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DSK後:フェミニストの誘惑のために

2011年6月29日のルモンド紙電子版に掲載された、エリック・ファッサン(高等師範学校)の「DSK後:フェミニストの誘惑のために」です。
発端は、イレーヌ・テリィの「メードの女性と経済人」。
*意訳しています。誤訳がたくさんあると思います。

DSK事件について、アラン・フィンケルクロートは6月15日のルモンド紙の意見欄でためらわずに性暴力について語っている。もちろん、「彼が責められた事実」を形容するためではなく、過去の沈黙を後悔するフランスのジャーナリストたちによって脅かされる私生活の侵害を告発するためだ。そして、ミラン・クンデラの「反全体主義の発言」を引用した。「本当のスキャンダルとは、プロチェツカの淫らな言葉ではなく、私生活の侵害だ」 評決は下された。「カーテンを剥ぎとるのは犯罪である」

IMFの専務理事が逮捕された1ヶ月後、フランスは大きく変わった。昨日の規範は突然異常のようになる。最初の反発は、特に社会連帯を失望させた。しかし、素早い信用失墜が、大衆の言語で理解の崩壊を表明した。ベルナール=アンリ・レヴィやジャック・ラング、ロベール・バダンテール、ジャン=フランソワ・カーンは、たぶん、権力者たち仲間内でいつも行われていたことのように話している印象があった。それは理由にならない。突然、彼らは許せない人たちになった。ありふれた風景が転覆した。彼らは、過去の男性、残酷にも時代遅れと思われたのだ。

この事件は、長年のフランス文化の反映ではない。逆に、衝撃は新しい文化を生じさせた。過去を顧みて自問することがたくさんある。私生活の尊重は、男女の権力関係の格差を口実として利用していないか? フランスの例外の名においてのアメリカ・フェミニズムの拒否は、単にフェミニズムの排除ではないか? この社会は、バンリュー(郊外)で起きた性暴力をすぐに告発するのに、国民議会や大学でのセクハラには目をつぶっていないか?

これは、今日増大している新しい反発の波による抑圧されたフェミニストの再来をかわすためだ。アラン・フィンケルクロートだけが問題なのではない。彼の「性暴力、きわどい冗談、男女交際におけるフランスの概念の訴訟」との告発は、イレーヌ・テリィ(5月29日のルモンド紙)への反響だった。ジェンダー研究の世界的第一人者であるジョーン・スコットに対抗して、この社会学者はパラドックスを恐れずに、「普遍主義者」のように特徴づけた「フランス流フェミニズム」を要求する。

イレーヌ・テリィにとって、このフェミニズムは、「政治的公正を拒否し、男女平等の権利と誘惑の不均衡な喜び、同意の絶対的尊重とキスを奪われる甘い喜びを要求する」。これが1989年にフィリップ・レイノーがやりかけた議論を再び活気づかせている。彼は、「フェミニズムがずっと最先端をいき、あまり気難しくなく、民主的要求である」アメリカとの対比により、フランス人の文明、旧制度(アンシアン・レジーム)の礼儀作法の遺産を普及させる役割をほめたたえた。モナ・オズフは、1995年に、「フランスの特性に関するエッセイ」で、アメリカの「凶暴な」過激さに「フランス・フェミニズムの節度」を対抗させて、その思考を発展させなければならなかった。

国家のアイデンティティーは少しも問題ではないのではないか? ジョーン・スコットは、それを皮肉で強調した。これもまた誘惑の名において、フランス文化でイスラムを異質と判断している。推定被害者がここではイスラム教徒だったのだ。国家の節度を忘れて、「不名誉」とイレーヌ・テリィは激怒している。しかし、2006年にモナ・オズフに捧げた「フランスのギャラントリ」のエッセイのなかで、クロード・アビはこう書いている。「ヴェールの着用はギャラント(女性に対する丁寧さ)のゲームの中断を合図する貞節の提示である。和解の可能性は存在しない」 今日、ジョーン・スコットに対抗して、弁明と我々の「文化遺産」のイラスト(6月17日のリベラシオン紙)をともに固執して署名しそうもないフェミニストは少数派だ。

性暴力が訴訟になる時代に、なぜフランスの誘惑をほめたたえるのか? 事実、現代性がフランスの謝罪に強烈な光を浴びせた。-モナ・オズフによると、「寛容な国、そして同時に政界の男性の異常さに対する寛大」 性暴力の危険を軽減するために、彼女の断言を読み直す機会なのだろうか? 「力と脅迫の使用を今後許さないように、誘惑のあらゆる試みを併せもたないように、十分に柔軟な定義をアメリカで与える」と彼女は口頭の主張に追い込まれた。要するに、フランス人が誘惑のゲームを味わっている一方で、アメリカのフェミニストは性暴力を怒っているのだ。

DSK事件はエピナル版画(大衆向け色彩版画)を台無しにした。どうしたら「重たい誘い」が軽いギャラントを再び呼び返すことができるか? 昔の誘惑は明らかにさほど魅力的ではないようだ。国の特異さの礼賛者は、メルトゥイユ侯爵夫人をいまでも引き合いにだす。しかし、彼女自身がヴァルモンで不正な誘惑の暴力を想起させていることを忘れている。「あなたがた、男性たちへ、敗北は成功が欠けているだけだ。あまりにも不平等な勝負であり、我々の幸運が負けたのではなく、あなたがたの不運が勝たなかったのだ」

アメリカの威嚇は、我々の目前で同時に崩れた。フランスのフェミニストは(「フランス流」ではなく)、性暴力、セクハラ、その魅力を逃す女性差別的発言に何の心づかいもなく、事件に味方して、自分の話を聞かせることに成功した。民主主義よりも国の文化であるのが問題ではない。10世紀前からの反フェミニズムを動揺させる問題が残っている。誘惑は民主主義とは相容れないのか? 男性支配の旧体制(アンシアン・レジーム)以後、何が来るのか? 官能的なフェミニスト-情欲をそそりながらも、より民主的な-を考える権利はないのだろうか?

たぶん、権力から性を解放する幻想は放棄しなければならないだろう。誘惑は、欲望の主体としても存在するという条件で、欲望の客体を支配することを目指している。フェミニストでいるために、「誘惑の不均衡な喜び」を放棄する必要はない。反対に、なぜ不均衡が、男性の接近の働きかけへの回答として女性的なはじらい、という先験的に決定づけられるのか? 社会の役割は、本来仮定された男女の相違を表現させているだけである。同性関係では、誘惑がないと言えるだろうか? 

反対に、どのような役を演じるかを事前には知らずに即興をしのぐというゲームは、不確実性ゆえに魅力がある。固定的な取り決めでそれぞれの性に与えられた役を、不意打ちなどなしに再演するよう強いられたら、「襲われる甘い喜び」はまったく味気ないものになる。別の言い方をすれば、官能的なフェミニストにとって、ジェンダーの問題は…面食らわすものとして確認される。「同意の絶対的尊重」に関して言えば、事前の会話が多ければ、絶え間ない恋愛の交渉を要求できる。性的な契約は、もはや事前の決定的な規則など存在せず、終わりのない勝負の賭けである。否定、もしくは昇華される代わりに、権力関係はまた、民主的な誘惑と同様の題材になる。


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by k_nikoniko | 2011-08-01 01:20 | ジェンダー
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