア、そしてもちろんフランスもそうだった。原子力の誕生は、民主主義の概念と両立していない。原子力の平和利用でさえ、フランスもおそらく日本も、市民が現実に批判的に分析するのは不可能だ。原子力に関する情報すべてにアクセスできるわけではないからである。情報を隠すのは、テロリストへの機密漏えいを防ぐとの理屈からだ。フランスでは2006年に「原子力に関する透明性及び安全性に関する法律(原子力安全・情報開示法)」(注2)が制定された。この法律により、放射性物質、たとえばプルトニウムの加工に関する情報を配信した市民は、罰則を受ける可能がある。平和利用も含め、実際には民主的にならないよう、多くのからくりが作られている。フランスでは、原子力の平和利用計画の決定において、民主的な手続きがとられていない。

改善すべき点をいくつか紹介したい。まず、国家機関の役割である。フランスで原子力の安全を監視する専門機関はASN(原子力安全局)(注3)だ。クリラッドは、この機関が不十分であると指摘している。理由のひとつは、ASNが国防省と産業省を含む5省庁の管理下に置かれているからだ。5省庁に依存している限り、監視するのは難しいと考える。2つ目の要因は、ANSの文書のなかに、「研究者の流動性を促進するのが望ましい」と記されている点だ。つまり、あるときはIRSN(フランス放射線防護・原子力安全研究所)(注4)の研究者、あるときは原子力の監視検察官としてANSの研究者、といった流動性を意味し、ひとりの研究者が、ときには監視する側に、ときには監視される側になるのである。
3つ目は、ASNが、商工業の特色をともなう公社である点だ。原子力推進派の権力機関に面と向かう専門家の役割、つまり市民を守る役割と同時に、EDF(フランス電力公社)やアレバといった原子力事業者側のために専門的な監査も行っている。
このように、ANSには改善すべき面が数多くある。できるだけ根本から独立性のある国家機関の設立の必要があると思う。

市民の管理という役割の重要性も無視できない。たとえば、ウラン鉱山の分野。フランスには200もの古いウラン鉱山があり、これらは現在すべて閉山している。クリラッドは地元市民団体とともに、ウラン汚染に適応した規制の改正を促した。多くの汚染問題が存在していたからだ。ウラン鉱山からの使用済み放射能物質で、学校、レストラン、農場を流れる水が汚染されていた(注5)。
フランスで状況の改善や公正な判断をするのは、国家権力の直接的な行動ではなく、クリラッドのような団体の活動だと思う。測定からはじまり、メディアを使って汚染問題を国民に訴えていく。ウラン鉱山の汚染に対し、我々はドキュメンタリー制作(注6)に加わった。その番組は2009年に国営テレビ(France 3)で放送され、フランスのウラン鉱山の問題を国民に伝えた。その数ヵ月後、政府、原子力当局はウラン鉱山の管理に関する規制を少し修正した。(注7)
放射能防護の方策をさらに向上させるのは、独立した市民団体の役割である。そうした団体は市民に奉仕し、市民の手により市民を管理する。
フランスの国や企業はここ数年、言葉づかいを変える手段を使い、原子力エネルギー分野をわかりやすく理解させようとしている。以前は「汚染(contamination)」と言っていたが、現在は「マーク・印(marquage)」と表現する。こうした言葉を通し、人々の放射能に対する恐怖を減らすことができる。
情報の透明化に関しては、実際にはさほど変わっていない。例を挙げると、地域情報委員会(注8)のケースがある。ほとんどの場合、地域情報委員会が入手する情報は、原子力事業者から与えられている。そのため、独立した管理の遂行は非常に難しい。管理するには原発施設内に入る必要があると考え、クリラッドはその許可を求めた。4ヶ所で要求したが、原子力事業者はいずれも拒否した。真に独立した専門家が分析と監査を実施するには、あらゆる面において自律性を強化しなければならない。フランスは残念ながら、原発運営会社が結果を提示するシステムになっており、いまのところ権力と向き合う監査ではなく、効果的とはいえない。

そのほか改善しなければならないのは、影響調査である。フランス、たぶん日本も同じだと思うが、原子力施設の建設時や施設からの放射能排出許可の修正時に、住民がこうむる影響を調査する。問題は、多くの場合、こうした影響調査がされる前に、施設建設が決まってしまう点にある。2つ目の問題は、原子力事業者自体がこうした影響調査を準備する点だ。国家機関の職員は、あらゆる影響について、事業者を監視する役割を果たしていない。影響調査のしくみがうまくいっているか、項目の原則が規則どおりかを単に調べるだけだ。
影響調査の分析を独立した立場で行う際、我々はしばしば数多くの限界に直面する。まず、お金がかかること。たとえば、ANDRA(フランス放射性廃棄物管理機関)(注9)では、影響調査の資料コピー代が有料だ。さらに、その資料は非常に分厚く、調べるのに通常1ヶ月かかり、最初から最後まで分析するには、数ヶ月かかる。あまりにも技術的で高度なため、市民、地方自治体、独立専門家が徹底的に分析するには、そのぐらいの平均時間がかかる。

民主主義という意味で検討すべき別のポイントは、司法の問題である。フランスの場合、原発事業者、つまり原子力産業を司法の面から制裁するのは非常に難しい。アレバがからむ多くの事例が存在する。ウラン鉱山、たとえば、リムーザンの訴訟(注10)がそのひとつだ。ウラン鉱山からの放射能排出による環境汚染が発覚し、放射能廃棄物の投棄が原因なのは明らかだったが、裁判でアレバは無罪になった。なぜなら、規制がないからだ。汚染は違反ではなく、汚染が明白でも有罪にする手段が公式化されていない。規制を改善させていかなければならない。

国際的に民主化するには、国際原子力機関IAEAと世界保健機構WHOの何十年もつづく関係を断ち切らなければならない。この2機関の専門家は依存しあっている。福島第一原発事故に関して最近調査結果を発表したが、この調査はIAEAとWHOの協働で実施された。市民の健康を最優先に考え、国際的な組織においても、独立性と透明性が求められる。国際放射能防護委員会(ICRP)についても同様だ。日本で議論になった20ミリシーベルトは、ICRPの基準を採用している。この数値を推薦したICRPのメンバーのなかにはフランス人のロシャール氏がいる。彼は、CEPN(放射線影響研究所)(注11)という名の組織の理事長だ。この団体の主なメンバーは、IRSN、CEA(原子力エネルギー庁)、EDF(フランス電力公社)、アレバである。国際放射能防護委員会のメンバーの任命方法、専門家にも、透明性と市民権をさらに高め、市民の利益を守る代表者が任命されるべきだ。公衆衛生管理の規制を改訂するには、市民のより活発な行動が必要になる。
学校での教育や、市民に向けたあらゆる教育も関係している。間違った教育をさせようとしているからだ。フランスも日本も、原子力企業は非常に強力で、広告代理店を大いに利用する。アレバの場合、数年前から「原子力はきれいで、完璧」と説明するコマーシャルを頻繁にテレビで流している。市民は、原子力の巨大グループの資本力だけでなく、メディアの威力にも立ち向かわなければならない。
最後に、最も重要なカギを握るのは、市民である。市民が積極的に学び、適確な教育を受ける。そして、放射能防護のための規制や法律の制定といったあらゆるレベルのプロセスに、市民がかかわっていく。これが、防護レベルを上げていく本質的な方法である。

(1) 1986年、チェルノブイリ事故後に創設されたNGO。放射線に関するモニタリング調査、分析、情報提供を行う独立研究所。会員は7000人。
(2) Loi n°2006-686 du 13 juin 2006 relative à la transparence et à la sécurité en matière nucléaire
(3) 2006年に「原子力安全・情報開示法」の制定をうけて設置された独立行政機関。産業省、環境省、国防省、労働省、教育研究技術省の管理下にある。その使命は、原子力の安全性および放射線防護に関する管理・監督、公衆への情報提供。原子力分野の有識者5人からなり、3人は大統領から任命され、そのうち1人が局長になる。残り2人は、下院および元老院の議長からそれぞれ任命される。任期は6年。政府資金は年間7500万ユーロ。http://www.asn.fr/
(4) 2002年、原子力に関する研究、放射線防護教育、放射線モニタリング、原子力情報の公開、原子力と放射線利用に関する技術支援、非常時支援などの目的で創設。5省(産業省、環境省、教育研究技術省、厚生省、国防省)の管理下にある。原子力の安全、放射線防護、核物質管理、医学、農学、獣医学などの専門家、技術者、研究者が約1700人雇用されている。http://www.irsn.fr/FR/Pages/Home.aspx
(5) ロワール県ボワ・ノワール鉱山のサン=プリエスト=ラ=プリューニュ、オート=ヴィエンヌ県ラ・クルジーユ、ソーヌ=エ=ロワール県グーニョン、カンタル県サン=ピエールダンなどのウラン鉱山周辺地区を調査したところ、水、土地、空気の放射能汚染が発覚。鉱山事業者による放射性廃棄物の管理の杜撰さが明るみに出た。http://www.criirad.org/actualites/dossier_09/communique.pdf
(6) 「ウラン、汚染されたフランスのスキャンダル」”Uranium, le Scandale de la France Contaminé” 
(7) 持続可能開発省: http://www.developpement-durable.gouv.fr/IMG/pdf/2009-132_circulaire_gestion_des_anciennes_mines_d_U.pdf
(8) 1981年に、原子力施設立地地域に設置された。公衆への情報周知、施設の監視、事業者と自治体および政府との情報共有をはかるのが目的。2006年にその機能が強化された。委員会のメンバーは、県議会議員、市町村議会議員、県選出の国会議員のほか、環境保護団体、経済団体、労働組合、医師や専門家の代表者など。
(9) 放射性廃棄物を管理する機関として、1979年にCEA(原子力エネルギー庁)の傘下の独立組織として設立。1991年12月の放射性廃棄物法制定時に、産業省、環境省、教育研究技術省の監督下の公営企業として改組された。
(10) 1999年、市民団体「リムーザンの水源と河川」が、「水の汚染、放射性物質の投棄、生活を危険にさらした」として、コジェマ(現アレバ)を提訴した。2006年の判決でアレバは無罪に。原告の敗訴ではあったが、ウラン鉱山の汚染を訴えた初の裁判は、フランス国内でこの問題を議論するきっかけとなった。
(11) 1976年、放射能の危険から防護するための評価を行う目的で創設された、非営利団体。http://www.cepn.asso.fr/

『アジア記者クラブ通信』2012年7月5日号


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by k_nikoniko | 2015-07-17 07:42 | 掲載記事(2011~)

学校の門をくぐったことのない人がいる(『希望』)

「学校の門をくぐったことのない人がいるんです」 工藤慶一 北海道 62歳

--父が勤める貯金局は、北海道旭川市の旧第七師団司令部跡にあった。終戦後、工藤さん一家は、その周辺に点在する旧日本軍建物で暮らしていた。中学3年生の卒業間近、「デン助」というあだ名の同級生から、「世の中を良くしてくれ」と亡くなった兄の高校の数学の参考書を手渡される。「デン助」は両親に死なれ、進学できなかった。

一番記憶に残っているのが、樺太からの引き揚げの人がどんどん来たこと。兵舎というのは二階建ての三角屋根の建物で、何十棟も並んでいるんですよね。そこに大量に入って。当然、生活はすごく貧しくて。みんな一緒の小学校なんですよ。非常に貧しかったなぁ。当時のいろんな細かい出来事は、小さい(子どもの)目で見ても、戦争という時代の刻印というのは、明らかで、非常に大きくて。骨にしみついてますよね。
大学には行きたいという気持ちがすごくありましたよ。数学をやりたかったんです。一浪して、(北大に)入って、まあそこまではまだ半分ね、うれしかったですよ。でも、あとの半分は、入学したとたんに、「あれオレ卒業できないかもしれない」って考えがあったんだよ。おそらく、デン助からの流れだと思う。その通りになっちゃったけど。
「『学びたいんだけど学べない』というのを無視して建っているのが大学」っていう形に思えたので。なんていったらいいのかなぁ、要するに、「人のためにならんぞ」という感じがしたんです、大学そのものが。
みんな、いいとこ就職するわけでしょ。官庁行ったり。当時は理工系全盛の時代だからさ。大学一年の終わりごろには、企業の分厚い冊子が届くんですよ、IBMとか、NECとか。そんな時代ですから。文系も、道庁や市役所に入ったりするわけでしょ。
それが、「デン助の思いを何とかしよう」という僕の気持ちと全く合わないんですよ、合わない。
浪人しているとき、ベトナム戦争というのが大きかったの。大なり小なり、当時の若い人たちが重い課題というか、「なんとかしなきゃ」という気持ちにみんななっているわけ。だから僕は、大学でベ平連に入ったわけですよ。
そこから、日大と東大闘争が起こってきて。無党派の人たちが、僕の一年上の先輩たちが、教養の一学年四〇クラスごとに、クラス反戦というのを作ったの。あるとき、デモで「クラス反戦」という旗をにゅーっと掲げたときにね、「これだ!」と思ったんですよ。「自分たちで作るんだ」って。
僕らが二年生になったときには、教養クラス反戦連合というのを作ったの。そのメンバーで(一九六九年四月一〇日、北大入学式の会場だった体育館を封鎖)、入学式の粉砕闘争をやったんですね。それから、北大闘争の流れができた。

--1969年6月28日、工藤さんを含む多くの学生が、教養部などの建物を封鎖し、約4ヶ月間立てこもった。11月8日、機動隊3000人が投入され、解除されたが、工藤さんは、北大本部屋上にて数名の学生とともに逮捕される。

捕まったときに、「ああ、こういう方法でもダメなんだ」とわかったんです。僕らは、「何をどう抵抗していいのか」「何をどうするのが世の中を変えることなのか」わからなくって。
本部にこもって、最終的に機動隊と衝突して、そして捕まった。それから裁判が何年かあって、そして、入るとこ入って、出てきて。
そのときに感じたことは、「何をどうやっていったらいいんだろうか」なんですね、今後ね。それを見つけ出すのに、15年以上の年月がかかりました。遠友塾を見つけるまでに、かなり苦労しましたねぇ。おいそれと見つかるものではないからね。自分が「こうだ」と本気で賭ける対象というのはね。
刑務所を出て、いろんな負い目の中で生きていかなければならないわけでしょ。僕の中にできたのはね、「あそこまでやったんだから、やるべきことを見つけときは絶対に引かないぞ」という覚悟なんですね。
しかし、「これだけではダメだ」と思ったんですよ。
刑務所を出てから、お袋の幼馴染の紹介で、稚内のガソリンスタンドに就職したんです。スタンドの現場に10何年いて、本社の販売課長を何年かして、そして、経理的な仕事をするようになって。いまだに職種としては石油製品の販売という仕事をやってる。
この仕事で得られたことは、意外に大きかったですね。いろんな人とのめぐり合い。辛いこと悲しいこと、うれしかったこと。この過程がね、僕にとってはやはり必要だったな。あのー、何ていうんだろう。動機があって、覚悟があっても、世の中を知ってないんですよ。まだまだ子どもなんですよ、精神的には。それを上司の人が見抜くわけですよ。「おまえ所長にしようと思うんだけど、まだ線が細い」とかね。でも、いろんな人事で、所長になるときがきますよね。そうすると、「スタンドの所長」という仕事が自分を創るんですね。

--工藤さんは1987年、地元新聞に掲載された「遠友塾読書会」の小さな新聞記事を見つけた。牧野金太郎氏(故人)が主催し、札幌で自主夜間中学の設立を目指していた。そして自主夜間中学「遠友塾」は1990年4月に開講した。

記事はかみさんが見つけました。かみさんはね、僕が学生運動をやっていたとき大学の図書館に勤めてたんですけど、北海道救援センター(学生運動のデモのケガ人救護や、逮捕者への差し入れ、裁判までの段取りなどをするボランティア)というところにいて。かみさんも大したものだと思いますよ。そうですね、生き方が同じほうを向いている。今、遠友塾でも、重要なスタッフですね。
刑務所出て、そして、稚内に行った頃に、どういうわけか、やけぼっくいに火がついちゃったんだよね。あのときはね、自分が女の人を好きになる力が残ってるなんて、思えなかった。なんていうのかね。「あしたのジョー」が死ぬ場面があるじゃない? やりつくして真っ白になる。わずか25歳の若造が、そういう感覚を持ったんですよ。だから、自分で不思議だった。かみさんを好きになった自分を、自分がびっくりしたの。
「遠友塾読書会」の記事を見て、「これは行こう」と思ったんです。まもなく「(1944年まで50年続いた)遠友夜学校のようなものがあればいいね」という話が出て。「これだ! これがオレのライフワークだ」と直感的に感じた。僕が長いこと探してきた、僕のやりたいことがようやく見つかった。後はもう、まっしぐらです。
動機からも言えるし、覚悟があるから。おまけに、仕事から得られた経験で、いろんな人と交わる術をある程度わかるわけだから。ちょうど良かったな。仕事を通じて得られる経験というのは貴重でねー、仕事そのものもあるし、人との付き合いからくる、いろんなことだねぇー。遠友塾の授業がはじまったちょうど40歳のときに、それがわかったね。
正直、恐ろしかったんですよ。年配の人は、若い人を見ると、瞬時に本物か偽者か判断しますから。特に辛い思いしてきた人は。
開校式に司会をやっていて、ホッとしたんですよ。100人ぐらい、いろんな世代の人が来たんだけど、通じたんですよ、気持ちが。それまで辛かったことも、やっぱり肥やしになってたんだな、僕にとっては必要なことだったんだな、とわかったんですよね。
(1989年の)秋から遠友塾の設立準備委員会を作ってます。毎月の会合を重ねていって、授業を誰がやるかを決めていった。次にお金を集めたの、賛助会員募って。目標は50万円。実際は70万円ぐらい集まったんです。
どういう授業をするかまではわかんないんですよ、やったことがないから。小学校の内容をやったって、ダメなんですよ。学校の先生もいるんだけど、受講生と気持ちが通じないでやったって、ダメなんだよ、難しいことやりすぎてさぁ。
教材の作り方もわからない。失敗しながら作っていきましたから。授業が始まったら始まったで、授業の悩みがものすごく出てきて。今から考えるとね、1期生には迷惑をかけたと思いますよ。知らないからできたんだよ。わけのわからんことやるわけですから。
「わけがわからんこと」は、私に向いているんですよ。そういうのは突破できるの。決まりきったことは、全然向いてないんですが。


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by k_nikoniko | 2015-07-14 08:00 | 掲載記事(2011~)

朝鮮人労働者の未払金一部をGHQが保管(週刊金曜日)

GHQ文書の公開により明らかになった給与の行方
朝鮮人労働者への未払い金は2億円?

戦時中に北海道・室蘭市の日本製鉄輪西製鉄所で就労させられていた朝鮮人労働者三人の遺骨が五年前、祖国へ返還された。室蘭の寺に納められていた骨箱に入っていた遺品は、空っぽの給料袋と給料明細のみ。遺族の依頼で給料を追跡したところ、意外にも米国・連合国最高司令官総司令部(GHQ)の文書からその行方は明らかになった。北海道内で働いた朝鮮人の未払金の一部は、いったんGHQが保管していたのだ。

アジア太平洋戦争時、日本政府や軍の命令で労務や軍務などに動員された朝鮮人は一〇〇万人以上にのぼる。暴力や甘言で連行されたケースが多く、劣悪な環境の中、重労働を強いられた。彼らが手にする現金収入はわずかで、大半は貯金に回され、通帳は雇用主が保持していた。
戦時中に死亡したり、受け取りを待たずに帰国した人もいたため、企業の手元には賃金や貯金、積立金、給付金などの未払金が残った。その総額は、軍人・軍属も含め約二億円と見積もられている。
これに対し日本政府は一九四六年、未払金の供託を義務づけた。以来、現金は東京法務局に、通帳はゆうちょ銀行福岡貯金事務センターに保管され、現在もそのままだ。
ただ、北海道は他府県と少し違う。未払金の一部は別の経緯をたどり、GHQが日本銀行内の連合軍預託金口座で管理したのだ。
GHQが北海道の未払金に関与したのは、北海道に炭鉱が集中し、その労働力として動員された朝鮮人が多かったという特殊な事情による。
四五年八月一五日以降、日本はGHQに間接統治された。植民地だった朝鮮にも三八度線以南に米軍政庁が置かれ、日本国内の朝鮮人の処遇もGHQの政策をあおぐ形となった。

GHQの妙案

戦後すぐ、日本国内の朝鮮人労働者は怒りを一挙に爆発させ、労働運動が全国規模で広がった。北海道のストや賃金闘争は特に激しく、四五年九月中旬から一一月ごろまで各地で頻発した。
GHQや日本政府は事態の悪化を憂慮した。というのも、石炭の生産増強は日本復興の柱だったからだ。経済科学局長のクレーマー大佐は同年一〇月二九日付の覚書で、「送金不可の措置による朝鮮人の不満が、北海道の石炭生産量の減少を引き起こした」と説明している。
このため、九月二二日付の覚書で海外への送金を禁じたGHQは、朝鮮人の「故国の家族への送金」を可能にする解決策をひねり出す。
その妙案とは、日本政府から朝鮮米軍政庁に石炭を輸送する際、朝鮮側が日本側に支払うべき石炭代金から「送金」分を差し引き、朝鮮人労働者の代わりに朝鮮に住む彼らの家族に現金を支払う方法だ。
その手順としてまず、北海道の該当企業に、朝鮮人労働者の賃金や貯金のなかから送金分を日本銀行内の連合軍預託金口座に預けさせる。そして、朝鮮で天引きされた石炭の代金を、この口座への入金額で相殺する仕組みだ。
早速、GHQは日本政府にこれを命じ、「労働者名と住所、朝鮮の家族の氏名と住所、金額を記した名簿を企業に提出させ、それをGHQ本部に毎月送る」指示も出した。
この要請を受け、北海道企業は日本銀行札幌支店への入金を開始する。四六年五月五日付覚書「北海道から帰国した朝鮮人労働者の未払金」には、入金記録が詳細に記されている。この覚書は、米軍第七四師団(札幌)から第九軍団(北海道を管轄する組織で仙台が本部)経由、第八軍団(連合軍最高司令部の下部組織で横浜が本部)に宛てたものだ。
例えば、「三井美唄炭鉱、一九四六年二月二八日に小切手一〇万一九三四円四三銭を北海道拓殖銀行札幌支店から振り出す。これは同社で就労していて帰国した朝鮮人の賃金と賞与で、名簿も添付」「赤平炭鉱、一九四五年一二月一八日に小切手三万一五〇〇円を北海道拓殖銀行札幌支店から振り出す。(以下同)」など、二〇以上の入金が確認できる。
東京の日本銀行内連合軍預託金口座へは、第七四師団のピッケル中尉が四六年三月十一日に入金した旨の文書が残っている。
一方、マクダーミド大佐は五月二七日にソウルで朝鮮軍政庁と面談し、送金の手筈を整える。
五月三一日、GHQは、朝鮮の仁川に駐屯する米軍第二四軍団司令官宛に、「夕張炭鉱の労働者の貯金および賃金分一九万一二一四円八八銭に相当する額を石炭代から差し引き、その分を労働者の家族に渡す」指令を出した。「受取人の住所、居住地の詳細を明記した日本語と朝鮮語の名簿は、現地から直接郵送される予定」ともある。連合軍預託金口座からこの額が差し引かれたのは、七月二九日付の民間財産管理局から会計監査官宛の覚書で確かにわかる。
北海道では企業からの入金が続き、七月二七日、室蘭進駐軍のアレン中佐が、日本製鉄輪西製鉄所の小切手を日本銀行札幌支店に入金した。北海道地区軍政のヒルデブランド中隊長は八月五日、第八軍司令官宛に、「室蘭の日本製鉄輪西製鉄所で雇用されて帰国した朝鮮人の所持金を含む合計一七万三七九八円四七銭の小切手が一九四六年七月二七日付で安田銀行室蘭支店から振り出された」「氏名、住所、内訳を記した名簿原本は、軍最高司令部からの指示が出るまで、当軍政部で保管」との文書を送っている。冒頭で触れた給料袋の中身も、この金額に入っているとみられる。

宙に浮いた未払い金

ところが、送金がスタートしたばかりの六月、この計画をめぐってGHQ内で意見の食い違いが生じ、七月にこの事業が頓挫してしまう。
連合軍預託金口座に預けられた未払金は、宙に浮く状態となった。この時期、つまり四六年夏ごろから、日本政府は「未払金の供託」を画策し始める。そして、同年一〇月一二日、厚生省労務局長が正式に供託の通達「朝鮮人労務者等に対する未払金その他に関する件」を出す。結果、雇用主は朝鮮人の賃金や貯金などを供託し、手続きが完了したら地方長官へ報告しなければならなくなった。
四九年に入り、韓国政府からの要求で、GHQは日本政府に未払金返還を働きかける。GHQの命で、大蔵省は未払金の調査を始めた。しかしその矢先、五〇年に朝鮮戦争が勃発。サンフランシスコ講和条約の調印でGHQは方針を転換し、未払金問題は日韓間での解決へと移行した。
連合軍預託金口座の北海道の朝鮮人労働者の未払金残高は、五一年五月一〇日で二六三万一四四八円七〇銭。この年、この口座は閉鎖となり、一二月一九日の覚書により未払金は賠償庁へ移管される。そして、五二年四月二八日の賠償庁の廃止にともない、大蔵省へと引き継がれるが、五九年九月八日付で、東京法務局に供託され、現在にいたっている。
東京法務局庶務課に問い合わせたところ、「この供託金が朝鮮人労働者の未払金であるとは認識しているが、日韓協定により請求権は放棄されており、返還の予定はない」と回答。法務省民事局商事課供託係は、「こちらでは供託金として預かっているだけ。北朝鮮とは協定もなく、今後どうするかは外交次第」と言う。
朝鮮人の未払金は、本人や家族らに何も通知されなかったばかりか、半世紀以上たったいまもなお、遺族にその存在すら明かされていない。

『週刊金曜日』2013年11月15日


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by k_nikoniko | 2015-07-11 08:43 | 掲載記事(2011~)

実録!over40オンナの後始末(週刊女性)

「母が09年、父が11年に亡くなったんですよ。短期間に2人分のお葬式やその後の手続きをしたら、死がリアルになるじゃないですか。それからいろいろ調べ始めているんです」
Kさん(47歳・主婦)は終活を開始したきっかけをそう語る。両親のお葬式を出すまでは、まったく意識になかったという。
夫はひと回り上の60歳。子どもはいない。普通に考えて、おひとりさま予備軍だ。母は66歳で他界、父は60歳のとき脳梗塞で倒れた。最期が「すごく先ではないかも」との自覚もある。
両親の葬儀は、実家の福島県で互助会に頼んだ。祖母の時代からの知り合いで、違和感はなかった。親の後始末をきょうだいで引き受けながら“いま、私がやっている役は誰がやるの?”と、はたと危機感を抱いた。
「子どもがいれば片付けてくれるのでしょうが“ホント、どうするの?”って」
妹や弟は健在だが、このご時世、先のことはわからない。その意味では、子どもがいても状況はさほど変わらないのかもしれない。
たまたまテレビで“介護難民”の番組を観て、ひとり暮らしの低所得者の後始末は行政がすると知った。福祉課の職員が火葬に立ち会い、無縁仏に葬られるのを目にし「これしかないの?」と茫然……。
「番組で見たようになりたくないと強く感じました。何も考えないで死を迎えたら、自分がいいと思わない、よりイヤなほうの終末になってしまいそう。楽しく自分らしくできるなら絶対そっちにしたい。いま始めれば可能かもしれないので」
だが、書類の提出や葬式、納骨などを誰に頼むかといった、最も気がかりな〝おひとりさまの終活情報〟がなかなか見つからない。ネットで探すにも、キーワードが思い浮かばないのだ。
あちこちにアンテナを張っていたところ、冠婚葬祭のサポートをするウェルライフ主催の『これから楽交』を友だちに紹介され、5月から講座や入棺体験などに参加しだした。入棺した感想は「狭いんだな。目を開けても暗いと聞いてたけど、あーホントだ」とまだ現実味がない。参加者の意見はさまざま。自分と違う感想を聞くのがおもしろかった。
「終活は、果てるときを把握して、いまをよりよく生きる。そんな感覚なのかな」
そう語るKさんは最近、最期から逆算して、老後の費用を計算してみた。
「年金の足りない分を貯金しなければならない、と言われて。会社勤めが長かったのですが、金額を出したら“わー、大変!”って。厳しい世の中だなぁ、と」
ひと口に終活といっても介護、お葬式、お墓など、その範囲は驚くほど広い。Kさんがまず取り組もうとしているのは、お墓。結婚直後に夫から建てるつもりと聞いたが、いまだにそのままだ。
「骨が土に還って木の栄養になり、次の世代が木や花を見て“きれい”と思ってくれたらうれしいかな」と、目下のところ、樹木葬に注目しているという。

Sさん(57歳・NPO職員)は23年前、34歳のときに散骨を決めた。NPO法人『葬送の自由をすすめる会』(東京)を仕事で知り、すぐに登録したそうだ。
「もう子どもは作らないと決断したときに“私にはお墓がない、じゃあ散骨しよう”と思ったんですよね」
子どもがほしくて、33歳で「めちゃくちゃお見合いをした」。高齢出産のリスクも考慮したら、35歳までに出産するのが理想。しかし、仕事が充実していた時期で結局、結婚に踏み切ることができなかった。
「父の墓は弟が継ぐわけでしょ。家族はそういうもの、と育ってきたんです。こういう家族意識を持っているから、枠からはずれた状況にどう対応するか、いつも考えなければならない。長男に嫁いでいたら、終活は考えなかったと思います」
今までの日本人は終活など必要なかった。結婚して、子どもができて……と社会が定めるレールに沿って生きていれば、行く末が決まっていたからだ。しかし、そのシステムが崩れ、人の生き方は多様になった。
「ひとりだけ放り出されたら、すごく不安。だから“どうしよう、何かしておかなくちゃ”と思ったんです」
50代になり「その前に老後があるんだ」と気づいた。
父親が死去し、15年前に母親が脳梗塞で倒れたときにマンションを購入。母を抱え、実家の一軒家に住むのは困難だったからだ。
「当時は自分の介護や老後はまったく頭になく、マンションが終の棲家と思ったの。コミュニティーがあって、お祭りも多い下町で、楽しく生きるのが私の老後だと信じてたのね」
ところが、母親の介護を通して「ここで死ぬのは無理だ」とわかった。
「最初は私がご飯を作っておけば、母は自分で出して食べたの。でも、どんどんダメになるんですよ」
初期のうちは、配膳などの介護サービスを利用してひとりでできるかもしれない。でも、認知症は進行する。それを目の当たりにし、「マンションでひとり暮らしの老後はありえない」と考えるようになった。
「マンションを処分して、貯金を使えば、どこか施設に入ることができるかもしれない。だから自分で判断できる間に後見人を頼むとか、“こうやって片づけてね”とエンディングノートに書いておこう、と」
終活歴の長いSさんは、「その時点でいいと思っても、あとになって役立たないケースがたくさんある」と学んだ。施設に入所している母親のお葬式も、「陽気な母親だから、ワイワイにぎやかに行うつもりだったのですが、母の友人が次々と亡くなって……」と予定通りになりそうにない。Sさんは言う。
「終活は常に更新していかないと」

記者も40なかばで終活をスタートした。そのころ、30代と40代の身内が相次いでガンを告知され、〝死〟が身近だったからだ。
自分の最期が急に心配になった。そして、余命を告げられてから冷静に準備する自信はないと悟った。
「元気なうちにある程度、用意しておこう」と、NPO法人『葬送を考える市民の会』(札幌)の講習を受け、母の着物で死装束を仕立て骨壺を焼いた。
エンディングノートを埋めるには、遺体安置や火葬などの場面を想像しなければならず、かなり覚悟がいった。自分史や連絡先を書きながら、懐かしい人々を思い出し、ウルッときたり。
終活はこれまでの自分を見直す機会になり、「残りの人生を愉快に!」と気持ちを切り替えてくれる。
40代はターニングポイント。終活デビューに早すぎる年齢ではないのだ。

『週刊女性』2014年7月22日号

40代からの終活


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by k_nikoniko | 2015-07-09 07:56 | 掲載記事(2011~)

東日本大震災後の地域医療の現状(月刊自治研)

東日本大震災後の地域医療の現状将来を予測して
手探りで進める地域医療の復活

東日本大震災から三年以上が経過した。しかし、津波の被害が大きかった石巻市や気仙沼市などの沿岸部を中心に、宮城県ではいっこうに復興が進んでいない。県の資料によると、二〇一四年二月現在の全医療機関の再開割合は、旧石巻医療圏で八九.四%、旧気仙沼医療圏で七二.三%にとどまっている。
これまで目指してきた地域医療とは程遠い、まっさらな状態からのスタートを余儀なくされた宮城県。「自分たちの生活でいっぱいいっぱい」のなか、現場では、手探りで地域医療の復活を進めている。
多くの課題を抱えている一方で、宮城県は昨年度から二次医療圏を再編し、今年度は医学部新設に名乗りを上げた。この方策は地域医療の充実につながるのだろうか。
宮城県の地域医療のゆくえについて、自治労宮城県本部衛生医療評議会二〇一四年度第三回幹事会でお話をうかがった。

震災の爪痕が残るなかでの医療圏再編
統廃合で懸念される地域医療の弊害

宮城県は二〇一三年四月に、二次医療圏をこれまでの七カ所から四カ所に再編した。二次医療圏の再編は国の方針でもあるが、厚生労働省は東日本大震災の影響を考慮し、「岩手、宮城、福島の被災三県は見直しの対象外」としていた。しかし、宮城県はあえて医療圏の再編を断行した。
宮城県の二次医療圏はそれまで、仙南、仙台、大崎、栗原、登米、石巻、気仙沼の七か所だったが、仙南と仙台以外の五か所を、「大崎・栗原」「登米・石巻・気仙沼」の組み合わせで二か所に合併した。
これら新しくなった医療圏には、東日本大震災で莫大な被害を受けた沿岸部が含まれる。公共交通機関などのインフラ整備が遅れるなかでの再編だけに、各地で混乱がみられる。
「大崎・栗原」と「登米・石巻・気仙沼」では、再編後の基幹病院はそれぞれ大崎市民病院と石巻赤十字病院に位置づけられた。どちらも仙台からは高速道路で三〇分の範囲だ。しかし、医療圏の発端にある栗原市や気仙沼市から基幹病院までは、車を飛ばしても一時間以上かかる。再編が患者の利便性を後退させ、医療過疎を進行させるのではないか――関係者の不安は根強い。
「仙台に居を構える医師への配慮があったのかもしれません。とはいえ、ずいぶん乱暴な線引だ」と、仙台市立病院・労組委員長の瀬戸弘さんは憤る。二次医療圏を見直しにあたっては、「基幹病院までのアクセス時間等も考慮する」旨が国から示されたにもかかわらず、状況は明らかに矛盾している。
宮城県の主な公共交通機関は県を縦断する東北本線で、在来線はきわめて少なく、仙石線などの路線は復旧していない。
たとえば、登米市の住民が石巻市の病院に行こうとすると、通院には、自家用車か一日数本運行のバス、もしくはタクシーを利用せざるをえない。車を運転できない人もいるが、大都会とは違って交通機関が網の目のようにはりめぐらされているわけでもない。「車で三〇分」はタクシー代なら片道六〇〇〇円、往復一二〇〇〇円はかかり、それを年金から払うことになる。
地方独立行政法人宮城県立病院機構宮城県立循環器・呼吸器病センターの小野清美さん(評議会副議長)は、帰宅を気にする患者家族についてこう話す。「奥さんの心配はバスの時間だけ。入院する旦那さんの病状の説明より、自分は『帰らなくっちゃ』と。何回もバス停まで行って、時間を確認するんです」
「震災で地域医療が崩壊したにもかかわらず、医療費抑制という施策をここでも全面的に適用している」 そう批判するのは、大崎市民病院の津田志朗巳さん(評議会議長)だ。住民の生活環境や公共交通機関の状況などは軽視し、合理的にはじきだされた数字と地図だけで線を引く。「健康保険をおさめているのに、いざ使おうとしたときに、近くに病院がない。採算性議論だけでは、本当に役に立つ地域医療など不可能ではないか」と津田さん。

医学部新設に揺れる栗原市
地域医療に還元されるのかに疑問の声

再編された二次医療圏は、栗原市や登米市など県北の切り捨てともみてとれる。医療圏再編を主導したのは、県内に唯一医学部をもつ東北大学。「栗原市の医学部新設」にいたった背景には、医療圏再編への不満があるのではないか。こうした声も聞こえてくる。
医学部新設は約四〇年間抑制されてきたが、震災からの復興、超高齢化と東北地方における医師不足、原子力事故からの再生を踏まえ、東北地方に一校だけ許可されることになった。
文部科学省は二〇一三年十一月、「東北地方における医学部設置許可に関する基本方針について」を発表。同年一二月に「東北地方における復興のための医学部新設の特例措置」が閣議決定された。
宮城県知事は、復興のシンボル的な意味もあり、医学部新設にはもろ手を上げて協力していく意向を示し、県は二〇一四年四月に医学部設置推進室を設置した。
医学部設置応募は五月三〇日に締め切られ、三件の応募があった。ひとつは福島県郡山市からで、宮城県からは東北薬科大学と宮城県。
県は栗原市に県立医学部を設置する構想を提示した。「県立による医学部新設について」によると、二〇一六年四月に入学数六〇人(定員三六〇人)での開校を予定。大学附属病院は、市立栗原中央病院を中核施設として活用し、必要とされる六〇〇病床数を確保。新校舎は、市立栗原中央病院の近接地に整備するという。
栗原市は核廃棄物最終処分場施設の候補地にもあがっている。福島第一原発事故後の二〇一一年七月、栗原市や登米市の稲わらが放射能で汚染されているのが発覚。これら汚染稲わらは、市内に保管されたままだ。それに輪をかけて、栗原市の深山嶽のふもとを最終処分場施設する計画が持ち上がった。
「医学部設置には栗原市も財政負担しなければならないだろう。最終処分場施設をここに造れば、交付金を回すことができる。医療過疎地域が一転した、というモデルケースにしようとしているのでは…」との憶測も飛ぶ。
新設される医学部が地域に還元されるのであれば、大歓迎である。しかし、医学部は教育機関にすぎない。医者不足で困窮している地域に医学部を設置しても、医者をすぐ補うことはできず、何の解決にもならない。「医学部が新設されれば、医者は豊富にそろうし、患者をどんどん診てもらえる。自治体はそう勘違いしているのではないか」 現場では懸念が広がっている。
栗原中央病院は救急体制をとっているが、大崎や仙台ほど整っていない。そうした病院が大学病院になって、何を提供するのか? 栗原市で今求められているのは、紹介状なしで診てくれる病院だ。栗原市の開業医のほとんどが病床を持っていない。風邪ひいたときに気軽に開業医に診てもらえる環境こそ、高齢者は必要としている。
また、県立循環器・呼吸器病センターが廃止となれば、県内唯一の結核病棟の存続が危ぶまれる。瀬戸さんは、「結核患者が少ないから結核病棟はいらない、という話にはならない。火事が起きないから消防署はいらない、犯罪が少ないから警察はいらない、というのと同じこと。株式会社の病院が存在しないのは、対価ベースとは別の要素が病院にはあるから。そこを認識してもらわなければならない。消防や警察ではそういう議論をしないのに、矛盾している」と憤る。

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by k_nikoniko | 2015-07-07 08:05 | 掲載記事(2011~)

地域に根を張る島根県の保健所(月刊自治研)

人と人とをつなぎ合わせて
地域の健康を支える

地域に根を張る島根の保健所――保健師の数は全国トップ

地域住民の健康や公衆衛生を支える保健所は、都道府県などが設置する公的機関。近年は、市町村の保健課と混合されがちで、その業務内容は地域の人になかなかわかりにくい。
そうした現状のなか、島根県の保健所は、市町村と連携し、地域に根差した活動で知られる。島根県の保健所は、長年、七か所すべての保健所で、公衆衛生の専門医が保健所長を務め、地域特性を生かしながら脈々と活動してきた。
もうひとつの大きな特徴としては、市町村の事業である健康診断を受託し、保健所の専門職種が公民館や集会所に出向き、行政担当者と一緒に健診してきたこともあげられる。市町村の保健事業にかかわりながら、「どのような病気が多いか」「生活の状況はどうなのか」といった地域性や健康課題を把握し、市町村とともに対策を検討してきた背景がある。
今回、全国的にも注目されている益田保健所を訪問した。県庁から最も遠い圏域に存在し、益田市、津和野町、吉賀町をかかえる益田保健所は、「益田圏域健康長寿しまね推進会議」の事務局として、「第二次益田圏域健康長寿しまね推進計画」を進めている。第一次計画は、一九九九年に県が打ち出した「健康長寿しまね推進計画」を受けて、二〇〇一年度にはじまった。
これを基盤に、益田市、津和野町、吉賀町の三市町も健康増進計画を策定。市町の健康づくり会議と、公民館単位の健康づくりの会が、健康長寿日本一を目指し、「健康づくり」「生きがい活動」「要介護状態の予防」という同じ目標を掲げて活動を展開している。

途切れかけていた関係を再びつないで
――市町村と保健所、互いの活動を重ね合わせる

保健所のモデルケースとして取り上げられることが多い益田保健所だが、村下伯所長は、「保健所と市町村の関係がギクシャクした時期もありました」と苦笑いする。
保健所の活動を歴史は大きく三期に分けられるという。まず、保健所が地域に出かけて健康診断を行っていた時期。次に、一九九四年の地域保健法により市町村との関わりを模索していた過渡期。そして、「益田圏域健康長寿しまね推進協議会」の活動がはじまって以降。
市町村との関係がこじれたのは、地域保健法の制定が原因だった。「身近な保健サービスは市町村、専門的な取り組みは保健所」と仕分けされ、厚生労働省からは「市町村と都道府県の役割分担」をかなり強く指摘されたのだ。
これにより、難病や結核といった専門分野が保健所固有の事業として残り、健康診断や母子保健、三歳児健診の実施主体は市町村に移行した。これまでのように保健所の保健師が健康診断に出向く機会が減り、市町村とのつながりが遠のいてしまったのだ。
「国のほうからのこうした議論のなか、現場では保健所も市町村も、『これまで築いてきた関係を大切にしていこう』との意見がありました。役割を分担するのではなく、市町村と保健所の活動を重ね合わせ、最終的には地域の健康に責任持って取り組んでいく。そうした新しい協働関係が構築されてきています」
市町村は、子どもから高齢者まで、あらゆる年代、さまざまな職種の人が生活する地域に束ねる。一方、保健所はより広域的視野を持ち、医師会、歯科医師会、薬剤師会、栄養士会、労働基準監督署、教育委員会、JAといった関係機関と連携していく。こうした役割分担のもと、保健所は圏域全体を見つめ、各市町村の課題も提起していく。市町村のほうも、圏域の課題を承知したうえで、具体的どう取り組んだらいいのかを考える。保健所と市町村が地域の問題をしっかり把握し、地域の解決すべき課題を共有することで、効果的な対策を進めるのが理想だ。
それを実現するべく、益田圏域健康長寿しまね推進会議を母体とし、圏域内の保健、医療、福祉、教育、企業などが連携するネットワークが構築された。推進会議の構成員は、当初の二八関係機関・団体から、二〇一二年度には三八に拡大。保健所は、構成団体の会員や職員への研修や啓発など、健康を支援する環境づくりをてがける。市町のかかわり方としては、市町の健康づくり会議がこの推進協議会とともに、「食と歯」「運動とこころ」「高齢者の健康づくり」「たばこ」のワーキング部会を設置し、具体的な健康づくり計画を進めていく。
それぞれの部会は、約一〇の機関の代表者と各市町担当者で構成され、年二回の会議で、それぞれに特化した健康づくりを検討する。六月頃の会議でその年度の活動方針を決め、二月頃に結果を報告し、次年度の計画に生かしていく。また、それぞれの部会の活動内容は「まめなかね通信」に掲載し、それを配布して情報発信もする。


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by k_nikoniko | 2015-06-29 08:17 | 掲載記事(2011~)

原発震災離婚(週刊金曜日)

『週刊金曜日』(2011年10月21日)に書いた記事です。

原発事故が引き裂いた男女の絆

当山 原発事故が起きた時、最初は夫も一緒に避難してきました。でも、事故があまりにもダラダラと続くし、政府は「大丈夫だ、大丈夫だ」としか言わないし。そうしたら、夫が「一旦帰る。福島には仕事あるから」って言い出したんです。避難生活では180万円があっという間に消えてしまいましたから。それでみんなで帰ろう、って決めたんです。でも、ちょうどその時に2回目の大地震が起きて……。それで私は、やっぱりまだ様子を見たいと思い、子どもと残りました。それからは福島との二重生活。夫は「オレが福島で働いて、仕送りするから」って。

藍田 私は、地震後すぐに娘と一緒に東京へ避難しました。夫とは電話も通じなかったし、仕事の邪魔もできないと思ったから、告げずに避難したんです。東京にいる1カ月間、夫は一度も来てくれなかったし、「そこ(東京)から危ないと言われても困る」って、話しを全然聞いてくれなかった。でも、私も仕事を中途半端にしたままにしてきたこともあって福島に帰りたくなったんです。それで、4月の終わりに「避難生活やめる」と言ったら、夫は結局それを待っていたみたいですごくうれしそうでした。
当山 やっぱり、別居生活が2カ月、3カ月と続くと精神的に追い詰められていくんですよね。これまで家族で暮らしていた家にポツンと一人。仕事して家に帰っても料理作って待っててくれる人もいないし、子どもの賑やかな声もない。友だちはみんな福島で普通に生活し始めたので、「どうしてうちだけこんな生活しなきゃいけないの。寂しいよ」と夫からは言われました。
藍田 私も一度は福島に戻ったんです。でも、五月下旬に娘が鼻血を出して、それで心配になって、夫に「鼻血出したんだよ、おかしいよ」と言ったら、「医者に行けばいいだろ」って真剣に聞いてくれなかった。外に出たら被ばくしちゃうのにって、涙がボロボロ出てきて……。それで、翌日、また娘と一緒に逃げてきました。夫には、ひじきの煮物作って置いてきたまま……。
立花遥香 私は、被ばくが心配だったから、夫に「仕事やめて」と言いました。「(福島では)子どもも絶対に産まない。耐えられない。安心して子どもを育てられるところに移ったほうがいいんじゃない」って。
立花光男 妻と私は、お互い二男・二女で、アパート暮らしだったから、身軽だったというのはあります。ただ、できれば避難はしたくなかった。地元に愛着や想い出がたくさんありますから。でも、福島でいろいろと気にしながら生活するよりは、違う土地で健康な生活を送れればいいのかな、と。
当山 放射能って見えないからわからないんですよね。夫からは「自分が生まれ育った町が汚れているとは思えない。俺は残りたい」と言われました。でも、客観的に福島を見ると、私にはもう無理なんです。生活していい場所だとは全然思えない。福島のアパートの部屋は、空気清浄機をつけてやっと0.2マイクロシーベルトまで下がるんですよ。夫には「健康が保証されないところに子どもを連れて帰れない」という話をして「仕事も見つけておいたから、こっちへおいでよ。私も働くから」って言ったんですが、彼の踏ん切りがつかなかった。それで夫から「もう耐えられない」と離婚を切り出してきました。

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by k_nikoniko | 2015-06-25 07:46 | 掲載記事(2011~)