フリーライター木村嘉代子のブログです。日々感じたことを綴っています。Copyright(C)2005-2016 Kayoko Kimura
by k_nikoniko
お問い合わせ:
k.kayoko.7☆gmail.com
☆→@に変えてください

最新の記事
「南スーダンPKO派遣差止訴..
at 2017-08-15 08:46
ドキュメンタリー映画『まなぶ..
at 2017-07-19 09:38
3つのがんを発症した福島原発..
at 2017-06-28 11:38
南スーダンPKO派遣差止め訴..
at 2017-06-20 11:06
札幌の自主夜間中学が公立化か
at 2017-06-16 08:36
ルモンド紙より「南スーダンの..
at 2017-06-03 14:05
『道新』セクハラ認めずも始末書
at 2017-05-05 17:38
恵庭OL殺人事件の第2次再審..
at 2017-05-01 14:35
通信制中学の記録映画『まなぶ..
at 2017-03-24 11:54
元原発作業員が労災認定を求め..
at 2017-03-10 11:47
カテゴリ
全体
掲載記事(2011~)
掲載記事(2000~2010)
掲載記事(1991~1999)
掲載記事(1990以前)
ジェンダー
男と女
ひとりごと
フランス
イギリス
国際ニュース
社会問題
原発・核
デモ日記
戦争
歴史
メディア
カルチャー


サッカー
外部リンク
ライフログ
タグ
検索


ガザからのメール(1/3)

2008年末から、パレスチナのガザ地区はイスラエル軍に激しく攻撃されつづけました。
南部最大の都市ハンユニスに住む、NGOスタッフの女性マジダ・エルサッカさんと何度かメールのやりとりをしていたところ、2009年1月9日に、彼女からPDFで手記が届きました。
幼い甥っ子とかわした会話が中心です。
本人に公表の許可を得て、『北海道新聞』夕刊で、2009年1月19日~21日と3回にわたってこの手記の翻訳を掲載してもらいました。
以下は、マジダさんから届いた手記の全訳です。

2008年12月27日
イスラエルはあえてクリスマス休暇に攻撃を開始したという確信がある。この時期であれば、EUも米国もさほど反応を示さないだろうことを、私は知っているのだ。それだけではなく、イスラエルは時間がたっぷりあるときに虐殺をする計算だったこともわかっている。

それにしても、このようなことになろうとは、少しも想像していなかった。11時か11時半ごろだった。ハンユニスに地震が起きたのかと感じた。しかも、これまで聴いたこともないほどの轟音をともなっていた。数年前にイスラエル占領軍がソニックブームを使ったときでさえ、あれほどの音ではなかった。私の頭にすぐに浮かんだのは、母親、姉妹たち、そして、学校や幼稚園に通う子供たちのことだった。私は熱いシャワーを浴びようと2階に駆け上がった。ここ1週間以上は冷たい水のシャワーだった。というのも、水を温めるほどの晴天には恵まれず、5分間の贅沢なシャワータイムを楽しむための水を温めるほどの十分な時間とパワーの電気が使えなかったからだ。

聞こえてくる音よりも速く、私は階段を急いで駆け下りた。姉の目を見つめ、母親の目を見つめ、すぐ、幼稚園と学校にいる子供たちを迎えに行くために、庭に向かって階段を走った。6歳の甥は試験だったので、いつもより早く学校から戻ってきた。他の二人はドアのところに立っていた。幸いなことに、うちの隣の人が町に出かけていたので、彼が自分の子供と一緒に、私の甥たちも連れて帰ってきてくれたのだ。

子供たちは怖がっていて、自分でも理解できないまま大声で話していた。4歳の甥ワエル(Wael)はなんだか理解できないでいた。彼は、イスラエルが存在していることさえ知らなかった。

今、彼はそれを知ったのである。子供たちみんなが、それを知ったのである。




家族の誰もが、どうしていいかわからなかった。そこで、みんな庭に集まった。前回イスラエルが攻撃してきたとき、うちの窓が私たちの頭上で割れ、いくつかのドアも壊れた。今回の爆撃は以前より激しいので、一番の解決策は、野外にいることのように思えた。

こうしたすべてのことや爆撃の音はつづいた。あらゆるところから煙が立ち、爆撃の匂いが再び私たちの生活を汚染しはじめた。

ガザにいる弟とその家族の安否を確認しようと、1時間以上電話をかけていたが、固定電話も携帯も通じなかった。

1時間後、弟の家族のひとりと話すことができた。甥のアザム(Azzam)で、彼は国連で働いている。彼は、ガザの国連構内にあるシェルターのひとつにいたから無事だったと言った。ガザの国連がシェルターを備えているなんて、私は初めて知った!

2時間後、メールが受信されはじめ、無事であるという返事をみんなから受け取った。しかし、誰もが、この人工的な地震に関するそれぞれのストーリーを伝えていた。

後に、この爆撃が細長いガザ全体に同時に起こったことを発見した。私の家族や私自身はなんてラッキーだったのだろう。最初の攻撃の5分で殺された人々の数には含まれていなかったのだから。私たちは“幸運”である。本当に!!

20日間、料理をするためのガスが使えなかった。先月は、いとこが自分の分の余りである6キロを譲ってくれた。2008年12月27日のブラック・サタデーの朝、生涯を通してぜったい避けたいと思っていた闇市で、料理用のガスを手に入れた。いとこの分を返し、うちのシリンダーを満たした。普段の4倍の値段だったが、他に選択の余地はない。

午後5時、爆撃が止まり、いとこの家に料理用ガスのシリンダーを持っていっても大丈夫になった。いとこの家は、うちから車でたった5分である。子供たちは一緒に行くと言い張って泣き出したため、連れて行くことにした。家を回り、後方から通りに入った。しかし、そこには交番があることを思い出したので、他の道路を通ったほうがいいだろうと思った。そこで、逆戻りして他の道に入ったとき、目の前で飛行機が車を爆撃するのを見てしまった。

子供たちは燃え上がる炎を見て、爆音を耳にした。彼らは非常に怖がった。これはお正月の花火だよ、と私は彼らに語った。

隣の家が葬式を執り行い、道は人と車であふれかえっていたので、家に戻ることができなかった。そこで、前進することに決めた。いとこにシリンダーを渡した帰り道で、また大きな爆発があった。今度のは、市内の警察署のすぐ近くだった。

私たちは花火を後に、家に戻った。
[PR]
by k_nikoniko | 2013-08-11 09:03 | 掲載記事(2000~2010)
<< ソウルでキャンドルデモ 病院の惨状と復興への思いをイラ... >>