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セクハラDSK事件「メードと経済人」

2011年5月23日のルモンド紙電子版に掲載された、フランスの人類学者イレーヌ・テリィの寄稿「メードの女性と経済人」です。
ドミニク・ストロス=カーンIMF元専務理事のセクハラ逮捕の1週間後の記事です。
ここから、フランスではフェミニズム論争がはじました。
*意訳しています、誤訳たくさんあると思います。

5月15日の日曜日の朝、我々フランス人は完全に、驚愕、不信、悲嘆した。政治および道徳的不幸な前代未聞の状況に直面し、沈黙中の神聖連合において、フランスの汚れたイメージをかわすために、事件の意義にいたらせる必要性をあちこちで感じている。茫然自失の奇妙な時間を過ごし、「DSK事件」と名づけられたことを探求しようと、議論が権利を回復した。論評の渦のなかで、どのようにそこから見出すのか? 昔だったら三文の価値もない男性のプライベートや人格の問題だが、性に関する嫌疑は決定的な犯罪訴訟の範疇なのは明確だ。それを覚えているのであれば、新しい分裂がフランスの議論に出現したのが見えてくる。ある方法は明らかで、今日、世界経済の支配者だけを考慮するか、移民のメードのかわいそうな女性だけを同情するか。それを互いにあまりにも批判し合っているため、それほど単純には理解できない。

一方では、無実の推定という基本的な価値を、なによりまず強調する人たちがいる。その無実の推定は、事実を持ち出された張本人が要求する権利である。最初の数日間、彼らのことは、家長父性の秩序を喧伝する支持者として扱わずにはいられないようだった。なぜなら、フランスの世論を作る立役者の中であまりにも多数派で、推定被害者の境遇とはあまりにも違うからだ。無実の男性を彼らの流儀で弁護するために、十分頭に叩き込まれた男尊女卑の反射的行動がここそこで花ひらいたのは事実である。「死者は出ない」「メードのしめあげ」 しかし、時代遅れの気のふれたような言動が、救済のしるしだと我々に信じ込ませるのは困難だろう。裁判を受けねばならない人たちの権利を強硬な弁護で隠す男性的陰謀なのだ。これは支配的男性の弁護ではない。無実の推定のなかに自分たちの反応を導く唯一のコンパスを見出すことができると信じている男性たちは、支配的男性を憂慮している。これはむしろ、現代の社会関係から出現した新しい挑戦に対する、ある種の精神的な幻覚である。

もう一方では、-当初は女性、フェミニスト、社会参加者たちが多かったが、その女性の人格を尊重する新しい形態を民主的価値に高めようと努力する人たちがいる。その女性は法的用語でまだ実際の名はないが、彼女の権利として真実性の推定を訴えることができる。性暴力や性的侵害の被害者であると意思表示する人が、不利な証拠までして人を欺かないことを前提にした推定である。性的攻撃の特性は、傷害や殺人と違い、「客観的な」現実それ自身を第三者の目で認められないことにある。それを私たちは知っている。性的攻撃は存在するのか? 対峙する当事者の証拠と信用性という恐ろしい問題に取り組む訴訟の前に、これらの刑事事件に問われる特殊な疑問が明らかにそこに根づいている。最初に問題になるのは、嫌疑をかけられた無実の推定だけでは決してない。訴えられた性の法律違反ともとれる可能性が、開廷のための資格を備えた第三者の目でかなり現実としてとらえられることにある。違反ともとれる可能性は最初に、実際に考慮に入れられる目的で、提供された可能性を経て推定被害者へと移行する。告訴した性的被害者は、警察署で、ますます好意的に受け入れられる。しかし、我々は、フランスの政治文化において、真の権利として真実性の推定を考慮する準備はできているだろうか?

私たち同国人の多くが辛い感情を持っていたため、フランスでは、ジャロさんに対し、推定加害者であるドミニク・ストロス=カーンに証拠立てられたのと同等の尊重を認めなかった。この衝撃的な状況は、まず、個人的な道徳ではなく、共通の正当性と制度の問題である。私たちはそれをどうやら見て取ったのだ。二人を踏みつけにしながら、性犯罪と性の軽犯罪の正当性を組み立てるために、無実の推定と真実性の推定はどちらも同じくきわめて重要である。しかし、今のところ私たちは、無実の推定と真実性の推定をはっきり区別しておらず、どのように事実がまとまってつながっているかがまだあまりわからない。まるで一方と引き替えにもう一方を選択できなかったかのようなことが起きる。無実の推定の純真な支持者たちは、ドミニク・ストロス=カーンが天下のさらし者にされたときに彼に対する素晴らしい基礎概念を尊重したことを自慢しながらも、同時に、暴行されたと彼を告訴した若い女性が要求している真実性の推定を笑いものにしていることをわかっていなかった。




アメリカの告訴手続きを非難しながらも、訴えられた犯人とニューヨークのソフィテルの推定被害者の情け容赦ない闘いに、我々は今後も疑問を投げかけるだろう。それゆえ、強烈さが増す問題から逃げようと考えるのはむだである。ウトロー事件(児童虐殺事件で、児童の証言を鵜呑みにした冤罪事件)が注目されていたちょうどそのとき、同様のジレンマに直面し、対称的な非難が起こった。フランス式の糾問制訴訟手続きのそれである。それをすでに忘れてしまったのだろうか? 相反する2つの推定をまとめてつなげる方法をいつの日か構築するための第一歩は、性に関する問題の特異性について考えるのを認めることだ。そして、ヨーロッパの民主主義の我々市民に向けて、我々が与える新しい集団責任、今日起きている深部の変動を承認するために、我々の考察の領域を広げることを認めるのだ。

フランスはしばしば、性、ジェンダー、性的特質に関して政治的に「遅れている」との印象を他国に与えている。まずここではこの壮大な提起に立ち向かわずに、ニューヨークの訴訟で我々が、ここ数日間の反フランスの陳腐さを言い訳にした弁解の身震いに閉じこもってはいけないということだけを強調しよう。逆に、他国のようにフランスでも、性犯罪と性の軽犯罪のあらゆる訴訟に、常識の範囲で、社会的、歴史的、人類学的に重大な提起として集団的にとらえる機会にしなければならない。我々は一般的に、性に関する違反の精神的動機しか念頭にない。それはあたかも、すべてを裏づける価値と規制が深部で変化している状況のなかで、性に関する違反が起きていることを見たくないかのようでもある。さて、男女平等が増加していくなかで、私たちは、性に関する許容と禁止については先例がなく、大混乱の今を生きている。最近増加している性暴力訴訟は、民主的変化の表れであり、無責任体質の徴候でもあり、両面性を合わせ持っている。

犯罪としての性暴力を考えることは、性的侵害を深刻にとらえることである。婚外性交渉の断罪、ホモセクシュアルの汚名、性の二重モラル、2つのカテゴリーへの女性の分割で構築された伝統的な結婚の性の秩序に対する現代的拒否から直接生まれる。女性は、誉れ高い妻と負け犬の娘、正統な家族の母とのけ者の母娘、尊敬される家庭の女主人と家事に精を出す召使というように2つのカテゴリーに分割される。「性暴力の歴史」でジョルジュ・ヴィガレロが指摘したように、分割は、男性、女性、子どもそれぞれの社会での個人とステイタスの社会的所属集団の交差点でつねに展開する。性に関する許容と禁止の大分割において、もはや結婚ではなく同意を認めるのが中心的な価値であり、その価値の空洞に、性暴力を罰することへの我々の執着が痕跡としてとどまっている。

しかし、今日の性暴力訴訟はまた、変化の曖昧さの兆しでもある。こうした訴訟は、驚くべき空白(むなしさ)を見る機会を与えてくれている。この社会の毎日の生活を潤し、明らかな多様性の、しかし俗世界にとどまっている人間社会の内部に性的特質を刻み込んでいた継続される性の礼儀作法の代わりに、空白が拡張されるがままなになっている。これは個人主義と金儲け本位のイデオロギーの代償であり、この世界は消費型閉塞経済的人間のつまらない寄せ集めに変化させられた。性的な新しい正常状態の核となる同意は、解決と問題の両方を同時に持ち合わせている。同意すること。承諾します、でも何に? どうして? あらゆる同意の否定が視線のおよばないところで表現されたとき、公共、社会、司法の領域へどのように移行するか? こうしたあらゆる質問に集中しながら、我々のゆるぎない共通の価値について直接問う。ニューヨークの訴訟は民主主義の変化を彼らの流儀で具象化する。しかし、それはまた、マルセル・ゴーシェの表現を引用すると、民主主義は「それ自身に」跳ね返ってくるという危険な機会のひとつになるだろう。

この危険について厳密な社会学的動機を見定めるために、我々のものでもある、議論の一週間ですでに覆い隠された最初の驚きに立ち戻らなければならない。我々をとらえた最初のイメージは、ドミニク・ストロス=カーンだけに関心が向けられていたのではなかった。それは、2つの顔、2つのシンボル、2つの具象の衝撃である。現代社会があまりにも不平等であり、現実は小説より奇なりという具象化である。彼女は、ホテルのメードで、ギニア出身の移民で、貧しく、ブロンクスの公営住宅に住み、未亡人で、片親家族の母親である。彼は、世界で最も有名な国際通貨基金(IMF)の専務理事で、フランスの政治家の顔を持ち、左派の知識人で、これもまた具象であり、社会の成功者で裕福で、容易に快感を得ることができる。メードの女性と経済人。もしくは、すべてを持っている男と何も持っていない女という衝撃。

神話ともいえることに直面した状況では、登場人物を具象化することで特異な個人は吸収され、消え去る。事件のなかになにやら叙情的なものが存在するのは、こうした理由からだ。ニューヨーク警察は、メードでしかない女性の言葉を思慮深く聞き入れ、真実性の推定を彼女に認めた。ここで披露されたのは、彼女が4時間で権威の順序をひっくり返し、有力な経済人の襟首をつかまえることができたことだけではない。彼女はまた、不信、不正、そして我々の時代の希望という驚くべき縮図の一種を見せてくれたのである。そして、民主主義社会を動かす全情熱を激しく吹き込もうと、これからの訴訟を約束させたのである。性的欲望の、恐ろしい先祖の、満たされない憎しみのスケートゴートとして、あまりにも不平等な2人の個人を悲劇的に変化させる危険を冒して。


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by k_nikoniko | 2011-08-01 00:33 | ジェンダー
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