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醜いフランス原子力の歴史(上)

フランスの週刊紙カナール・アンシェネが昨年2011年10月に発行した原子力特別号に掲載されていた記事の翻訳です。<>は訳注。

1945年8月6日、朝8時15分、1350gの濃縮フランで作られた核爆弾が広島に落とされた。10万人以上が死亡。翌日のルモンド紙の見出しは、「科学革命。アメリカが日本に原爆を初めて投下」。漠然とした歓喜がにじんでいた。この“科学革命”は、完璧な成功だった。人類はこれ以前、一度にこれほど多くの人間を殺害したことはなかった。

その7年前、ノーベル賞を受賞した原子力学者フレデリック・ジョリオ=キュリー<キュリー夫妻の娘婿>が、歴史的発見の結果を発表した。核分裂反応(これより6ヶ月前に2人のドイツ人科学者が発見)のとき、分裂した核が中性子を発し、新しい核分裂反応を連続して引き起こし(連鎖反応)、その中性子が莫大なエネルギーを放出する、という発見だった。電気だけでなく、すばらしい核爆弾も産業化して製造できる、という立証である。1939年5月4日、フレデリック・ジョリオ=キュリーは、この核爆弾の基礎となる発明を「爆発装置の改良(Perfectionnement aux charges eplosives)」という名で特許登録した。この時代、イギリス、ドイツ、アメリカの多くの物理学者が、同じ問題に取り組んでいた。アメリカのプリンストン大学物理学部は、その中心的存在だった。このころ、アインシュタインはルーズベルトに、「ナチスより先に核爆弾を製造する」と提案した手紙を書いている。
1942年9月、アメリカ大統領はとてつもない「マンハッタン計画」をこっそりと開始した。町全体、そして巨大工場建設が可能な大企業を巻き込み、10万人(うち研究者は1000人)を動かし、200万ドルを費やして、その目的を達成した。
しかし、当時は、ドイツの攻撃のために準備されていた。(ルーズベルトを継いだ)トルーマン大統領が日本をターゲットに定めた。ノーベル賞学者ジェームズ・フランクを筆頭に、シカゴの研究者たちは、大量殺戮を避け、無人島で核爆弾を爆発させようと説得した。しかし、トルーマンはそれを完全に拒否した。広島に線を引き、地図上から消した。世界中の原子力推進派は、シャンパンを多量に飲んで祝った。ジョリオ=キュリーはその翌々日、パンポルの避暑地で、AFPにこの快挙の元となった発明について説明し、理解してもらおうとした。

広島の原爆投下から2ヵ月後、1945年8月発令で、ドゴール大統領は原子力エネルギー庁(CEA)を創設し、ジョリオ=キュリーが長官に就任した。フランス版「マンハッタン計画」を開始する任務を受けたCEAは、国家内国家であると理解された。途方もない予算が組まれ、野放しに、各々が個々の役割に集中した。研究、産業、商業、外交…。ドゴールに命ぜられた目的は、フランスが“大国”に名を連ねるために、有名な核“抑止力”を創出することだった。ジョリオ=キュリーは、「大佐、あなたのために製造します、あなたの爆弾を!」と約束した。
それはまた、あらゆることをするという意味でもある。まずウランを探さなければならない。ジョリオは隊を派遣し、田舎を探索させた。隊員は、オーヴェルニュ火山の近く(ラ・クルージルの豊富な鉱山をすぐに行き当たった)で、ガイガーカウンターを手に、ウラン鉱山を探した。最初の実験用原子炉が完成するのに3年を要した。1948年に開始した、ゾエZoé(ゼロZero、酸化ウランOxyde d’uranium、重水Eau lourde:“ゼロ”という用語は結局、エネルギーを放出しないことを意味する)は、翌年からフランス製プルトニウムの初生産に成功し、ジョリオを大いに喜ばせた。たった数ミリグラムではあったが、この成功はテレビで報道された。<Zoéはパリ郊外のFontenay-aux-RosesにあるCEAの研究所に現存している>



ジョリオ=キュリーは1942年からフランス共産党のメンバーでだったが、戦後ほとんど問題にならなかった。共産党員とドゴール支持派は共謀していた。しかし、時代は変わった。冷戦が表面化する。共産党の公的な平和路線と、フランスの科学の再建設の願いとの間に溝ができ、ジョリオ=キュリーは辞任に追い込まれた。彼は、核爆弾の禁止を要求する「ストックホルム声明」に署名した最初の人物である。ジョリオ=キュリーは、平和利用にのみを宣言し、1950年に解任されてしまった。
赤狩りがCEAに襲いかかり、共産党の学者がすべて転向させられた。ジョリオ=キュリーに代わってピエール・ギヨマが就任する。鉱山技師である彼は、戦時中、ドゴールの<1940年、ロンドンで設立した政府組織自由フランスの>情報局、BCRA(情報・行動中央局)のエージェントだった。フランス解放後、燃料担当長に突然任命され、フランスの石油産業を創設。ギヨマは、フランスのエネルギーの自立に強迫観念を持っていた。石油埋蔵量が莫大なアルジェリアを独立させないよう説得しながら、彼はまた、原子力に身を投じていった。
1914~18年に名を上げた大佐<アドルフ・ギヨマ>の息子であるピエール・ギヨマは、圧倒的な力を持つ爆弾を手に入れたかった。フランスの発展に欠かせないすぐれた核兵器を。CEAの科学者総数の3分の1におよぶ665人は1954年、核兵器製造に反対して署名活動を行ったが、骨折り損だった。核兵器はCEAの中心事業となり、ギヨメは思うがまま操った。「彼は自分の権力を疑う恐れなどない、生まれながらの策略家である」と同僚のひとりは言う。「彼は妥協を一切認めず、助言を一切求めず、人望などまったくおかまいなしで、公的であろうと私的であろうと自分が何をしているのか知る必要などなく、特に、ほかの問題と一切かかわらなかった。…… 彼は特に国会議員を避け、それ以上に、あちこちで首を突っ込む不愉快な存在のジャーナリストを避けた」 CEAは、フェリックス・ガイヤール、ピエール・マンデ・フランス(核兵器の原型の準備を容認した人物)、エドガー・フォレ、ギー・モレ(ピエールラット工場にゴーサインを出した人物)と受け継がれていく。
大統領に返り咲いたドゴールは1958年、CEAが勢いづいており、目標達成に近いのを見てとった。彼はすでに、最初の巨大原子力発電所マルクールに建設中の産業施設を訪問していた。第一号の黒鉛ガス原子炉G1は、年間10キロのプラトニウム供給に成功していた。つまり、核爆弾を毎年1個を製造できる量である。1960年2月13日、目標はついに達成された。アルジェリア領サハラ砂漠のレッガンヌで核実験を行う。フランス製の初の核爆弾だ。ドゴールはギヨマ(国防大臣に任命されていた)に電報を打った。「フランス万歳!」
すぐに敗北したりしない。広島に投下されたものより数千倍も強力な“H爆弾”と呼ばれる水素爆弾へとすぐに移行しなければならなかった。アメリカは、1952年からそれをすでに保有していた。ジャック・シャバン=デルマは、国防大臣だった1958年、ドイツとイタリアの国防大臣と秘密裏に合意調印し、高度な濃縮ウランを延々と生産するピエールラット軍事工場建設の道筋をつけた。水素爆弾の実験は、1968年8月24日、南太平洋の<フランス領ポリネシア島の>ファンガトーファで行われた。この試みが、ドゴールの最後の大きな喜びのひとつとなった……。

核爆弾が最優先だった。核の“平和利用”はその後に登場した。フランス電力公社(EDF)がシノンA1原子炉をはじめて運営したのは、1963年のことである。軍により多くのプルトニウムを供給する目的で、この原子炉は市民向けに電気を作ることを許された(それほど多くはない、70メガワットの電力でしかない)。これまでの原子炉のように、天然ウランで機能するフランス設計の黒鉛ガス原子炉だった。CEAにとって理想的な方式である。同じ出力であっても、天然ウラン原子炉は、濃縮ウランの原子炉より非常に多くのプルトニウムを生産する。シノンにはさらに2基の原子炉が建設され、その後、サン・ローランとブジェの2箇所で、黒鉛ガス原子炉の建設工事が行われた。
しかしすぐに、関連産業競争が激化した。CEAが黒鉛ガス原子炉に非常に執着するなか、EDFはショー原発で試験運転されたアメリカ方式の水圧型をほしがった。しかし、水圧型には深刻なハンディがあった。濃縮ウランで稼動するからだ。濃縮ウランは製造が複雑で、そのための工場が必要であり、その間、アメリカから購入しなければならない。こうした冒涜的な考えをドゴールに受け入れてもらうにはどうしたらいいか。しかし、水圧型原子炉を次々に建設したアメリカが証明したように、炉方式の競争はますます激しくなり、それにともない輸出はますます容易になるという有利な方向へ動いた。
1969年にドゴールが去った後、障害はなくなり、EDFはアメリカのウェスティンハウス(すでにフラマトンの資本提携していた)と契約した。フランス製のすべての原子炉はその後、アメリカのライセンスに従うことになった。
石油の価格が下落しても、原子力産業は実際になかなか発展しなかった。しかし、たった4ヶ月間(1973年10月から1974年1月)で、石油の価格が4倍に高騰した。原発推進派にとって、はじめての“石油ショック”が夢の機会となった。彼らの計画は準備が整っていた。この計画は、長年お互い顔見知りだった人たちの小集団によって完成されていた。この15年前、国防・原子力問題大臣のガストン・パルウスキーは、Péon(原子力による電力生産のため)委員会を立ち上げた。3ヶ月間、30人もの原子力ムラの立役者がそこで打ち合わせた。CEAとEDFの大物たち、国の高級官吏(産業、国防、財政)、そして、関連する巨大企業グループの経営責任者たち(Penchiney、Alsthom、Framatoneなど)。ギヨマのように、大半が鉱山団体に属した人物で、理工科学校卒業生のトップ10の学生たちが選ぶ関連産業だ。確固たる集団意識と業界にそびえる1つのヴィジョン。これらの“原発推進派”は当然、確信していた。彼らは理由を具体化していった。夢見がちな人たちに向けて。彼らは栄光と権力に取りつかれ、フランス帝国への懐古趣味を持っていた。フランスの軍事・原子力産業の総合企業の中心で、巨額な予算と巨大な組織が見積もられた。すべての管理を免れた。原子力だけは、と納得させ、産業界で自分たちの方針をまい進した。フランス人はそれに従った。
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by k_nikoniko | 2012-10-16 13:07 | 原発・核
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