フリーライター木村嘉代子のブログです。日々感じたことを綴っています。Copyright(C)2005-2016 Kayoko Kimura
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カテゴリ:掲載記事(2011~)( 84 )

北海道5区補選の記事のお知らせ

野党統一候補が実現した衆院北海道5区補選の記事がネットにアップされました。

北海道5区補選、市民の力で野党共闘、国政で初対決――共産党公認取り下げで実現


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by k_nikoniko | 2016-03-24 09:21 | 掲載記事(2011~)

道新セクハラ疑惑書類送検の記事お知らせ

3月18日発売の『週刊金曜日』のアンテナ欄に、北海道新聞函館支社セクハラ疑惑について書きました。
被害者の1周忌の1週間前に、社員が書類送検され、ご両親がその思いを語っています。

こちらで読めます。


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by k_nikoniko | 2016-03-22 09:17 | 掲載記事(2011~)

「少女像」作家が来日講演

「少女像」を制作したアーティスト、キム夫妻の記事がこちらにアップされました。

「少女像」作家が来日講演ー日韓合意の「撤去」を批判ー

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by k_nikoniko | 2016-03-19 13:16 | 掲載記事(2011~)

「北海道5区補選で野党統一候補」記事掲載のお知らせ

本日(3月11日)発売の『週刊金曜日』に、衆院北海道5区補欠選挙について書きました。
「北海道5区補選、市民の力で野党共闘、国政で初対決」
よかったらご覧ください。
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by k_nikoniko | 2016-03-11 08:19 | 掲載記事(2011~)

「少女像」作家の記事掲載のお知らせ

現在発売中の『週刊金曜日』に、「慰安婦」少女像を制作したアーティストの記事を書きました。
昨年12月28日の日韓合意について語っています。
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by k_nikoniko | 2016-03-10 08:20 | 掲載記事(2011~)

韓国の写真家の記事掲載のお知らせ

本日(11月13日)発売の『週刊金曜日』の「『金曜日』で逢いましょう」で、韓国の写真家・ソン・スンヒョン(孫昇賢)さんを紹介しています。
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離散した朝鮮人ディアスポラを撮影しつづけているソンさん。
今年9月、北海道に残されていた朝鮮人強制労働者の遺骨115体を韓国に返還する際、10日間の全行程に同行されていました。

最終日、納骨の待ち時間にお話をうかがいました。

よかったらご覧ください。


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by k_nikoniko | 2015-11-13 23:16 | 掲載記事(2011~)

「安保法制反対の若者デモ」記事掲載のお知らせ

昨日(9月1日)発売の『ビッグイシュー日本版』の「2015年夏、ストリートデモクラシー」特集で、札幌の「戦争したくなくてふるえる」の若者たちの記事を書きました。
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「札幌には国会ないけど、ここで声を上げることが大切」「ギャルに政治的関心を持ってもらいたい」と発起人の高島愛鳥さん。

8月15日、札幌の大通公園で、このグループが「平和したくてふるえる」の集会とデモを開催し、500人が参加しました。
大通公園に遊びにきていた小学校2年生ぐらいの男の子が、デモの呼びかけに合わせて、小さな声で「戦争反対」と言っていたのが印象的でした。
街ゆく人たちの視線が、いつもより好意的だったように思います。
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by k_nikoniko | 2015-09-02 20:27 | 掲載記事(2011~)

福島の現実(週刊女性)

地産地消を奨励の福島県、弁当持参は「復興の妨げ」の声も

前出の森園さんは、いまでもガラスバッチをつけ、線量計を持ち歩き、外出時にはマスクも欠かさない。
「このところ、『自分だけが浮いている』と感じますね」と苦笑する。子どもがいなかったこともあり、夫とともに郡山にとどまった。
20代に化学物質などが原因で体調を崩し、食事療法を取り入れて健康管理に気をつかってきた森園さん。それだけに、放射能による体への負担を心配だ。
「除染がはじまったときは、すごく期待しました。実際、自宅を除染してもらったら、効果があったので」(森園さん、以下同)
屋外の空間線量は0.7μ㏜だったのが、今は0.2μ㏜ぐらいに。放射能汚染物の入ったフレコンパック4個は、庭に埋めてある。
「除染というより、移染ですよね。ホットスポットもあちこちにあるし」
たとえば、公民館横の砂利の上は、昨年10月の測定で11μ㏜。雨どいがなく、雨が直接落ちるからだと推測する。
「ここは、お母さんがバギーで通るところ。”早く除染したほうがいいのでは?”と施設の職員に言ったら、”そういわれても…”と。そんな感覚なんですよ」
行政も政治も、子どもの目線でやるべきだと思っている。
「甲状腺がんの疑いで85人の子どもが手術を受けたのに、”命にかかわらない”と平気で言ってのける大人の、なんて無神経なこと!」
口には出さずとも、母親たちの不安は消えたわけではない。その証拠のひとつに、子どもの室内遊技場はいつも満員だという。
森園さんは、「風評被害と言われることが一番のストレス」と嘆く。
「原発事故がなかったら、実害も風評被害もなかったんです。どんなにとりつくろっても、原発事故で汚染されたのは事実。それを認めたうえで、どういう政治や行政をやっていくか、どう物事をとらえて生きていくか、を考えるべきなのに」
それをいっさいやらずに、復興にひた走る福島。復興バブルで、土木建築や不動産関係は儲かり、収入格差も広がっている。
「除染が公共事業になってますよね」
除染事業を担うのは大手ゼネコンだが、実際に作業をする2次、3次の下請け。作業者の健康被害は顧みられているとはいえない。
「被ばくをないものとして、事業が進められている。それが怖いです」

帰宅困難区域の女性「帰ったら危ない」で町民に叩かれる

脱原発訴訟にたずさわる河合弘之弁護士は、事態は深刻だと指摘する。
「時間が経てばたつほど悪化している。不可逆なコミュニティ崩壊、家庭崩壊が今も進行中です」
福島での分断や対立は複雑だ。逃げ出したい若夫婦と残りたい年老いた親との亀裂。3世代で住んでいたのに、避難先の狭い仮設や借り上げ住宅で分かれて暮らすことになった家族。まとまって移動できなかったため完全に分解された地域。
「4年経ち、家を買った人はもう戻る気はない。物理的にも精神的にも、故郷の復興は難しくなっています」(河合弁護士、以下同)
仮設や借り上げに住む人と、もともとの地域の人たちとの摩擦も生じている。「昔は4時起きして、乳しぼりや畑仕事をしてきたのに、朝起きてもすることがない。毎月10万の賠償金をもらい、パチンコに行ったり、昼間から酒を飲んだり。全員ではないけれど、普通の人は弱いですからね。そうすると、”なんだあいつら”という話になる」
同じ仮設のなかでも、自主避難者は切り詰めて生活しているのに、帰還困難地域から来ている人たちは羽振りがよく見える。そんな日常的な心の行き違いがどんどん積もっていく。
「思いやり、惻隠の情というのをお互い持たないと、ますます分断が深まっていくでしょう」
だが、こうした状況が好都合な人たちもいる。
「国や電力会社は、コミュニティが崩壊してくれたほうがいいんですよ。集団での強い要求が出してこないし、対策も簡単だから」
除染などどうでもいい――、そう住民が言い出すのを待っている。それが、電力会社や政府の本音ではないか、と河合弁護士は見る。
臭いものにはふたをして復興したことにする。そして、〝はい再稼働しましょう!〟というわけだ。
「国や東電を相手に原発事故の損害賠償や刑事責任を追及すること。そして、いちばん大切なのは、再稼働差し止めの裁判を日本全国で展開することです」
近々再稼働が危ぶまれる原発は、川内(鹿児島県)、大飯(福井県)、高浜原発(福井県)。これらすべての原発の差し止め裁判を河合弁護士は担当している。
「原発を2度と稼働させない。それが究極の目標です」
郡山市は2月24日、市議会で『九州電力・川内原子力発電所の再稼働に反対する意見書の提出を求める請願』を採択した。
傍聴した前出・森園さんは、「小さな声でも、”2度とこのような原発事故を起こさない! 再稼働と原発輸出を絶対に許さない!”と言いつづけてきた」とこの4年間を振り返る。
また木幡さんも、「原発を誘致して、稼働したら、原発事故でこうなってしまう。それを世間に知らせなくちゃいけないんだよね」と言い、次のように結んだ。
「もう終わったと思ってるみたいだけど、まだ終わってないんだよ」

『週刊女性』2015年3月24日号


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by k_nikoniko | 2015-07-28 07:58 | 掲載記事(2011~)

海外で活躍する医師で人材確保と地域医療活性化(月刊自治研)

海外で活躍する医療従事者の受け皿となり 人材確保と地域医療活性化を目指す
北海道社会事業協会余市病院「地域医療国際支援センター」

地方の病院はどこも、医師や看護師の人材不足が深刻だ。北海道も例外ではない。その北海道で、「海外勤務や海外留学の経験者で医師不足を補う」画期的な試みをはじめた病院がある。北海道社会事業協会余市病院(以下、余市協会病院)だ。
地域医療に熱意を持つ医者は限られている。派遣会社からは望みどおりの医師が来るとは限らない。他の地域でがんばっている医者をいい条件で引き抜きぬくようなこともしたくない。
地方の病院に質の高い人材を集める「何か新しい道」を考えあぐねていた余市協会病院の吉田英明院長のもとに二年前、タイから帰国した森博威医師がやって来た。それがきっかけとなり、二〇一三年十一月に「地域医療国際支援センター」準備室が設置され、今年四月から本格的に始動の運びとなった。
今回は、全国的にも珍しい取り組みに挑む余市協会病院を訪ね、吉田秀明院長と森博威医師に、現在抱えている課題や今後の抱負などについてお話をうかがった。

内科医ゼロでも標準レベルの医療を

余市協会病院は、北海道社会事業協会が展開する病院のひとつ。北海道社会事業協会は、一九二二年(大正十一)七月、当時は皇太子だった昭和天皇が来道の際、社会福祉振興のために下賜された五〇〇〇円を基に発足し、初代理事長は北海道庁長官が務めた。現在、余市の他に、小樽、岩内、函館、洞爺、帯広、富良野と七つの病院をもつ。
余市町は、北海道の積丹半島のつけ根に位置する、人口は約二万人の町。この秋放送開始のNHK連続テレビ小説「マッサン」の舞台の地で、ニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝がスコットランド人妻リサと暮らした町として知られる。
余市協会病院の診療対象は、余市町、古平町、積丹町、赤井川村、岩内町の五か村町の約三万五千人。圏内ではここが唯一、本格的な入院診療に対応できる公的病院だ。一六八床のうち、人員不足でも、急性期六〇床、回復期二五床、障がい者・慢性期中心病棟六〇床を稼働している。
余市協会病院は地域の基幹病院として、標準レベル以上の医療を提供しつづける。余市町は小樽まで車で二〇分強、札幌の西部までは四〇~五〇分で、中心部までも一時間の距離。町民には小樽や札幌の病院に通う選択肢もある。「『田舎で田舎診療』をやっていたら、患者に見放される」と、吉田院長の意識は高い。
余市協会病院に危機が訪れたのは二〇〇四年の新臨床研修制度が施行された年。それまでいた十三人の常勤医師が、婦人科、眼科、脳外科の引き揚げで、五人に減り、内科医がゼロになったのだ。
「通常なら病院はつぶれるか、縮小、あるいは診療所に格下げされますが、ぎりぎり持ちこたえてきました」 吉田院長が外科医でありながら内科も兼任してしのぎ、この地域の医療を支えてきた。
余市協会病院はこの一帯の最後の砦ともいえる、救急医療機関でもある。救急は原則断らないのがモットーで、積丹半島の東半分一帯から来る救急車に対応し、年間八〇〇人以上受け入れている。
救急隊所有の携帯電話を病院で預かり、医師が直接電話を受けるホットラインシステムを導入。二四時間体制で医師が救急応対する。
「統計は取っていませんが、救急隊が傷病者に接触して、病院が決まるまでの時間が日本一短いと豪語してるんですよ。救急隊が『こういう人いますが…』と直接電話してきて、病院側が『はいどうぞ』と返事をすれば、即座に受け入れが決まりますから」と吉田院長。ただ、決して無理はせず、たとえば、生命にかかわる重度の脳卒中や心筋梗塞などの場合は、当直医が迷わないように、最初からしかるべき医療機関に送るよう決めてある。

ひとり分を数名で補う新システム

数多くの手術をこなし、内科も担う毎日は、吉田院長はじめここの医師たちにかなりの負担となっている。しかし、なかなかいい人材には恵まれない。
状況が改善されないなか、吉田院長は一〇年ほど前からある構想をもっていた。「海外留学や海外ボランティアで働いている医師で人材を補えないだろうか」というものだ。
「海外に出た同級生の医師が、『日本に戻ってきたときに安定して勤める病院がなくて困っている』と言うのを聞いていましたので…」
常勤の医師を雇いたいのはやまやまだが、地方でそれは望めない。であれば、三~四人で交代して一人分を一年間暇なく埋めるシステムを構築したらどうか。海外で活躍している医師はすでに一人前。モチベーションが高く優秀で、こちらも学ぶべきことが多いだろう、と。
この構想は、森医師の派遣赴任でいっきに現実味を帯びることになる。
タイのマヒドン大学で研究をつづける森医師は、「海外に出た医師の日本での働き場」を模索していた。
「僕自身もそうですが、海外と日本を行き来している医師は、帰国したときに働く病院なかなか見つからないんです。病院は一年間働いてくれなければ困るので…」
若くして海外に出た医師は、日本に人脈もなく、帰国後に就職難に陥るという。せっかくの海外での経験を生かす場が用意されていないのだ。
地域医療と国際支援とはあまり関係がないようだが、実は両者には類似点があるそうだ。
「海外の困っている人の役に立ちたい、と思っている医師のほとんどが、日本の地域で役に立ちたい気持ちが強い。海外でも日本でも、困っている地域で一生懸命働くという点でかなり共通しています」と森医師。
余市に来たころ、森医師はちょうど「この先」と考えていた時期でもあった。宮古島で内科医として、タイで研究者として働き、次のステップとして、「若手を育てなければ」との思いがあった。「医師や看護師が日本でスキルアップできる職場があり、そのうえで、海外に堂々と胸を張って行ける。そうした環境を作るのが、自分が貢献できる一番のことだと感じたんです」
余市町と病院を「すばらしい」と気に入ったのも、森医師がここに留まろうと決意した理由だ。人手不足で不完全な状況でありながらも、標準レベルの医療を実施している病院の姿勢に心打たれたという。
「ここで温かく迎えられ、必要とされていた観が強かったですね。役に立てることはあるんじゃないか、と思いました」
ただ、ひとりでは心もとなかったため、海外で知り合った仲間の医師三人に見学に来てもらった。訪れた医師たちの評判は上々で、「また来たい」との声を聞き、「これはいける。仲間が一緒に働いてくれれば、病院は変わっていく」と確信したという。
こうして、森医師と吉田院長の構想が合致し、森医師をセンター長に「地域医療国際センター」がスタートした。
センターの目的の柱は、「国内外の地域で働く医療事業者の支援」「研修プログラムの提供(短期~長期)」「国際支援」「教育活動」。
喫緊の事業は、内科医を補うための、海外経験のある医療事業者の受け入れだ。実際の状況はどうか。
森医師はタイで三か月研究するという契約があり、三~四か月おきにタイに一か月滞在し、残りの九か月は余市病院に勤務する。この十一月にもタイへ行くことになっており、その間、マヒドン大学で知り合った呼吸器の医師が余市で働く。
二〇一四年九月末現在、タイ国境の難民キャンプでボランティアをしている小児科医も勤務している。
先日も「国境なき医師団」の医師から連絡が入り、需要は多いとみている。ただ、三~四人で入れ代わり立ち代わり勤務するのは、言うのは簡単でも、実際に調整するのは難しい。「いろいろ苦労しています」と森医師。
とにかく、余市で軌道に乗せ、ひとつロールモデルを作るのが目標だ。そして、「こういうやり方がある」「やる気のある医師が来る」と他の地域にも広まることを期待する。マンパワーが充実して力をつけていけば、国際支援も展開できる。
一〇月には、アフリカで働く外科医が見学に来る予定だ。紛争地帯で奮闘している医師だが、ここ三年間は外科手術から離れている。「ならば、手術数が多く、腕のいい外科医がいる余市協会病院がベストだと思ったんです」
緩和ケアやプライマリーケアであれば、余市協会病院以外に紹介する病院の当てがある。いずれは、目的に合わせて病院をマッチングさせるのが理想だ。「海外に理解があり、医者不足で困っている病院と手を組み、ネットワークを作りたいですね」
余市で数人雇っても頭打ちになるのは明らかだ。他に困っている地域はたくさんあるため、北海道だけでなく、関東ではここ、九州だったら、沖縄だったら、と受け皿を増やさなくてはならない。

地域医療を担う人材育成のための研修を

地域医療国際支援センターは研修プログラムにも力を入れる。余市協会病院はもともと「地域医療研修協力病院」でもあり、平均して一か月に二人ほど研修医を受け入れてきた。
研修医に関しては、都市の研修機関病院は見学型の研修がいまだ多いといわれ、ここに来た研修医は、「はじめて医者になったと実感した」などの感想をもらすそうだ。
「研修医にもひとりで当直をさせてます。ただし、僕ともう二人の医師の住居が病院敷地内にあるため、研修医ひとりのようで、実際はつねに二~三人の上の医師が病院にいる状況にしています」と吉田院長。
「地域医療はこんなもの」と少し見下していた研修医も、できる範囲で精いっぱいの医療をやる姿を見て、九割は満足して帰るという。
全国的にも北海道の地域医療が厳しい状況にあるのは、「専門性を重視した研修システムに問題があるのではないか」と森医師は見てとる。北海道の医療は専門性に固執しすぎる傾向がある。たとえば、心臓医のところに肺炎の患者が来ても、「専門ではないので」と断るケースが少なくないという。
「どこの地方も高齢者の割合が高いので、外来で一番多いのが肺炎の患者です。まずは肺炎の診断ができないと、話にならないのですが」と吉田院長は苦笑する。「整形外科でも、手だけ、膝、もしくは指先だけの専門医が、冗談ではなく存在します。都会はそれが成り立ちますが、地方で効率化を図るのは不可能です。いろんなものが雑多に突然きますから」
 森医師も、「この悪いシステムを変えないと、根本的な解決になりません」と指摘する。
「僕が研修した沖縄の県立病院では、アメリカ式の臨床研修が導入されていました。沖縄は、離島で働く医者の育成がベースになっていて、一般内科を幅広く診る文化があります。ですから、四年間の内科研修の間に、救急と集中治療も含め、一応全部診ることができるようになります。一通り学んだうえで、専門性をつけていく。僕の場合は、消化器と感染症を選びました」
研修制度は看護師にも導入している。「地方にいても国際的な活動ができたり、海外に行く可能性があるのが魅力のひとつになるのではないか、との下心考えもあるからです」と吉田院長は本音をもらす。
「看護師のなかには、スキルアップしたい、どこか外へ出てみたい、という人もいます。質の高い看護師を呼び込み、離職を防ぐ方策のひとつです」
森医師は、「医師や看護師だけでなくて、事務職を含め、あらゆる職種の人が海外に行くべきです」と言う。
「海外や他の地域に行くことで見えるものは、けっこう多い。若い人はどんどん外に出てほしい」
そう森医師が強調するのは、自らの体験からきている。宮古島で働き、マヒドン大学の修士課程や博士課程のコースで学んだ森医師が最終的にたどりついたのは、「宮古島もタイも、結局は地域医療」だった。
「もちろん病気の種類など、違う点はありますが、地域で暮らし、文化があり、一生懸命生きている、という部分はあまり変わらなかったんですね。同じ地域医療だな、と」
タイの田舎と北海道の余市町では、共通点もあれば違うところもあり、その比較のなかで、できることが明確に見えてくる。
「困っている地方の病院ほど、常勤医師しか雇おうとせず、医師が外に行くのもいやがりますが、それでは閉塞感が募るだけ。人手不足だからこそ、風通しを良くして、やる気のある人にはチャンスを与えるべきです」
国際的にも、欧米で勉強するより、アジアやアフリカで支援しながら学ぶほうへとシフトとしているという。日本もその流れに乗るのが大切だ。
外に出て、いろいろ学び、自分の地域のいい面を見つけ、戻ってきて変えていく。地域医療を担う人材を育成する意味でも、海外に気軽に行ける土台作りが必要だという。
余市協会病院の今後の課題は、プライマリーケアの充実だ。現在のところ、そこまでは手が回っていない。
「住民が一番困った救急事態のときだけでも、少ない人数でカバーする。いまはそれで手いっぱいです。やっと少しずつ伸びてきたので、これから力をつけていこうという戦略です」と吉田院長。
住民が求めている地域医療を実践するには、マンパワーを強化しなければならない。質の高い人材を確保するには、魅力のある病院であるべきだ。
「お金をかけたからといって、魅力的な病院になるわけではなありません。海外から医師が来て刺激を受けたり、海外に限らず外に出て行けるのも魅力になるでしょう。病院ベースでのプライマリーケアについても、いろいろ構想を練っているところです」
余市協会病院の挑戦ははじまったばかりだ。

『月刊自治研』2014年10月


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by k_nikoniko | 2015-07-26 08:11 | 掲載記事(2011~)

30年後の日本をみすえて訪問医療を実践(月刊自治研)

「三〇年後の日本」を見すえた地域医療
過疎の町の訪問診療の実践

二〇二五年には六五歳以上の高齢者が三〇%を超すと予測され、国は高齢化社会に向けて在宅医療の方針に転換した。厚生労働省は数年前から「地域包括ケアシステム」という言葉を頻繁に使いはじめたが、地域医療体制は整備されておらず、医療関係者や利用者の不安は尽きない。
自治体の多くが地域医療のあり方を模索しているなか、三〇年以上も前から、過疎の町で地域医療の実践に挑んできた病院がある。鳥取県日南町の国保日南病院だ。
日南町は中国山地のほぼ中央に位置する、島根、岡山、広島の三県に接した山陰の町だ。一九六〇年の人口は一五〇〇〇人を越えていたが、年々減少し、一九七五年には一万人を切った。
一九八〇年ごろ、町内唯一の公立病院である日南病院は、常勤医師の確保が困難になり、診療所への降格の危機にあった。そこへ梶井英治医師が自治医科大学から派遣され、病院職員と住民が一丸となって病院存続の運動を繰り広げ、診療所になるのは免れた。
一九八二年には安東良博元院長が日南病院に赴任。地域包括医療を提唱する山口昇国診協名誉顧問と親交があった安東院長は、ここで訪問診療と訪問看護をスタートさせた。訪問看護には診療報酬がなく、実施している医療機関も非常に少なかった頃のことだ。
高見徹医師は、一九八五年、三六歳のときに鳥取大学の医局から日南病院に派遣された。そのときの率直な感想は、「過疎の町でも高齢化で医療がこれほど大変になるなら、都市はいったいどうなるのだろう?」だった。
都市の高齢化は避けられない。であれば、日南町のような「三〇年先に高齢化した町」で地域医療を学ぶしかない。高見医師は一年間の任期中にそう心に決め、「大学病院を辞めたら、日南病院でお世話になります」と安東院長に言い残していったん大学病院に帰る。そして、一九九三年、約束どおり日南町に戻って来た。
日南町の現状を目にしたとき、高見医師が「都市の高齢化」に考えがおよんだのには根拠がある。医師になる前は東京大学保健学科に在籍しており、厚生省(当時)所轄の人口問題研究所での実習の際に、自分たちが六〇歳になるころの人口推移などを頭の中にたたきこまれていたからだ。
しかし、高見医師が日南町に移った八〇年代中ごろは、「都市に地域医療など必要なのか」という認識だった。周囲には「どうして高齢者ばかりのところに行くんだ」と不思議がられたという。
右肩上がりに経済成長してきた日本は、「医療費が上がったらいつでも補填する」と大見栄をきり、「在宅が無理なら病院に入院させておけばいい」とタカをくくっていた。
「賭けみたいなものでしたけど」と高見医師は振り返るが、高齢化はまさに推測通り進み、地域医療を顧みなかった日本は現在、深刻な問題をつきつけられている。

「老々介護」が悲惨なのは地域医療が存在しないから

日南町の人口は五四三五人で、六五歳以上の高齢化率は約四六%(二〇一三年四月現在)。通院できないで往診を待つ人は約一四〇人いる。
高見医師は院長になった一九九七年以降ずっと、午前中は外来、午後は訪問診療という日課をつづけている。平日の四日は地域に出かけ、一日七~八軒、年間にすると二〇〇〇軒ほど訪問する。日南町は面積が広く、五軒回るだけで走行距離が一〇〇キロを超えるときも。
「『大変でしょう』と言われますが、楽しいですね。病院の中にいるほうが、体調が悪くなる感じがしますよ」と高見医師は笑う。
十数年前、在宅での看取りがまだ珍しかったころ、日南町では在宅死が三割ほどになった。その発表を聞いた医療関係者は、「お前たちはちゃんと医療しているのか」と非難の言葉を投げかけたという。その後、どの病院も在宅での看取りが増え、その大変さがわかってくると、「日南病院がんばってますね」との反応に変わった。
高見医師自身、在宅での看取りのとらえ方が変化したという。「入院して一週間以内に亡くなるのは、立派な在宅死ではないかな、と。九九%在宅で看ていて、一%だけ病院というのも、在宅死とみなしたほうがいい。昔は介護者に『あと一週間だからがんばれ』と言っていましたが、それも変な話。そういう反省もあり、介護者が望めば、最後は病院で看取ってあげてもいいと考えるようになりました」
昨今、高齢者が高齢者を介護する「老々介護」や、認知症の人が認知症の人を看る「認々介護」がよく話題にのぼる。日南町でも、「老々介護」のケースが多い。しかし、高見医師はきっぱりと言う。「マスコミは『老々介護』や『認々介護』が悲惨なもののように報道しますが、悲惨なのはそこにいい地域医療がないだけのことです。日南町にいて、老々介護を悲惨だと思ったことはありません」
老夫婦だけに介護を放り投げられたら窮地に陥るのは当然だ。だが、たとえば、寝たきりの夫の介護で疲れているおばあさんに、「ショートスティで二週間ぐらい預かりますから、休んでください」と手を差し伸べるなど、介護者含めて目が行き届く地域医療が存在すれば、乗り越えていけるのだ。

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by k_nikoniko | 2015-07-23 07:55 | 掲載記事(2011~)