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季刊戦争責任研究86号に寄稿しました

日本の戦争責任資料センターが発行する『季刊戦争責任研究』第86号に、「フランス軍専用売春宿BMC」を寄稿しました。

フランス軍専用売春宿(BMC:Bordels Millitaires de Campagne)に関するフランスの文献2冊のごく一部をまとめたものです。

よかったらご覧ください。

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by k_nikoniko | 2016-08-13 22:13 | 歴史

強制労働された地で忌まわしい過去を語った韓国人

 2009年5月、北海道宗谷郡猿払村浅茅野の旧共同墓地で、朝鮮人労働者の遺骨発掘調査が行われた。この発掘にあわせ、当時ここで働いた韓国人の池玉童(チ・オクトン)さん(当時83歳・2010年他界)が現地を訪れ、忌まわしい過去を振り返った。

 「板敷き滑走路の端に掩体壕(飛行機格納庫)があり、その近くに飯場が建っていた。飯場から現場までは歩いて2~3分ほどだった…」
 池さんは、当時の痕跡を探すかのように固い表情で周囲を見つめる。その先は牧草地。旧日本帝国陸軍の浅茅野飛行場の面影は残っていない。
 浅茅野飛行場は、宗谷海峡の防衛と対米作戦の目的で、終戦の2~3年前に突貫工事で建設された。人員不足を補うために、多くの朝鮮人も動員されたといわれている。
 池さんは、1943年の夏、18歳のときに強制動員され、飛行場の建設現場で、板敷き滑走路や掩体壕の工事を強いられた。
 「本当に苦痛だったし、この世が嫌になるぐらいだった」 
 ここで過ごした4カ月は、筆舌に尽くしがたいほど過酷な日々だったという。
 思い出したくもない土地。ずっと北海道を避けてきた池さんだったが、今年、聞き取り調査に協力するため、66年ぶりに浅茅野の地を訪れた。

 この飛行場の実態については、解明されていない点が多い。政府や工事を担当した企業は情報開示を拒んでおり、体験者からの聞き取りに頼らざるを得ない状況だ。
 池さんの招聘は、浅茅野旧共同墓地の遺骨発掘調査にあわせて実現した。発掘は、市民団体「強制連行・強制労働犠牲者を考える北海道フォーラム」や猿払村、北海道および韓国の大学の考古学の専門家らにより、5月3日から5日にかけて行われた。
 初日早々、大腿骨をはじめ骨片が次々に発見された。掘り出される骨をじっと見つめ、ときおり目頭を押さえる池さん。「同胞の死を思い出した」からだ。

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発掘をじっと見つめる池さん(右)。

 午後からの聞き取りは、池さんにとっては試練ともいえるものだった。寝泊りしていたタコ部屋の位置が確定できず、強風のなか、広大な浅茅野をさまよう形になってしまったのだ。辺りの風景はすっかり変わり果て、方角さえ定かではない。
 地元住民も立ち会って検証するのだが、記憶が噛み合わず、場所の特定は困難だった。
「この辺りに藁葺き屋根の農家が一軒なかったか? その家でジャガイモをごちそうになったことがある」
「澱粉工場はあった。そこには韓国人が泊まったようだが…」
「ケガ人や病人がいた病舎はどこか? 飯場と現場の間に、病舎があったはずだが」
「……」
 途方もなく行ったり来たりしているうちに、家ひとつない野原は、牧歌的な風景どころか、恨めしい存在に思えてくる。池さんの鮮明な記憶力も、環境の変化には太刀打ちできない。
 車での移動とはいえ、高齢ゆえ、池さんは疲労の色が隠せない。結局、一日目は何もわからずに終わってしまった。
 翌日は、池さんが遺体を埋めた場所を突き止めるべく、再び探索を開始した。「共同墓地へ行く道の途中、大きな木の側に埋めた」 池さんの証言だけが頼りだ。
 当時、発疹チフスが流行し、多くの朝鮮人が命を落とした。池さんもチフスにかかり、一旦は霊安室に移された。運よく生き返った池さんは、十分な食事を条件に、遺体処理の作業を手伝ったという。3人の遺体を運搬し、そのうちの一人を途中で埋めたそうだ。
 共同墓地で発掘を目の当たりにした池さんは、「自分が埋めた人の遺骨を探し、できれば返還したい」との願いが強まったという。
 しかし、無常にも、戦後の植林で景色は様変わりしていた。伐採された大木の切り株は残っているのかもしれないが、深い笹薮に覆われて見つけるのは難しい。

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池さんが遺体を運んだと思われる場所。

 2日間歩いて、何も見出せない。池さんはこの地で再び失望させられるのか。一緒にいた誰もがそう思っていたに違いない、そのときだった。
 熊笹に覆われた物体の前をステッキで指し示し、「これは私が造った掩体壕だ」と、池さんはやや興奮した声で言った。目にはうっすら涙を浮かべている。
「非常に辛い体験だったので、涙が出るなど思いもしなかった。でも、こうして立ってみると…」
 池さんの表情は心なしか穏やに変わっていた(実際のところ、この掩体壕は池さんが造った実物ではなかったのだが)。

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浅茅野飛行場が建設された土地には掩体壕跡がいくつか残っている。

 この後、池さんを待ち受けていたのは、頭蓋骨から足の先までほぼ全身の形で発見された遺骨だった。今回、7体の遺骨が見つかり、そのうち一体は全身で発掘された。遺骨に対面した池さんは、さすがにショックを隠せない様子だった。
 これらの遺骨が朝鮮人労働者のものであるかは、まだ断定できない。しかし、池さんが遺体を埋めたのは事実であり、この地のどこかに、当選人労働者の遺骨は残っているのだ。
 浅茅野を去る日、池さんは力強く訴えた。
「最後の遺骨を見て、当時の状況を生々しく思い出した。一日も早く、日韓協力して遺体を発掘してほしい。家族はいまだに生きていると信じて待っているのだから」
 浅茅野飛行場の工事では、生存者より亡くなった労働者のほうが多かったといわれている。忽然と消えた父や兄弟、夫の帰りを、家族は故郷で待ちつづけているのだ。
 池さんは、自分を雇った丹野組に対して、「個人的な恨みはない。国の政策で動いたのだろう。政府の命令ゆえ、我々にこのようなひどい扱いをしたのだから」と言う。
 祖国に帰れずにここで犠牲になり、遺骨を置き去りにされている人はどれだけいるのか。そして、彼らの消息を案じている家族はどれだけいるのか。朝鮮人を雇い入れた企業、そして日本政府が情報を開示しないことには、その事実は明らかにされない。
 芽吹きはじめた草木は、浅茅野の暗い過去を覆い隠すかのごとく、青々と美しかった。そして、多くの朝鮮人がここに強制動員され、過酷な労働の末に命を落としたという過去は、忘れ去られようとしている。
 しかし、たとえ風景が変わったとしても、人の記憶まで塗り替えることはできない。何の情報もないまま待ちわびる人たちにとって、まだ戦争は終わっていない。


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by k_nikoniko | 2015-08-02 08:20 | 歴史

戦時中の「興亜への協同新聞記者大会」

日本の戦時中のプロパガンダ映画に、こういうのがありました。
ナレーションもそのまま引用します。

昔も今も変わらない、というのが恐ろしいです。

興亜への協同新聞記者大会(1941年)

東亜弁論界の代表が一同に会して、意見を戦わせる歴史的な催し、東亜新聞記者大会は8月4日から1週間、中国革命の発祥地、広東の中山記念堂で開かれました。日本から23名、中国から50名、満洲国から7名、合計80名の代表者が出席。国民政府からは特に汪主席が林宣伝部長らを従えて大会に乗り込みました。林伯生(りんはくせい)氏の開会の辞をもって大会の幕は切って落とされ、汪主席の特別訓示をはじめ、終始真剣なる態度をもって東亜共栄の実践方法を協議し、東亜新秩序を建設のうえに幾多の大きな収穫をあげました。大会第4日には中山記念堂前広場において、新中国建設の意気軒昂(いきけんこう)たる中国童子軍を汪主席自ら閲し、その前途を祝いました。

これは、NHKが公開している「日本ニュース」のひとつです。
以下、サイトから引用した「日本ニュース」の説明です。

「日本ニュース」は、太平洋戦争を間近に控えた1940年(昭和15年)から終戦をはさみ、1951年(昭和26年)まで制作されたニュース映画です。制作したのは、「日本映画社」(※)で、1940年にそれまで4つに分かれていた新聞社や通信社のニュース映画部門を国策により統合したものです。
戦時中の「日本ニュース」は、日本軍や内務省の検閲を受けた後、毎週映画館で封切られ、国民の戦意高揚に用いられました。テレビがない時代、国民は「日本ニュース」が伝える真珠湾攻撃や特攻隊出撃、学徒出陣の様子を映画館で目にしたのです。
「日本ニュース」は、戦争完遂を目的にした国策映画ですが、太平洋戦争中の映像記録として大変貴重なものです。「戦争証言アーカイブス」では、1940年(昭和15年)の第1号から、戦後も含め、1948年末までのものを公開しています。



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by k_nikoniko | 2015-07-05 15:39 | 歴史

「慰安婦」の過去は消えない

2014年5月31日から6月2日にかけて、「慰安婦」問題解決を考える「第12回日本軍『慰安婦』問題アジア連帯会議」が開催され、6人の元「慰安婦」が来日しました。
安倍政権の「戦争のできる国」への暴走にストップをかけようと、急きょ東京での開催が決まったそうです。

6月2日、日本政府への提言とともに、強制性を証明する資料、および河野談話後に発見された日本軍「慰安婦」関連公文書等529点を、内閣府に提出しました。
元「慰安婦」たちも立ち会いましたが、門前での受け取りという、非常に失礼な対応でした。

元「慰安婦」たちは、涙ながらに悲惨な体験を話し、そのなかで、「2度と戦争をしてはいけない、私たちのような犠牲者を出してはいけない」と訴えました。
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以下、元「慰安婦」の声。

スリ・スカンティさん(インドネシア、79歳)
「自分の身に起こったような悲惨さを、誰も2度と経験しないことを望みます。私は、日本政府に、この国の犯した犯罪の責任をとっていただきたいと思う。世界のあらゆるところにおいて、こうしたことが再び起こらないように、そう思うのです」
小学校2年生の9歳のとき、村長が付き添い、日本兵に2人やって来て、力づくで連れ去られた。その夜、オランダ人の住居だった館の2階で、オガワという軍人に、あたかも人形のように扱われた。風呂に入れられ、髪を洗われ、おしろいを塗られ、服を着替えさせられた。翌朝まで少なくとも6回、レイプされた。幼い私の膣からは大量に出血し、「お母さん、お母さん」と痛みをこらえて、泣き続けた。翌日の夜、部屋に鍵をかけられ、監禁された。3日後、またオガワにレイプされ、家に戻された。下腹部の出血の治療には1か月かかった。小学校に戻ったが、学友や先生から、「サルの使い古し」(日本兵に手をつけられた女)と嘲られ、学校をやめた。生殖器官の損傷で、子どもができなくなった。マッサージ師など、さまざまな仕事をしているが、治療費をまかなうのに十分ではない。
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ミンチェさん(インドネシア、86歳)
「人前で話すのははじめて。話を聞いてくれる人がいると聞いたので、はじめて体験を語ることにした。胸の痛みは消そうと思っても、気づかないうちに思い出している。日本人にあんなことをされなければ、不幸にはならなかったのに。苦痛は今もつづいている」
14歳のとき、トラックに乗せられ、日本軍に連れ去られた。そのとき、母親が父親の目の前で、日本軍にレイプされ、私もそれを見ていた。慰安所では1日4人の男性の相手をさせられた。6か月そうした生活がつづき、耐えられなくなり、すきを狙って逃げた。近所の人が助けてくれて、男の格好をして、車で送ってくれた。家に戻ると、母親は温かく迎えてくれたが、親せきに「お前は恥だ」と受け入れられなかった。家を出て、知り合いを頼り、お手伝いさんの仕事をして生活した。
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by k_nikoniko | 2015-05-05 09:19 | 歴史

アート作品としての「慰安婦」少女像

昨日で終わってしまいましたが、「不自由な表現展」に、韓国ソウルの日本大使館前に設置されている「慰安婦」少女像のレプリカが展示されていました。

少女象の縮小模型は、2012年8月東京都美術館で開かれた「第18回JAALA国際交流展」に出品されましたが、美術館側が「(政治的表現物であるため美術館の)運営要綱に抵触する」という理由で一方的に会場から撤去されたとのこと
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今回の展示にあわせ、少女像の作家キム・ソギョンさんとキム・ウイソンさんが来日し、都内で講演を行いました。そのときのお話を紹介します。
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「慰安婦」少女像は「反日の象徴」のような取り上げられ方をしますが、この像は、芸術大学を卒業した芸術家が制作した「アート作品」です。

キム・ソギョンさんとキム・ウイソンさん夫妻は、韓国中央大学校の芸術大学卒。学生時代の80年代から民主運動にかかわり、芸術で社会問題を提起してきました。

地方から20年ぶりにソウルに戻った二人は、ハルモニたちが水曜デモを20年間もつづいていることに驚き、「このままにしておけない」と動きだしたそうです。金学順(キムハクスン)が名乗りでたのは1991年8月14日。当時はメディアも騒いだので、すでに解決されたものと思っていたのです。
2011年5月ごろ、ハルモニを支援している韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)を訪ね、「アーティストとして、私たちに何かできることはないか、それがわかれば、やらせてほしい」と訴えたところ、「2011年12月14日に水曜デモが1000回を迎えるので、平和の碑を建てたい。そのデザインを担当してほしい」と言われました。
そこで、二人は20数点のアイデアを作って見せたのですが、日本大使館前に設置することに対し、「無事にできるのか」「韓国政府が賛成するのか」という悩みが深刻になり、いいアイデアが浮かばなくなってしまったそうです。
日本政府から「建てないでほしい」との要請もありましたが、「こういう状況だからこそ、違うものを作ろう」とするのがアーティストです。
最初は文字を刻む「平和の碑」を建てる予定でしたが、「人々がコミュニケーションでき、ハルモニたちを癒す彫刻はどうだろう」と考え、挺対協がその案を受け入れてくれたので、ソギョンさんが少女像を提案しました。

日本大使館前の少女像の設置は、韓国政府から承認を得たわけではなく、地方自治体や地元警察は、何度も対策会議を開きました。拘束されるかもしれないが、その責任は自分たちでとろう、とこの少女像を建てたそうです。

少女像を制作する際、最も大切にしたのは、多くの人と分かち合えること、コミュニケーションがとれること、でした。

少女像にしたのは、10~20代のたくさんの少女が連れていかれたのがわかっているからです。最初はおばあさんにしようかと思ったのですが、「女性たちが連れて行かれたのをどう表現したらいいか」を考え、少女にしたそうです。ソギョンさんは、「女性として、娘を持つ母親として、こういう発想になった」と言います。
3か月の制作作業中、ソギョンさんは、「自分自身が被害者だったら、娘が被害者だったら」を考えていたそうです。

この少女像には、いくつかの象徴があります。

少女の背後には、影と蝶々、碑文見えます。
この影は、おばあさん、つまりハルモニたちの姿で、ハルモニの痛みや苦しみを表しています。
真ん中に飛ぶ蝶々は、既に亡くなられた被害者がよみがえり、伴にいることを表しています。
「おばあさんの影を描いたら?」とアイデアを出したのは、娘さんだったそうです。
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作りはじめたときは、手は重ねているだけでしたが、最終的には、こぶしをギュッと握る形にしました。
こぶしを握る形にしたのは、3か月の作業中に、日本政府が「建てるな」と要請したのがきっかけでした。
彼女自身との約束であり、この問題を解決するための闘い、未来の子どもたちへの思いが込められています。

おかっばの髪は、毛先がそろっていません。これは、日本人によって無理やり切られた髪をイメージしています。
最初はおさげやきれいに切りそろえたおかっぱにしてみましたが、最後にはガタガタに切られたおかっぱにしました。
「家族や祖国とのつながりをむりやり切られた」というのを表しています。
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肩にとまる鳥は、亡くなられたハルモニと生きているハルモニをむすぶ触媒の役割を持っています。

少女は裸足です。それは、険しかったハルモニの人生を表しています。
遠くに連れて行かれ、故郷に帰れなかった人、帰る故郷を失った人がいます。
ですから、かかとがすり減っているのです。
今もハルモニたちは胸に痛みを抱え、その痛みを消し去れないでいる人もいます。
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少女の横の空いた椅子は、亡くなったハルモニが座り、一緒にいるために用意した椅子です。
また、誰もがここに座ることができ、ここから日本大使館を見つめてほしいとの思いもあります。
ハルモニの心、少女の心に共感してもらうために作った椅子です。
さらに、次世代の子どもたちが、ここに座ってくれたらいいと思っています。
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この少女像は、ある日突然ひらめいたのではなく、二人は大学在学中から、芸術的才能を使って、社会的なことができないか考えていたそうです。
ウイソンさんは、「韓国には抵抗美術、民衆美術というものがあり、これを抜きにして、芸術を語れない」と言います。
民衆美術を制作する芸術家はたくさんおり、反戦や反核、女性問題や労働問題など、さまざまな分野で表現しています。
民衆美術は政治的、社会的だとの批判し、否定的な人もいますが、ウイソンさんは、「政治や社会問題を抜きにして、何の表現活動ができるのか」と。

少女像の日本の反応については、次のように述べました。
「少女像が日本大使館の前にあるから、不快なのだろう。
しかし、なぜこの少女像がイヤなのか考えてほしい。
真実をあきらかにするためにハルモニたちは闘っている。
日本政府が解決すれば、いやな気持ちはなくなるのではないか。
それまでは、いやだという気持ちを甘受すべきだと思う。
この問題が解決したら、少女像は日本政府が管理すべきだ。
そうすることで、日本の誠実さ、度量の広さが見えてくる。
これを引きうけることで、日本の偉大さが見えてくると思う」


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by k_nikoniko | 2015-02-02 23:49 | 歴史

「性奴隷」とは何か

今日の集会は立ち見がでるほどだった。
とはいえ、知った顔も多く。
一般の人、特に女性がなぜ「慰安婦」問題への関心が薄いのか…を考えながら、講演を聞いていた。
理由は明白なんだけどね。

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by k_nikoniko | 2014-10-26 22:27 | 歴史

国立公文書館の資料開示請求

この8月、BC級裁判の資料30件を公開請求したら、10月に2件のみ公開され、残りの28件は平成31年3月29日までに利用可能かを決定する、との返事がきました。
4年半も審査に時間がかかるなんて、おかしいと思いませんか?
ちなみに、夏の2週間、約80件分の資料の記録をとりましたが、ざっと見ただけで、3件に「慰安婦」など性奴隷に関する記述がありました。
国立公文書館に所蔵されている戦犯裁判資料の多くが公開されていません。
そのなかに、「慰安婦」の資料がある可能性は高いです。
公開請求は誰でもできます。請求方法は簡単です。
関心のある方はぜひ公開請求にご協力ください。

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by k_nikoniko | 2014-10-19 20:21 | 歴史

衆議院予算委員会での「慰安婦」問題の質疑

昨日の衆議院予算委員会での辻元清美議員による「慰安婦」問題の質疑。
ほとんど報道されていないそうなのですが、ぜひ聞いてほしいです。
辻元vs高市の質疑応答もあり。
47分ほどの質疑のうち、最初の「集団的自衛権」、最後の「女性が輝く社会」も必見です。

衆議院インターネット審議中継



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by k_nikoniko | 2014-10-04 23:46 | 歴史

「慰安婦」は第二次世界大戦時のモラルでも犯罪

8月14日は、23年前に金学順さんが日本軍「慰安婦」だったと名乗りでた日。
朝日新聞の当時の記事に間違いがあっても、「慰安婦」の全面否定にはならない。

今年1月、NHK会長に就任した籾井勝人氏は、「従軍慰安婦は今のモラルでは悪いが、現実としてあった。戦争地域ではどこでもあったこと」ととんでもない発言をした。

「今のモラルでは悪い」といった発言をよく聞くが、戦時中の「慰安婦」も国際法において戦争犯罪である。
1946年10月25日のBC級オランダ・バタビア裁判で、「『強制売春』は戦争犯罪」と判決が下されている。

この事件は、インドネシアのバタビアで「桜倶楽部」を経営していた民間人の青地鷲雄が、憲兵隊の脅しを直接間接に利用して売春を強制したというもの。

裁判記録は、国立公文書館で一般公開されている。

起訴状は次のとおり。

「戦時中の1943年9月頃より1945年9月頃までの間、バタビアにおいて、『桜倶楽部』の経営者として、日本人に伴するため婦女子を募集し、婦女子が解雇を申し出た場合は、直接又は間接に憲兵の威をかり、倶楽部の客に対する売淫を彼等に強制し、その目的のために倶楽部内の一郭に彼らを居住させ、自由に外出を許さず、多くの婦女子が日本人相手の醜業に就かした」

なにより面白いのは、被告人の弁論。
誰かさんたちのように、「慰安婦は必要だった」と主張している。

弁論では、「第一に私は日本軍の慰安所の社会的意義について一言致したい」とし、次のように述べている。

「戦時における占領地においては人倫の紊乱を惹起するということは古今東西に亘ってその例まことに枚挙に遑ないところであります」
「慰安所の設立は戦争に伴う不可避の社会的害悪を最小限度に抑制せんとの趣旨に出たものである」
「戦争に伴う不可避の社会的害悪を最小限度に抑止せんが為の友好的適切な社会的施設というも過言ではない」
「戦争のために夫と別れ子女を抱えて日々の生活に窮し又は自ら堕落して売淫行為を行う婦女子が次第に増加してきた。当時日本人の一般邦人には軍人軍属の為の慰安所の様な施設がなかったために、斯る婦女に近づく者が次第に増加してきて、その結果、社会的害悪を最小限に抑制せんとする見地から一般邦人占用の慰安所の設立ということが邦人間および軍政監部において問題されるに至ったのである」

しかし、バタビア裁判では、こうした弁論はまったく通用せず。
判決文にはこう書かれている。

「これらの事実は、戦時下の法律、慣習を侵害するものであり、戦争中敵国日本の国民により犯されたものであり、また「強制売春」という戦争犯罪に属し、被告は故に1946年官報NO.44第1条(第7項)の罪状に関し有罪と宣告され、判断されるとみなされる」
「被告は売春宿に12歳、14歳というきわめて若い少女を引き取っていたこと、売春婦たちがきわめて高い所得を生むために大変厳しい仕事を義務づけられていたこと、軍法会議はこれらの事実を考慮し、既に検討された法律の他に、1946年官報NO.45第4条にも注目し、被告人は戦争犯罪『強制売春』を犯したものと宣言し、10年の禁固刑を宣告する」
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by k_nikoniko | 2014-08-13 22:18 | 歴史

フランス植民地支配から学ぶこと

フランスの植民地支配については情報が少ない。
昨年11月に日仏会館で開催された「エメ・セゼールと世界の植民地化」に行き、ずっと気になっていた『ニグロとして生きる』をやっと読みました。
そのなかから心に留まった文章を記しました。

ここで語られているのは、ヨーロッパによって植民地化された国々だけでなく、日本の朝鮮半島の植民地化でもあり、原発事故のあった福島でもあり、そして、国家でなくとも強者により植民地状態にされている弱者(地域や人々)のこと。
そう思わずにはいられません。

1956年9月19日から22日にかけてパリで開催された「第一回黒人作家・芸術国際会議」における、エメ・セゼールの講演より。

……ヨーロッパ植民地支配が侵入したところではどこでも、お金に基礎をおいた経済の導入によって、家族が崩壊するとともに、共同体の伝統的な絆が断ち切られ、弛められ、社会的・経済的な構造の破砕が引き起こされたのです。……

……ヨーロッパは、支配下に納めている地域すべてにおいて、お金に根拠をおいた経済・社会システムを創案し、導入したのです。そして無慈悲にすべてを排除したのです。私は「すべて」と言いたい。文化、哲学、宗教のすべて。一部の特権的な人間や人びとの富裕化の進行を遅滞させるか、あるいは鈍らせることができるすべてです。……

 どんな植民地支配であろうと、長期的には植民地化された社会の文明に死をもたらすことをみてきました。しかしそれでは、つぎのように言えるのでしょうか。現地の文明が死ねば、植民地支配者はその代わりに別の文明、現地の文明よりも高度な文明、植民地支配者の文明にほかならない文明を根づかせる、と。
……植民地支配の結果として世界に、フランスやイギリス、あるいはスペイン文明の新芽が出てくるだろうというのです。……まさにそこに幻想があるのです。

……植民地支配下にある国においては、技術はいつでも現地社会の外縁で展開され、被植民地者がそれを自分のものにできる可能性などまったくないのです。……知的機能についていえば、低識字率や粗悪な公共教育を特徴としていない被植民地国はひとつもありません。……

……植民地支配者にとっては、植民地化された国に自分の文明を輸入するとは、とりもなおさず、率直に言うならば、現地の資本主義建設、現地の資本主義社会の建設を企てることを意味します。それは同時に本国の資本主義のイメージと競合を意味するのです。
 現実界を一瞥するだけで、本国の資本主義が植民地の地場資本主義を生み出した地域はどこにもないことが確認できます。

2004年に行われたフランソワーズ・ヴェルジェスとの対話より。

「……君は、とてもとても長いあいだ、奴隷だった。だからその年数を掛けた数が、君の受け取る補償だ」。すると、それでおしまいです。私からすればこの行いはけっして終わりにできない。それは償いようのないことなのです。……
……私はヨーロッパ人というものを熟知しています。「なるほど、ではいくらだ? 交易の償いに言い値の半分をあげよう。それでいいね? さあ解決だ」。これでおしまいです。彼らは補償をしたわけですから。ただ、私にしてみれば、これはけっして償いようのないことです。ですから「補償」という語はあまり好きではない。この語には、補償は可能であるという含意があります。西洋は何事かをすべきですし、諸国の発展と生成を援助するべきです。これは私たちに当然果たすべき援助ということですが、補償をえるために提示すべき請求書があるなどとは思っていません。援助であって、契約ではないのです。これは純粋にモラルにまつわることです。
 繰り返しますが、私にとってこれは償いようのないことです。数々のあくどい所業に及んできた者がこれらの諸国人民を援助しなければならないのは、至極当然のことのように思えます。
……ヨーロッパ人は新しい資源を思いつき、自分たちに人間を売るよう、アフリカ人をどうにか説き伏せた。これは、あくどい汚らしい商取引だった。いったいどんな補償があるというのです?……たいしたことじゃない。アフリカは補償を受ける権利がモラルの面であると思います。……
 私の考えでは、ヨーロッパ人は私たちにたいする責務がある。すべての不幸な人びとにたいして、そうであるように。しかし、私たちの場合には、もろもろの不幸の原因はヨーロッパ人にあるのだから、なおさらそうです。……私の考えでは、人間には人間に手を差しのべる義務がある、しかも、その人に他者の不幸にたいする責任がある程度ある場合には、なおさらそうです。私はこのことを、訴訟やら起訴状やら告訴やら賠償やらのかたちにしたくない。……ようするに、支払うべき請求書があるわけで、だから解決はつくことになる。そうじゃない。けっして金銭で解決されないのだから。

フランス領植民地に比べれば、イギリス領植民地のほうが、同化の度合いはきわめて低いのです。フランス人は普遍を信じてきたし、彼らにとって、文明はたったひとつしか存在しない。彼らの文明があるのみです。私たちは彼らとともにそのことを信じてきた。だが、この文明のうちにもまた野蛮性、未開性はある。この亀裂は、フランスの19世紀全体に見られる。ドイツ人、イギリス人は、フランス人よりも前に、単数の文明など存在しないことをはっきり理解していた。存在するのは複数の文明です。ヨーロッパ文明、アフリカ文明、アジア文明があり、こうした文明はすべて特殊な文化によって形成されているわけです。ようするに、この視点からすれば、フランスは非常に遅れていた。
 現在、フランスは文化的差異に直面するのを余儀なくされています。しかし、それを強いているのはまさに歴史です。フランスは、「アルジェリアはフランスである」と長らく言い続けてきた。しかし、それは間違いだった。フランス人は、ある日、アルジェリア問題、アフリカ問題を前にして、はたとそのことに気づいたわけです。歴史がようやくこうした事々を修正したわけですが、私は以前からこうなるのを予感していました。

 大切なのは、私たちが人間を信じられるかどうかを、そして、いわゆる人間の権利を信じられるかどうかを知ることです。自由、平等、同朋愛に、私はいつもアイデンティティを付け加えます。というのも、もちろん、私たちはアイデンティティへの権利を有しているからです。……私の考えでは、人間はどこにいようとも人間としての権利を有しています。人間にたいする敬意が根本的であると思われます。……

……私たちは、各人民がそれぞれの文明、文化、歴史を有していることを学ぶ必要があります。もっとも強い者がもっとも弱い者にふるう野蛮、戦争、抑圧を作り出す権力にたいして戦う必要があります。根本的なことは、ヒューマニズムであり、人間であり、人間に帰すべき敬意であり、人間の尊厳にたいする敬意であり、人間の発展への権利です。……



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by k_nikoniko | 2014-08-07 00:00 | 歴史