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朝鮮学校サッカー部の監督に(『希望』)

「生徒はヤンチャでしたけど、なついてくれました」 藤代隆介 北海道 37歳

--サッカーの選手と指導者を育成する石川県金沢市の専門学校・ルネス学園で北海道出身の在日朝鮮人チョウ・ホリョルさんに出会った。彼の誘いで1997年12月、縁もゆかりもない北海道へ。そして札幌の北海道朝鮮学校サッカー部の外部コーチに就任した。

小学校1年生からサッカーをやってました。推薦で帝京高校に入って。部員が1年生だけで130人って言ってたかな。それが結局、20何人までに絞られるんです、夏が終わるまでに。サッカーマシーンが集まるようなとこです。
怪我して挫折しましたけどね、高校3年の春。チームはその後、全国制覇するのですが。左足のひざの外側靭帯切って、右のアキレス腱の炎症を起こし、まともに歩けない状態が3ヶ月続いて。「もうサッカーやめたほうがいいよ。人生長いんだから」と主治医に言われて、もう「がーん」。
大学はサッカー推薦で入れると思ってたんです。プロになることを諦めてなかったし。そんなレベルじゃないんですけど、サッカーしかなかったから。
それが、ガラガラガラって崩れちゃった。それから必死で勉強しても…。サッカーやるために、大学にもう一度チャレンジしようと、予備校通いました。親には迷惑をかけたくなくて、住み込みの新聞配達しながら。
浪人中、サッカー以外の道も探ってはみたんですけど、何か想像するだけでも怖くて。普通に働いて、普通にサラリーマンやって、楽しいのかなって。
だんだん足が元通りになって、「もう一回チャレンジ!」と思ったときに、「うちでサッカーやらないか」と声がかかったんです。サッカーをもう一度やれる喜びがすごくあって。人生のすべてが(サッカーに)詰まってますから。
それで、金沢の学校(専門学校・ルネス学園)に入り、チョウに会いました。「オレは在日だ」って。人間的に素敵な人でしたね、はじめて同級生で尊敬できるような。いろんなイデオロギーの話をしてくれたり。
だいたい日本の高校生や大学生は、喫茶店行ったら、テレビ番組やお笑いがどうのこうのって話をするじゃないですか。僕もその類だったしね。
でも、そいつは政治の話しとかしましたね。衝撃的でしたよ。「オレは違う、こう思うよ」というタイプだったので、それがすごく新鮮で。「在日朝鮮人って何なんだ。面白いなぁ」って。
卒業するときに、チョウが「オレは北海道に帰ってサッカーの仕事をする。それぞれ違う道に行くけど、最終的におまえを呼ぶから。それまで勉強していてくれ」って。で、「わかった」って、別れたんですね。
金沢でコーチとして1年半、広島県で監督を1年半やって、こっちに来たんです。3年契約で。その後の仕事先は決まってて、3年で辞めるつもりでした。それが、ハッと気づいたら13年(笑)。

--小学校のときに住んでいた埼玉で、地元の朝鮮学校初級部のチームと対戦し、そのときはじめて、「日本にいる朝鮮人なんだよ、国技がサッカーで」という話を聞いた。

うちもけっこう強かったし、「簡単に負けないよ」って。真夏のすごい暑いときに試合したんですけど、(相手は)強烈に強かったんですよ。すげぇ走るし、体の作りから違う。「なんだこれ~」って。
帝京高校のすぐ隣に東京朝鮮があり、1年生のときから、週1回ぐらい東京朝鮮の3年生と試合してたんですね。ものすごくうまいし、「東京にこんなに強いチームあったんだ」って。
「ここに勝たなくちゃ全国に出れない。厳しいな」と思ってたんですけど、関東大会とか、インターハイ予選とかに、全然出てこないんですよ。「地区大会で負けるのはちょっとおかしい」と。聞いてみたら、出られないんだって。そのときはすごい理不尽に感じたんですよね。
試合は普通にしてましたが、交流は一切ないですね。目を合わせるな、とか。相手はハングルですし、こっちはこっちでプライドあるから。
今は東京朝鮮の同期とはすごい仲がいいですけど。ここ(北海道朝鮮学校)で働らかなかったら、彼らとは会わなかったと思います。向こうも指導者やってますから、「あれ!」って。向こうも覚えてて、「出てたよな?」と。
偏見はありました。報道がすでにそうでしたからね。北朝鮮バッシングとかね。100%報道は正しいと思ってましたから。うちの親もそうでしたし。
韓国に対しても、そんなにいい印象はなかったですね。特に何がどうっていうのはないんですけど。
(札幌に行くとき、)一番反対したのは母親でした。「なんで今のサッカーの仕事ではダメなの?」って。負のイメージしかなかったから。
でも、最終的に一番応援してくれたのは母親でした。父親が亡くなって、(母親を)北海道に連れてきたんです。在日の人がよくうちに来てくれたりして、母はすごい勉強して。本当に一番の理解者でした。三年間ぐらい一緒に暮らしたのですが、亡くなりました。
家族の支えは大きいですね。理解がないとやっていけないです。サッカーの指導者自体、家族の理解がないと100%できませんから。



--サッカーの外部コーチだった藤代さんは、4年目に教員になった。全国に11校ある朝鮮学校で唯一の日本人教員だ。

好奇心だったんですよね。自分のキャリアアップ。高校生を教えたかったし、別に国籍関係ないって。「朝鮮学校を強くしてやろう」という志もなかったですね、今考えると。
チョウがいたから、あまり気にしてなかったんです。でも、入ってから、「もしかしてとんでもないことだったのかな」と思いましたね。あいさつ回りのとき、「日本人か、まぁ、やるだけやってみろ」とあからさまに言われたこともありました。「歓迎してないの?」って。教員たちは、自分が来たころ、「日本人=敵」と思ってたそうです。今となっては笑い話なんですけど。
教員として雇うにあたり、裏ではいろんな問題が生じてるのかな、と。それを校長が全部カットしてくれてたんです、自分の耳に入る前に。
これまで、あのー、悪いイメージを持ってましたけど、「朝鮮人? オレは何もないよ」というスタンスでいたんですね。そう言ってるくせに、こう(上から目線)でした。
強制労働も慰安婦も朝鮮半島の植民地化も全く知らなかったです。(小泉元首相の訪朝で)拉致問題の報道が盛んだったとき、校長(当時)のご自宅で食事をごちそうになったんですね。校長はアボジ(父親)の仏壇の前で、「うちのアボジも拉致されてきたんだよな」とつぶやいたんです。それを聞いて、「こんな身近にもいるんだ」とショックでした。
「日本人って何してるんだろう」と、ものすごく恥ずかしかっです。「何もないよ」じゃなくて、「オレのほうがあるじゃないか」って。ここから考え方がどんどん変わって、今にいたる、という感じですね。
悩みましたよ。最初の1年、公式戦で1勝もできず、かなり、まぁ、言われたんです。けど、校長が「やりたいようにやればいいんだ。周りがわかってくれる日が来るから」と言ってくれて。校長の前でワンワン泣きましたもん、二人で飲みながら。あの校長がいなかったら、とっくに辞めていたと思います。
当時の監督もすばらしい人だったんですよ。後日談ですが、自分が入るにあたり、一番反対してたって。でも、お互い理解が深まって。自分はまだ若かったし、「これやりましょう、絶対いいことだから」というタイプだったのですが、彼は、一歩引いて冷静に理論的に判断するんです。関係がすごくよかった。
生徒たちは、まぁヤンチャでしたけど、なついてくれました。壁を作らないために、まずは言葉だと思って、言葉を覚えました。その姿勢を見せてからですね。「こいつちょっと違うんじゃないか」と生徒も思ったんでしょうね。
たまに孤独はありましたね。日本人の友だちもいなかったですし。周りの日本人に歴史の話をしたとしても、ちんぷんかんぷん。自分もちんぷんかんぷんで、何も説明できるわけでもないし。この悩みを誰に打ち明ければいいのか、と。親に言ったら、「ほら、すぐ帰ってきなさい」って言われちゃうだろうし。自分の中で消化していくしかなかったですね。
マイナス志向が少しでもあったら、今(の自分)はないですよね。ただ、人より一歩前に、という考えはなくなりました。ここに来る前は、言い方悪いですけど、バーゲンセールで「私が先に取る」というタイプでしたが。
朝鮮学校の子どもたちがサッカーをやり、勝ちたいのは、「同胞を元気づける、勇気を与えるため」だと考えているんですね。「同胞のためにがんばりたい」とすらっと言うのを聞き、素晴らしいなと共感できたんですよ。誰かのためにがんばるのは素敵だな、と。自分は自分のためにサッカーをやる。それが普通だったんですけど。今では自分も、「応援してくれる人のためにがんばれ」と(部員たちに)言えるようになりました。
モチベーションを保つという意味でも、この考え方はいいと思うんです。自分のためであれば、「ここまでやったからいいや」と妥協できるじゃないですか。でも、誰かのためであれば、限界がないんですよね。

--藤代さんが監督になった当時、朝鮮学校のサッカー部は「勝つチーム」ではなかった。日本のサッカー関係者も、朝鮮学校に対していい印象は持っていなかったそうだ。

赴任したとき、「サッカー部員たちの目が生き生きしているな」と感じました。でも、日常生活からして、戦えないチームでした。炭酸飲料をガブガブ飲み、食事に気を使わず、時間に遅れ、グランド整備がされてない。これはフットボールとは言えない。
なので、意識改革からはじめました。栄養学を教え、「一流とは何なのか」を考えさせました。勝つための生活に変えていったのです。
春休み、冬休み、ゴールデンウィークを利用し、10日間以上の道外遠征に出ます。フェリーで海を渡り、学校のバスに布団を積んで移動します。お釜と米も持参します。各地区の朝鮮学校の教室に宿泊して、食事を自分たちで作らせる。日ごろは文明にどっぷりつかっているので、遠征では不便な生活を強いるんです。携帯も取り上げますね。
4~5年たった頃から、次第に自己管理ができるようになり、“それがサッカー部として当たり前”になりました。その結果が、2001年の全道大会(全国高校選手権大会予選)初出場にしてベスト8につながったのだと思います。
何度か上位に食い込んではいますが、札幌はレベルがけっこう高いので、突破するのに苦労しています。昨年(2009年)は、2回戦で優勝候補を破ったのですが、3回戦で負けてしまいました。試合がつづくとケガ人が出てしまうので、毎年十三人とギリギリのサッカー部としては、そこが壁になってます。
8月22日に行われた地区大会の1回戦は、5対0で敗退しました。相手は強豪校のひとつで、内容は悪くなかったのですが、総合力で及びませんでした。
 今年、札幌地区U16の選抜チームの監督をやり、優勝しました。うちの選手をキャプテンにしたんです。他の高校の先生も、「彼にやらせろ」って。ひと昔前だったらありえないですね。自分が指導するようになって、日本人サッカー指導者の朝鮮学校に対する見方は大きく変わりました。
チョン・テセとか、アン・ヨンハとか、(Jリーグで活躍する在日朝鮮人の)影響はものすごくあると思いますよ。アン・ヨンハは、アルビレックス新潟の選手のときに日本人のファンクラブができて、チョン・テセのファンも川崎にたくさんいました。それだけで全然違いますね。「在日朝鮮人はこんなにすごいんだよ」って、そう変わっていってほしいな、と思います。
そのために自分に何ができるかというと、知りたい人にはとことん教えます。いろんなところに顔を出して、いろんな話をして。飲みに行ったりするじゃないですか。そこで、「朝鮮学校ってどうなの?」と食いついてきたら、ワーって。その彼が、また違うところで話してくれる。それって重要だな、と思います。
朝鮮学校とはつながっていきたいですね。つながっていかなければいけないのかな、と。別にプレッシャーでもないし。
選手たちをしっかり育てて、その子どもたちが、またうちの学校でサッカーしたい、と思えるような環境を作り出すのが、僕の使命かなと思ってます。
朝鮮大学を卒業し、札幌で社会人チームに所属する人もいます。毎年、OBが大会前に帰ってきて、生徒たちを元気づけるための試合をしてくれます。帰ってくるという環境がようやくできてきたので、それは良かったかなって。
サッカーは人生のすべてを教えてくれる。たとえば、「みんながつないできたのをオレのミスでパスカットされてしまう。味方にパスを送れない」。そんなの申し訳ないじゃないですか。これがひとつだと思うんですよね。「大切に運んできてくれたボールなのに簡単にシュートをはずしてしまう。そんな人間にはなりたくない」と。
これ、「元気を与える」っていうテーマですけど、大丈夫ですか? 朝鮮学校からって、世間的に「え!」ってことないですか? (自分は)朝鮮学校が世の中を元気にすると思いますけど。

『希望』旬報社 2011年


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by k_nikoniko | 2015-07-18 07:45 | 掲載記事(2011~)
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