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醜いフランス原子力の歴史(下)

1974年3月6日、大それた出発
ジョルジュ・ポンピドー大統領は、息を引き取る3週間前に、限られたメンバーによる各省庁大臣会議の議長を務め、乱暴にも重大な案件を採決した。ピエール・ムスメール首相は、その夜テレビで、勝ち誇ったようにそれを発表した。「我々は本日、1974年から75年の間に、1000メガワットの原子炉を13基建設し、それぞれに100万フランを費やす……アメリカ以外、これに匹敵する努力をしている国は他にない」 こうしてフランスを世界一の原子力大国に仕立てられていった。原子力技術は完全に管理され、重大事故は不可能で、放射能の生理学的影響は無視され、核廃棄物はまったく問題にされなかった。
ジスカール・デスタンが大統領に当選した選挙の8日後、国営テレビのフランス2のクロード・オツァンベルジェの枠で放送予定だった番組「原子力を私たちは本当に必要としているか?」が、禁止命令で中止された。範が示された。議論など存在しない。この問題に関する唯一の国会での議論は遅れ、1年後の1975年5月14日に行われた。しかし、最終的に採決されず、見掛け倒しに終わった。
拒否の理由は少なくとも2つ説明できる。ひとつは、政治的な理由。原発で被害を受ける選挙区の議員は、計画の制限を要求できた。もうひとつは、原発の設計に関連する。原子炉で生じる熱の3分の2は、単純に水蒸気として熱湯の形で自然界に排出される。当時の新聞は、この浪費についての疑問を公的に質問した。なぜ、この熱が都市暖房に使用されないのか。多少経費はかかるが、技術的には可能なはずではないか? しかし、EDFはかたくなだった。熱湯での都市暖房といっても、それを必要としない顧客もおなじ数だけいる。そうした顧客はオール電化を賞賛しているのだから! 静寂、そして、議員たちは、フランス原子力に関する質問を提起しないようにしなければならなくなった。

原子炉は加速して次々と現れた。1977年にフッセンエイムの最初の2基、それから、ブジェの3基。1980年には少なくとも7基(Granvelines、Danpierre、Tricastin)、1981年には新しい8基。エンジニアリングと操業点検システムなどを提供する産業、工事会社(Bouygues)、ボイラーやタービンの製造(Saint-Gobain)などの会社にとって黄金時代。特に、EDFは政府との契約で特権を手に入れた。入札の必要がなく、この電力会社は、供給者を好きなように選んだ。
これらの新しい原子炉すべてに、濃縮ウランが装てんされなければならず、世界中で原発が増加した関係でアメリカの工場が飽和状態になり、ピエールラットに濃縮ウランの工場Eurodifを設立することになった。これには莫大な投資と、非常に大量のエネルギーが必要とされた。それを完全に満たすには、トリカスタンの4基の原子炉の生産量が必要だった! 資金については、原子力化する国々とコンソーシアムが結ばれた。フランスに加え、スペイン、イタリア、ベルギー、そしてイランが名を連ねた。

輸出はどうなったのか? 最初は約束どおりだった。1974年12月、イラクへの訪問で、シラクはサダム・フセインに、原発を建設することを約束した。その原発オシラクは稼動するはずだった。イラクの原子力物理学者はこう語った。「フランス人は我々に、『なぜ原子炉を買わないのだ?』と言った。我々は『エネルギーを生産するから』と答えた。フランス人は大笑いした。フランス人は、我々の説明がでたらめではないと知っていた。しかし最終的に、彼らは、それは自分たちの問題ではないと言った」 オシラクは、1981年7月のイスラエルの空襲で崩壊した。
同じく1974年、シラクは、イラン国王から、2基の原子炉の注文を手に入れた。Eurodif濃縮ウラン工場の10%の分担と、この機会に対するフランスへの100万ドルの貸与も取りつけた。イラン国王が倒れ、ホメイニ師が政権を握ったとき、フランスは約束を取り消し、返金しないことにしようとした。これがパリで起きた血なまぐさいテロの報復となり、イランは弁償を手に入れることに成功した。Eurodifは長年、濃縮ウランの生産の10%をイランに送り続けた…。
その前にフランスは、イスラエルと南アフリカに原子力技術を売っている。どちらも、核爆弾の製造方法をセットで提供することを公的には否定している。その時代に優勢だった考え方は、ビジネスをうまくいかせるのに加え、核拡散が平和をもたらすというものだった。世界中に核兵器が存在すれば、核戦争のリスクが減るという考えだ。



1977年7月31日、クレイ・マルヴィル
その日曜日、31歳の物理学者ヴィタル・ミシャロンは、リヨンから50キロ離れたクレイ・マルヴィルの増殖炉スーパーフェニックスの工事現場の前のデモに参加していた。6万人ものデモ参加者が、フランス各地だけでなく、ドイツからも集まっていた。イゼール県のルネ・ジャンナン知事は、武装した機動隊(3000人以上)を動員した。それが興奮を引き起こした。ほとんどのデモ参加者は平和的であったが、県知事は、数十人の厄介な存在につけこんだ。彼らはそれをほどこうとし、火炎瓶を投げつけた。2時間の格闘がつづいた。結果、1人が死亡、10人ほどが重傷を負う(手や足を失う)、100人ほどがケガをした。
非常に強靭になっていた環境保護運動は、衝撃を受け、呆然となった。ジスカール・デスタンの勝利だった。フランスの原子力化を止めるものは何もなかった。1979年3月にアメリカのスリーマイル島で起きた、炉心がメルトダウンしはじめ、関連産業が不可能と判断を下した事故でさえ。この大きな恐怖はすぐに忘れ去られた…。
ひとつの小さな村だけが、原子力施設の進出に抵抗した。フィニステール県の奥深くにあるPlogoffで、EDFはここに原発を建設しようと計画していた。住民へのアンケートが行われた日、町役場で資料が燃やされた。デモと抗議行動が繰り返され、アンケート最終日の1980年5月24日には、10万人近くのデモ参加者が集まった。これは、フランスで最も激しい反原発運動である。ブルターニュでは原発がひとつも建設されなくなった。

1981年5月10日、エコロジストたちは飛んで喜んだ。さようなら、Plogoff! 大統領候補のミッテランが結局、この原発をあきらめる約束をしたのだ。彼はこの約束を守ったが、“110の提案”のなかのひとつでしかなかった。原子力計画は建設中の原発に限るだけでなく、国民投票でフランス国民に問うという内容だった。ミッテランは5ヶ所の原子力施設(Cattenom、Golfech、Chooz、Civaux、Le Pellerin)の決定済みの工事を凍結した一方で、地元議員に判断を下すよう要求した。予想通りの結果。翌年、4ヶ所の最初の施設が工事を再開した。もし、ジスカール・デスタンの元、16基が稼動していたら、ミッテランの7年任期の2期の間、送電線につながれたのは34基の新しい原子炉だったろう…。モロワ首相もまた、ラ・アーグ工場の拡張計画を決めた。この工場では、毎年使用済み核燃料が800トンを扱い、寛大にも、海外から来た核廃棄物を取り扱う工場を加えた。

社会党政権はエコロジストを信頼させようと、エネルギー効果の改善を担う、エネルギー管理機関(後のAdeme)を創設し、CFDTのミッシェル・ロランに委任した。政府はまた、CLI、地域情報委員会を設立した。これは、原子力施設周辺の議員や市民団体を含め、参加型の自治体の努力を求めるものである。原子力をみんなの手で! この操作は成功した。反原発の存在は拡散していった。1985年9月7日、世界で最も巨大な増殖炉スーパーフェニックスが稼動をはじめたが、何の騒ぎも起きなかった。その3ヶ月前、フランスの情報局が、ムルロアでの核実験に反対してグリーンピースがチャーターした船“レインボー・ワリオール”を爆破しようとして有名になった。陽気なムードでさえあった。

1986年4月26日、チェルノブイリ
有名な雲が、国境で止まった。アラン・カリニャン環境大臣は沈黙を守った。「カリニャン! それは不可能だ」とシラクは激怒した。カナール・アンシェネ紙(1986年5月14日)の見出しは、「放射・不可能な大臣」とつけられた。原子力の“沈黙の力”を示すイメージがさらけだされた。その後、原子力推進派たちは目立たない姿勢になったが、不屈のEDFはそれでもやはりわが道を行く。この年、5基の原子炉が送電線に接続した(Paluel4、Saint-Alban2、Flamanbille2、ChinonB3、Cattenom1)。そのほかも(13基より少ない)続いた。1999年のクリスマスの前日、フランスの最後の原子炉、1450メガワットの出力のCivauxの原子炉が稼動した。チェルノブイリは、確定していた計画の原子力推進を何も変えなかった。唯一停止したのは、1998年にスーパーフェニックス。世界最大の増殖炉は、13年間の稼働中に18ヶ月しか稼動しなかった。

1986年4月26日の大事故から20年は、“原子力の冬の時代”だった。フランスの原発は大きな事故もなく稼動し、フランスの4分の3の電気を供給した。しかし、世界のほかの国では、フランスのような例はほとんどない。輸出はゼロに近い。2000年ごろ、気候温暖化が優先すべき環境の脅威としてランクが上昇した。原子力産業にとって、すばらしい幸運。原子力は二酸化炭素をほとんど排出しない。温暖化効果ガスの排出に関して、最も優秀な国のなかにフランスが入り、原子力推進派が元気を取り戻した。
フランスはよい選択をしている。原子力は“地球を救う”! サルコジは、環境グルネルを声高々に強調した。相談役のアラン・マンクは、本当の目標を自白することになる。彼は「環境保護の措置の代償として、原子力の集団的選択を有効にすることを許した」(フランス・インテール、2008年9月23日)
2007年4月、大統領選挙の直前、原子炉が20年以来建設されていなかったが、ドミニク・ド・ヴィルパンがフラマンヴィル原子力施設にEPRを建設させるEDFへの許可した。原子炉の総数はすでに限界を超えている。唯一の利用法は、運営会社のためのモデルケースであることは明らかだった。2009年1月、サルコジ大統領はパンリー原子力施設に2基目のEPEを建設することを発表した。EDFは、これらの原発は、30年間稼動することがもともと予測されており、その2倍維持できると主張した。突貫工事は非常にお金がかかり、解体で生じる難題(と予算の膨張)と同じく却下された。原子力安全局は、それぞれの原子炉にゴーサインを出すために招かれた。2011年、58基のうち21基の原子炉がすでに30年を超えている…。
2009年、全地球で、“原子力のおかげで環境が戻る”と発表された。ルモンド紙(2009年10月21日)は、129基の原子炉が中国で、ロシアでは44基、アメリカでは32基、日本では16基が“計画中”、と書いている。アレバの経営責任者アンヌ・ローヴェルジョンは勝利した。サルコジは、リビアのカダフィ、中国、インド、イタリアと仮契約のサインをしている。シャンパンで祝福!

2011年3月11日。フクシマ。数週間の保留。風は向きは変わったか? 東京は汚染されたか? 炉心はメルトダウンしたか?
大事故はチェルノブイリ事故と同じレベルにランクされた。トラウマが世界を包み込んだ。ドイツは2022年までに脱原発することを決めた。イタリアは完全に脱原発を確定した。スイスもまた、完全に放棄する方向に向かっている。日本はブレーキをかけた。フランスだけがゆるぎない。サルコジ。「原子力を守るために闘う。なぜなら、現実の状況に代替エネルギーは存在せず、暖房を維持するか、ロウソクで灯すか、フランス人に言う以外ない」(2011年4月5日) 世界中が、エネルギーのほかの解決策を模索している。フランスは国家の核に執着している。
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by k_nikoniko | 2012-10-17 13:33 | 原発・核
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